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第21話 灰色の追憶、狂王の業火
帝都ガルドラに停滞していた冬の空気は、主君シュハールの不在という空白を埋めるかのように、一層その鋭さを増していた。
国境地帯で発生した小規模な小競り合いの視察のため、シュハールは数日間、宮殿を離れることとなった。主を送り出したあとのカーツの胸には、奇妙な空虚感が広がっていた。首に嵌められた銀の鎖は、主の不在を示すかのように重く、冷たく肌を噛む。
(陛下がいらっしゃらないだけで、これほどまでに……)
かつての彼なら、これを好機と捉え、脱走の一手でも考えたはずだった。しかし、今のカーツにとって、シュハールのいない静寂はただの孤独でしかなかった。淫らに熟れきった肉体は、主の粗野な愛撫を、自分を「手入れ」するあの熱い掌を、無意識のうちに求めて疼いている。
その静寂が破られたのは、シュハールが去って三日目の午後だった。
「カーツ様、お届け物でございます。……陛下には内密に、との言伝を預かっております」
不審な下級従僕が持ってきたのは、粗末な麻袋だった。本来、奴隷である彼に私的な贈り物が届くはずはない。しかし、その従僕は「かつての同胞からの、せめてもの弔いです」と囁き、足早に去っていった。
それが、黒鉄の派閥の中でもシュハールの苛烈な統治に異を唱える「反シュハール派」による、狡猾な工作であるとは、その時のカーツは知る由もなかった。
自室で、震える手で麻袋を解く。
中から転がり落ちたものを見た瞬間、カーツの呼吸は凍りついた。
「あ……っ……ぁ……」
それは、銀色を失い、赤黒い血と泥にまみれた金属の破片――かつて彼が率いていた「ノルズガルド騎士団」の兵士たちが身につけていた、紋章入りの胸当てや剣の鍔であった。
さらには、雪のように白かったはずの戦旗の端切れ。そこには、こびりついたまま乾ききった、黒ずんだ血痕が痛々しく残っている。
カーツは、その中の一つ、歪んだ銀の指輪を手に取った。
見覚えがあった。それは、彼が最も目をかけていた若き副官の持ち物だったはずだ。将来を嘱望され、ノルズガルドの未来を背負うはずだった若者。彼は、あの撤退戦の最期、王子を逃がすために盾となり、雪の中に散ったのだ。
「……すまない……。すまない……っ」
その瞬間、カーツの脳裏に、あの凍てつくようなノルズガルドの冬が鮮烈に蘇った。
吹き荒れる吹雪、叫び声、そして温かい血の匂い。
かつての自分は、彼らの誇りであり、盾であった。その自分が今、どうしている?
仲間を殺し、国を滅ぼした男の腕の中で喘ぎ、自ら翡翠の珠をその身に沈める屈辱さえ受け入れ、その寵愛に蕩けることに安らぎを見出している。
鏡を見れば、首に鎖を巻き、陶器のように艶めく淫らな肢体を晒した自分がいる。
この身体は、死んでいった部下たちの血を啜って生き永らえ、あろうことか敵の愛撫に悦びを感じるように作り変えられてしまった。
「ああぁああ……っ!!」
カーツは床に崩れ落ち、遺品を掻き集めてその胸に抱き締めた。
冷たくて、硬い。だが、これこそが自分の本来あるべき世界の温度だったはずだ。
シュハールに与えられた春のような暖かさも、星の見える風呂も、すべてはまやかしであり、死者への冒涜に他ならない。
(私は……なんて浅ましく、醜い……!)
カーツは泣きながら、這いつくばった。
そして、古えのノルズガルドの作法に則り、北の神への祈りを捧げ始めた。
震える手で、布の端切れを使って遺品を磨き始める。自らの涙で泥を落とし、乾いた血を拭おうとする。その姿は、狂気と信仰の狭間で揺れる、哀れな亡霊のようでもあった。
「……何をしている」
その声は、雷鳴のように部屋に響き渡った。
予定よりも早く視察を切り上げたシュハールが、軍靴の音を立てて部屋に踏み込んできたのだ。
カーツは跳ね上がるように顔を上げた。
だが、その手にはまだ、汚れを拭いかけの古い胸当てが握られている。
シュハールの黄金の瞳は、床に散らばった「ゴミ」と、それを抱いて涙を流すカーツを瞬時に捉えた。
部屋に満ちる、重苦しいまでの殺気。シュハールの表情は、もはや情事の際に見せる悦楽のそれではなく、戦場を平らげる「狂王」そのものの冷酷さに支配されていた。
「陛下……っ、これは……っ」
「……死人のゴミを抱いて、何をしていると聞いたのだ。カーツ」
シュハールの声は低く、地を這うような怒りを孕んでいた。
彼にとって、カーツのすべては自分の所有物である。その肉体も、魂も、そして彼が流す涙の一滴までもが。
それなのに、目の前の奴隷は、自分という生ける王を差し置いて、すでに価値を失った死者の遺骸に、あろうことか「敬愛」の眼差しを向けている。
「死んだ奴らの記憶に縋り、俺の与えた安息を汚すか」
「彼らは……私の誇りだったのです。私は、彼らの長として……っ」
「誇りだと?」
シュハールは鼻で笑うと、無造作に歩み寄り、カーツの手から強引に胸当てを奪い取った。
「やめてください! 陛下……っ!」
カーツの懇願を無視し、シュハールはその「ゴミ」を、部屋の隅で赤々と燃える暖炉の火の中へ、無造作に蹴り込んだ。
「あぁあああッ!!」
カーツは悲鳴を上げ、炎の中に手を伸ばそうとした。だが、それよりも早く、シュハールが彼に繋がれた鎖を全力で引き絞った。
「ぐっ、が、ぁ……っ!」
首を絞められ、カーツの身体が床を滑り、シュハールの足元へと引き剥がされる。
暖炉の中では、魔導の炎が遺品を包み込み、古い革や布が焦げる嫌な臭いが立ち上った。カーツの心の拠り所が、音を立てて灰になっていく。
「見ろ、カーツ。死んだ者に意志などない。ましてや、お前を守る力などな。あるのはただ、燃えて消えるだけの無価値な事実だけだ」
シュハールは鎖を短く持ち直し、カーツの髪を掴んで無理やり自分を見上げさせた。
その顔は、慈悲を切り捨てた征服者の顔だった。
「余計なことを考えさせたのは、俺の落ち度だ。……数日の不在で、飼い犬が主の顔を忘れるとはな」
「陛下……、っ、殺して……どうか、殺してください……」
絶望に染まったカーツの瞳。だが、シュハールはその瞳を、さらに深い絶望と快楽の泥濘に沈めることを決意していた。
「殺さぬ。お前には、死ぬことさえ許さぬ。……何も考えられぬようにしてやる。過去も、誇りも、死んだ仲間の名前さえも、すべてを俺の熱で焼き尽くしてやる」
シュハールは、部屋の隅に控えていた側近に、氷のような声で命じた。
「この遺品を届けたネズミどもを洗え。一人残らず、その一族ごと根絶やしにしろ。この男の目に入る場所に、俺以外の意志を介在させた罪を、その血で購わせるのだ」
「御意に」
側近が去ったあと、シュハールは荒々しくカーツを担ぎ上げ、寝台へと投げ飛ばした。
「鳴け、カーツ。死者の名前ではなく、俺の名を呼べ。お前を支配し、生かしているのは、この俺だけだ」
鎖を握りしめたシュハールの手は、白くなるほどに力が入っていた。
それは愛というにはあまりに苛烈で、執着というにはあまりに狂気じみた、王の宣言であった。
窓の外では初雪が猛吹雪へと変わり、帝都を白銀に染めていく。
だが、その雪さえも、カーツの心に灯った絶望の炎を消すことはできなかった。
この夜、帝都では、反シュハール派の一掃が始まった。
文字通り、一族の赤子に至るまでを根絶やしにするシュハールの徹底した粛清は、帝国内に凄まじい恐怖を撒き散らすことになる。
すべては、ただ一人の奴隷の心を、自分だけのものに繋ぎ止めるために。
狂王の愛は、もはや誰にも止められない領域へと足を踏み入れていた。
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