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第50話
「よお、伊織」
スマホを弄る伊織に悠馬が声をかけた。
「おかえり。颯希大丈夫?」
スマホを鞄へと戻し、颯希を見る。
「平気だよ」
優しく笑ってみせるけれど、颯希の内心は落ち着かない。
目の前で言葉を紡ぐ伊織の唇を見るだけで先ほどのことが脳内でリプレイされてしまうからだ。
けれど、颯希のその笑顔に完全に安心しきった伊織はゲームを始めるよう促した。
五ゲーム全てが終了し、ボウリング場を出て、駅へと向かう。
現在地から考えると、三人の乗るべき電車はみんなバラバラ。
それをわかっているのか、もとからその速さなのか。
ゆっくりとした歩調。
「んー!楽しかったわー」
悠馬が大きく伸びをする。
「俺も」
「そうだね。俺も楽しかったよ」
疲れから、小さな声で話す伊織に続いて、颯希も返した。
他愛のない話をして、いつものように三人で笑い合うと、すぐに駅に到着してしまった。
各々、別れを告げてホームへと向かって行った。
颯希は電車に乗り、空席へと腰を下ろした。
イヤホンをつけ、音楽をきく。
(今日は、本当に色々あったな)
自らの右の掌を眺め、朝のことを思い出し、ため息をつく。
(あんなとこで、俺は何してるの?)
神崎のことで自分に余裕がなくなっていたことを反省した。
恥ずかしさがこみ上げ、両の掌で顔を覆う。
理性を飛ばし、なんてことをしてしまったのかと自分を責めるけれど、それ以上に喜びを感じた自分自身が憎たらしい。
押し込められた独占欲がその姿を現そうとしている。
しっかりしなくては、と心の中で何度も唱えた。
「ただいま」
玄関を過ぎ、リビングの様子を除く。
リビングではソファに座り、テレビを見ている四歳年下の弟、優樹(ゆうき)がいた。
「おかえりー」
優樹はテレビに視線を向けたまま、声を上げた。
颯希は自分の部屋に荷物と上着を置き、リビングへと戻った。
「りんごジュース、飲む?」
「飲むー」
冷蔵庫からりんごジュースを取り出し、二つのグラスに入れる。
ジュースを冷蔵庫へと戻し、両手にグラスを持って優樹の隣に座った。
「はい」と手渡すと、優樹は「ありがとう」と両手で受け取る。
「お姉ちゃんは?」
颯希が尋ねると、優樹はふるふると首を横に振った。
両親は共働きで、まだ帰ってきていない。
優樹の反応から、姉の瑞樹(みずき)はどこかに出かけているらしい。
現状の把握が済んだ直後、優樹が横から颯希の顔を覗き込む。
「兄ちゃん今日どこ行ってたの?」
「えっとね、スケートにバッティングセンター、それにボウリングかな」
尋ねられたことに淡々と答えると、優樹が目を見開いた。
「えっ。今日一日で?」
「やっぱり、驚くよね」
信じられないとばかりに目を瞬かせる優樹の横で、うんうんと頷く颯希。
「楽しかった?」
「うん」
両手でりんごジュースを持つ弟が「そっか。よかったね」と笑った。
「俺、風呂入ってくるね」
りんごジュースを飲み終え、立ち上がり、浴室へと向かう。
シャワーを曇ったガラスにかける。
ガラスに映っていた自らの唇には、当然傷が残っていた。
けれど、朝それを見たときのような、暗い気持ちではない。
大変な一日ではあったけれど、颯希の落ち込んだ気持ちを明るくしてくれた。
今考えれば、落ち込み気味だった颯希の気持ちを考えて悠馬が三人で遊ぶことを提案してくれたのだとわかった。
同性を愛するのは大変なことだ。
けれど、理解して、応援してくれる人がいることに心が温かくなる。
シャワーを浴び、石鹸で体を洗い終え、浴槽に浸かる。
「あったかい」
一日で遊び過ぎたのだろう。
身体中の筋肉が痛い。
四月といえど、まだまだ上旬。
寒さに体の怠さも増すばかりだった。
重い体にお湯が心地いい。
ふと、両手を見て、顔を赤くする。
暖かさから連想して、伊織を抱きしめたときのことを思い出してしまったからだ。
抱きつかれたことなんて、覚えてないくらいたくさんあるのに。
回し飲みだって、自然としてきていたことなのに。
今では思い出すだけで赤面してしまう。
「…好きになるって、不思議だなぁ」
無意識に溢れた言葉が浴室に響く。
「…。もう出よう」
言ったのは自分自身なのに、それを聞くとなんとなく気恥ずかしく感じた。
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