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■第12話「ネタバレ」
翌朝、俺は鏡の前でミナ・クロフォードを見ていた。昨日までのミナは、復讐のための変装だった。
女みたいだと言われて傷ついた俺が、その“女みたい”を使って三人を負かすための姿だった。でも今日は違う。
今日は、ミナを終わらせる日だ。俺はウィッグの毛先を整え、リボンを結び直した。
スカートの裾も、いつもより丁寧に直した。最後の日なのに、いや、最後の日だからこそ、変なところで失敗したくなかった。
机の上には、ミナ計画ノートが開かれている。今日の目標。
ネタバレする。復讐を完了する。
絶対にひるまない。
俺はその三行を見つめて、ペンを握り直した。昨日、俺は勝った。
桐生朔は「お前だからだろ」と言った。瀬名陽斗は「毎日誘いたい」と言った。神崎凪は「見失いたくないだけ」と言った。
三人とも、ミナを特別に見ている。俺が作った女の子に落ちた。
なら、あとは正体を明かすだけだ。残念だったな。
お前らが好きになったのは、女の子じゃない。俺だよ、朝比奈湊だ。
完璧な復讐。完璧なはずなのに、胸の奥は朝からずっと落ち着かなかった。
「……勝ったんだから、堂々としろ」
鏡の中のミナに向かって言う。ミナは、少しだけ泣きそうな顔をしていた。
やめろ。そういう顔をするな。
今日は泣く日じゃない。勝つ日だ。
****
学校に着くと、いつもの教室がいつも通りに俺を迎えた。
「ミナちゃん、おはよう」
「おはようございます」
女子たちに笑って返す。このやりとりも、たぶん今日で最後だ。
そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。ミナとして過ごした日々は、めちゃくちゃだった。
更衣室で詰みかけ、風に負けかけ、名前を間違え、似ていると疑われ、体調を崩し、男子トイレに入った。最悪だった。
それなのに、全部が嫌だったわけじゃない。そのことが、今日の俺を一番落ち着かなくさせていた。
席に座ると、隣の朔がこちらを見た。
「おはよう」
「おはようございます」
「……今日は、ずいぶん気合い入ってるな」
鋭い。本当に、最後まで鋭い。
俺はミナとして笑った。
「大事な日なので」
朔の目が、少しだけ細くなった。
「そうか」
それだけだった。追及してこない。
その静かさが、逆に怖かった。前の席に陽斗が来た。
「ミナちゃん、おはよ。今日、放課後って空いてる?」
心臓が跳ねた。俺が呼び出す前に向こうから来るな。
俺は表情を崩さないように、ゆっくり頷いた。
「はい。少し、話したいことがあります」
「俺も」
陽斗は笑った。でも、その笑顔は少しだけ緊張していた。
何だよ。何でお前が緊張してるんだよ。
後ろから凪の声がした。
「屋上?」
俺は思わず振り返った。
「……どうして分かったんですか」
「行きそうな顔してた」
「顔で場所まで分かるんですか」
「少し」
「怖いです」
「ごめん」
凪はすぐ謝った。そのやりとりも、たぶん今日で最後だ。
そう思った瞬間、胸の奥が少し詰まった。違う。
終わらせるために来たんだ。俺はミナとして一日を過ごした。
授業中、朔はいつものように隣にいた。陽斗は休み時間ごとに話しかけてきた。凪は遠くから、でも確実にこちらを見ていた。
いつもと同じ。でも、今日だけは全部が違って見えた。
俺はミナ計画ノートを開けなかった。開いたら、手が震えそうだったからだ。
****
放課後。俺は三人に短く言った。
「屋上に来てください。三人で」
朔は頷いた。陽斗は少しだけ目を伏せた。凪は静かに「分かった」と言った。
誰も理由を聞かなかった。それが、少しだけ引っかかった。
屋上のドアを開けると、夕方の風が吹いた。今日は風が弱い。
スカートの裾を押さえなくても大丈夫なくらいの風だった。俺はフェンスの近くまで歩き、振り返った。
桐生朔。瀬名陽斗。神崎凪。
三人が並んで俺を見ている。俺が復讐したかった三人。
俺が傷ついた言葉をくれた三人。そして、ミナとして過ごした日々に、何度も助けてくれた三人。
全部、今日終わらせる。俺は息を吸った。
「話があります」
声は、思ったより落ち着いていた。朔が静かに頷く。
「聞く」
「うん」
陽斗も言った。凪は何も言わずに、ただ俺を見ていた。
その目が逃げ道みたいで、少しだけ腹が立った。逃げない。
今日は逃げない。
「残念だったな」
俺は言った。三人の表情は変わらない。
でも、俺は続けた。
「俺、女じゃないんだけど」
風が、屋上を抜けた。
「ミナ・クロフォードなんて、いない」
喉が少しだけ震えた。でも、止まらない。
「俺だよ」
俺はウィッグに手をかけた。心臓が、痛いくらい鳴っている。
「朝比奈湊」
ウィッグを外した。髪が少し乱れる。
女子制服を着たままの、朝比奈湊がそこにいた。
「どうだよ、最悪だろ」
言えた。言った。勝った。
そのはずだった。朔が俺を見た。陽斗が俺を見た。凪が俺を見た。
そして、朔が、ほんの少し眉を上げた。
「……で?」
俺は固まった。陽斗が困ったように笑った。
「知ってたけど?」
時間が止まった。凪が、いつもの静かな声で言った。
「最初から」
何かが、頭の中で派手に壊れた。
「……は?」
自分の声が、情けないくらい小さくなった。朔は俺から目をそらさなかった。
「だから、知ってた」
「待て。何を」
「ミナが、お前だってこと」
「最初から?」
陽斗が、少しだけ申し訳なさそうに頷いた。
「うん。転入初日から」
「転入初日から!?」
声が裏返った。最悪だ。
復讐者として最悪だ。
「いや、嘘だろ。だって俺、ちゃんとミナだったし。ウィッグも制服も、口調も」
「歩き方」
朔が言った。
「ペンの持ち方。目をそらすタイミング。怒りそうなのを我慢する顔。全部、朝比奈だった」
「瀬名は?」
俺は半分叫ぶように聞いた。陽斗は少しだけ目を伏せた。
「怒った時の目と、距離取る時の動き。あと、袖を掴みそうで掴まない癖」
「そんな癖あるのかよ、俺」
「あるよ」
「凪は?」
凪は静かに答えた。
「声。呼吸。隠し方」
「怖いんだよ、お前は!」
思わず叫んだ。凪は「ごめん」と言った。
謝るな。謝られると、こっちがさらに混乱する。
俺はウィッグを握ったまま、三人を見た。意味が分からない。
最初から知ってた? じゃあ、何だ。
俺は今まで何をしていた。ミナとして転入して、緊張して、詰んで、助けられて、作戦を立てて、誘惑して、勝ったと思って。
全部、見られていた?
「なんで言わなかったんだよ!」
声が震えた。怒りなのか、恥ずかしさなのか、自分でも分からなかった。
朔は静かに答えた。
「言ったら、お前逃げるだろ」
陽斗が続ける。
「あと、めちゃくちゃ頑張ってたから」
凪が言った。
「自分で言うまで、待つって決めた」
「待つって何だよ。俺はお前らを騙してたんだぞ」
「うん」
陽斗は頷いた。
「でも、騙されてはなかった」
「最悪だろ、それ!」
俺は叫んだ。自分でも、何に怒っているのか分からなかった。
騙せなかったこと。最初からバレていたこと。
それなのに、三人がずっと付き合ってくれていたこと。全部が恥ずかしくて、悔しくて、苦しかった。
「俺は、お前らに女だと思わせて好きにさせて、男でしたって言って、しかも朝比奈湊でしたって言って、ざまぁみろって言いたかったんだよ!」
言ってしまった。ミナ計画の本当の目的。
俺の、かなり性格の悪い復讐。でも、もう止まらなかった。
「お前らが、可愛いとか、女みたいとか、女だったらとか言うから」
喉が痛い。
「俺は男なのに。俺のままじゃ駄目みたいに聞こえたから」
風が頬を撫でた。少し冷たかった。
「だから、女みたいって言われるなら、その“女みたい”で負かしてやろうと思ったんだよ」
涙が出そうだった。でも、泣きたくなかった。
ここで泣いたら、また凪に「泣きそうな顔」だと思われる。俺は唇を噛んだ。
「なのに、最初から知ってたって何だよ。じゃあ俺、ただ一人で必死に変なことしてただけじゃん」
陽斗が一歩近づきかけて、止まった。俺が逃げない距離で。
「湊」
「その名前で呼ぶな」
言った瞬間、自分で胸が痛くなった。でも、止められなかった。
「ミナに優しかっただけだろ。女子だと思ってたから、助けたんだろ。俺には、あんなことしなかったくせに」
その言葉で、三人の顔が変わった。朔が、はっきりと目を伏せた。
陽斗が、唇を噛んだ。凪が、ほんの少しだけ苦しそうな顔をした。
最初に口を開いたのは、朔だった。
「違う」
いつもより低い声だった。でも、強く押しつけるような言い方ではなかった。
「ミナだから助けたんじゃない」
「じゃあ何だよ」
「お前だったからだ」
息が詰まった。朔は少しだけ拳を握った。
「更衣室の時も、スカートの時も、名前の時も、トイレの時も。全部、お前が困ってたから助けた」
「……でも、俺の時は」
「できてなかった」
朔は逃げなかった。目をそらさなかった。
「湊の時に、ちゃんとできてなかった。だから、俺が悪い」
その言い方に、俺は何も言えなくなった。朔は続けた。
「手、ちっさとか、赤くなってるとか。お前が反応するのが見たかった。お前がこっちを見るのが嬉しかった。怒った顔も、言い返してくる声も、俺に向けられてるのが嬉しかった」
朔の声は静かだった。でも、ところどころ少し苦かった。
「でも、それをお前が嫌がってるって、ちゃんと見ようとしてなかった」
胸の奥が、痛くなった。
「俺は見てたつもりだった。お前が赤くなるのも、怒るのも、黙るのも。でも、本当に見なきゃいけないところを見てなかった」
朔は、少しだけ息を吐いた。
「お前が傷ついた顔をする前に、俺は止めるべきだった」
「……朔」
呼んでしまってから、俺は唇を噛んだ。朔の目がわずかに揺れた。
でも、そこで喜ぶような顔はしなかった。ただ、真面目に言った。
「ごめん、湊。構いたかったなんて、言い訳にしかならない。嫌な言い方でお前をこっちに向かせようとした」
朔はまっすぐ俺を見た。
「次に言ったら、怒っていい。いや、怒れ。俺がちゃんと聞くまで」
ずるい。そんな言い方をされたら、怒り続けるのが少し難しくなる。
俺はウィッグを握ったまま、目をそらした。
「……今も怒ってる」
「分かってる」
「分かってないだろ」
「分かるまで聞く」
またそれだ。真面目すぎる。
腹立つくらい、まっすぐだ。
次に、陽斗が口を開いた。いつもの明るさはなかった。
でも、暗く沈みすぎてもいなかった。ちゃんと俺に向き合おうとしている顔だった。
「湊」
「……何」
「ごめん」
陽斗は最初にそう言った。
「俺が言った“女だったら絶対モテる”ってやつ。あれ、一番駄目だった」
胸が、ぎゅっとなった。聞きたかった言葉のはずなのに、聞くと痛い。
陽斗は続けた。
「俺、湊のまま可愛いって言いたかったんだと思う」
「……は?」
「いや、言い方が変だけど。湊が笑うところとか、怒るところとか、パン食べてる時にちょっとソースつけそうになるところとか。そういうの見て、可愛いって思ってた」
「だから何で食い方を見るんだよ」
「ごめん。それもごめん」
陽斗は一瞬だけ困ったように笑いかけて、すぐ真面目な顔に戻った。
「でも、それをどう言えばいいか分かんなくて、女子よりとか、女だったらとか、変な言葉にした」
俺は何も言えなかった。
「湊のままでいいって言いたかったのに、湊のままじゃ駄目みたいに聞こえる言い方した」
陽斗の声が少し震えた。
「それ、俺が一番駄目だった」
風がまた吹いた。陽斗の前髪が少し揺れた。
「湊が笑ってたから、大丈夫だと思ってた。笑って流してくれたから、俺、許された気になってた」
「……俺も笑ったから」
「うん。でも、笑わせたのは俺だよ」
その言葉で、胸の奥がじわっと熱くなった。陽斗は逃げなかった。
「本当にごめん。湊が近くにいるの、嬉しかった。名前呼ばれるのも、昼休みに一緒にいるのも、本当は全部嬉しかった。だから調子に乗った。近づきすぎた。嫌がられてるのに、冗談で済ませた」
「……お前、本当に近いんだよ」
「うん」
「全体的に」
「うん」
「存在そのものが近い」
「それも、うん」
いつもならここで笑うのに、陽斗は笑わなかった。
「でも、これからは聞く。近づいていいか、触れていいか、誘っていいか。ちゃんと聞く」
「……毎日は重い」
「うん。毎日は重いって分かった」
「本当に?」
「本当に。でも、誘いたいとは思ってる」
「そこが重いって言ってるんだよ」
陽斗は少しだけ眉を下げた。
「じゃあ、許可制にする」
「何だよ、それ」
「湊がいいって言った日だけ」
俺は返事に困った。困ったけど、嫌ではなかった。
それが余計に困った。陽斗は、真っ直ぐ俺を見た。
「女だったら、じゃない。ミナだったから、でもない」
息が止まった。
「湊だから、好きだった」
その言葉は、まっすぐすぎた。俺の胸の真ん中に、逃げ場なく届いた。
「……男だぞ」
「知ってる」
「騙してたんだぞ」
「知ってる」
「性格も悪いぞ」
「それも知ってる」
「即答するな!」
思わず叫んだ。陽斗はそこで、少しだけ笑った。
その笑いがいつもの陽斗に近くて、俺は少しだけほっとしてしまった。
最後に、凪が口を開いた。凪はずっと黙っていた。
でも、その沈黙は逃げではなかった。たぶん、俺が朔と陽斗の言葉を受け取るまで待っていた。
「湊」
「……何」
「ごめん」
凪の声は静かだった。いつも通り静かで、でも、いつもより少しだけ深かった。
「声が小さいとか、泣きそうな顔とか、女みたいな匂いとか。全部、言い方を間違えた」
「本当に間違えすぎだろ」
「うん」
否定しない。それが、少し腹立たしい。
「俺は、見てた」
「知ってる。怖いくらい知ってる」
「でも、見てたのに、守る言葉を選べなかった」
その言葉に、俺は黙った。凪は俺を見ていた。
でも、追い詰める視線ではなかった。
「湊が嫌がる言い方をした。分かってるつもりで、分かってなかった」
「お前は、分かりすぎるくらい分かってるだろ」
「違う」
凪は首を横に振った。
「顔は見てた。声も聞いてた。呼吸も、間も、隠し方も分かった。でも、湊がその言葉でどうずれるかは、ちゃんと分かってなかった」
どうずれるか。その言い方に、胸が痛くなった。
「泣きそうな顔って言えば、守りたいって伝わると思ってた」
「伝わるわけないだろ」
「うん」
「普通に傷つくわ」
「うん」
「匂いとか、さらに意味分かんないし」
「ごめん」
「怖いし」
「うん」
凪は、全部受け止めた。ひとつも言い訳しなかった。
「でも、好きだった」
静かに言った。俺は息を止めた。
「小さい声も、怒る前に息を吸うところも、泣きそうなのに泣かないところも。全部、見てた」
「……だから怖いって」
「うん」
凪は少しだけ目を伏せた。
「でも、怖がらせたいわけじゃなかった。見失いたくなかった」
昨日の言葉が、胸の中で重なる。見失いたくない。
隠れても、分かるから。あれは、ミナに向けられた言葉だと思っていた。
でも違った。最初から、俺だった。
「湊がミナになっても、分かった」
「……それ、ちょっと屈辱なんだけど」
「ごめん」
「いや、そこは謝るな。余計むかつく」
「難しい」
「難しいのはこっちだよ」
凪は少しだけ目元を緩めた。ほんの少し。
でも、俺には分かった。その顔が、ずるいと思った。
「これからは、勝手に決めない」
凪が言った。
「湊が嫌だと言ったら、止める。分からない時は、聞く」
「お前、聞かなくても分かるだろ」
「分かることと、聞かなくていいことは違う」
また、そういうことを言う。俺は何も返せなくなった。
凪は続けた。
「でも、いなくなりそうなら、止める」
「重い」
「うん」
「そこは変える気ないのかよ」
「そこは、少し努力する」
「全員努力ばっかりだな」
呆れた声になった。でも、さっきまでみたいに苦しくはなかった。
三人は、それぞれ違う言葉で謝った。朔は、見ていたのに見ていなかったこと。
陽斗は、湊のままを好きだったのに、言葉を間違えたこと。凪は、分かっているつもりで、傷つける言葉を選んだこと。
全部、俺の中に刺さっていた棘だった。謝られたからといって、すぐ抜けるわけじゃない。
でも、初めて誰かが、その棘の場所を見つけてくれた気がした。俺はウィッグを握りしめた。
「……俺、まだ怒ってるからな」
声が少し震えた。でも、ちゃんと言えた。
「傷ついたのは本当だし、騙してたのも本当だし、お前らが最初から知ってたのも意味分かんないし、何か全部むかつく」
朔が頷いた。
「分かってる」
「分かってないだろ」
「分かるまで聞く」
陽斗も頷いた。
「すぐ許してとか言わない」
「言ったら殴る」
「殴られるのは嫌だけど、言わない」
凪が静かに言った。
「待つ」
「その待つっていうのも、ちょっと腹立つ」
「じゃあ、近くにいる」
「もっと腹立つ」
「離れる?」
「……それは」
言いかけて、止まった。三人が見ている。
俺は顔をそらした。
「今は、知らない」
それが限界だった。夕方の風が、屋上を通り抜ける。
ミナは終わった。復讐も、たぶん終わった。
でも、何も解決していない。むしろ、始まってしまった気がする。
その時、陽斗がふと俺の手元を見た。
「それ、ウィッグ」
「何だよ」
「握りすぎ。痛くない?」
「ウィッグは痛がらないだろ」
「湊の手」
言われて、自分の指が白くなるほど力を入れていることに気づいた。
俺は慌てて手を緩めた。朔が少しだけ息を吐く。
「ほんと、無理するとすぐ手に出るな」
「見るな」
「見る」
「見るなって言ってるだろ」
「今のは見ていいところだろ」
「勝手に決めるな」
言い合いになりかけて、陽斗が少しだけ笑った。凪も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その空気の緩み方が、悔しい。悔しいのに、少しだけほっとした。
俺は鞄を持ち直した。
「帰る」
陽斗が一歩動きかけた。
「送る?」
「いらない」
即答した。陽斗はすぐに止まった。
「分かった」
その素直さが、今は少しだけありがたかった。朔が言った。
「明日、来るか」
「学校には来る」
「湊として?」
胸が鳴った。俺は少しだけ黙ってから、答えた。
「……男子制服で行く」
凪が静かに頷いた。
「うん」
何だ、その安心した顔は。腹立つ。
でも、嫌じゃなかった。俺は屋上のドアへ向かった。
出る直前、振り返らずに言った。
「あと」
三人の気配が止まる。
「ミナ計画ノートのことは忘れろ」
陽斗が、ものすごく頑張って笑いをこらえる気配がした。
「はい」
「瀬名、今笑っただろ」
「笑ってない。笑ってないです」
「敬語になるな。余計怪しい」
朔が低く言った。
「忘れる努力はする」
「努力じゃなくて忘れろ」
凪が最後に言った。
「陥落度」
「神崎!」
「忘れる」
「絶対忘れないやつだろ!」
叫んでから、俺は屋上を出た。階段を下りながら、顔が熱くて仕方なかった。
最悪だ。全部バレていた。
復讐は失敗。ネタバレは不発。
三人は最初から知っていて、最初から俺を見ていた。それなのに。
胸の奥は、思ったほど真っ暗ではなかった。むしろ、ずっと引っかかっていた何かが、少しだけほどけた気がした。
****
家に帰って、俺はミナ計画ノートを開いた。手が少し震えた。
今日の成果。
ネタバレした。
結果。
全員、知ってた。
最初から。
復讐。
失敗。
ざまぁ。
できなかった。
俺はそこまで書いて、ペンを止めた。悔しい。恥ずかしい。むかつく。
でも。
三人は、ミナじゃなくて俺を見ていた。朝比奈湊だと知っていて、助けていた。
ちゃんと謝った。俺が嫌だったところを、逃げずに見た。
それは、どう受け止めればいいのか分からない。俺はノートの最後に、小さく書いた。
明日、男子制服で行く。
朝比奈湊として。
それが今日の俺にできる、精一杯の結論だった。
****
その頃、屋上にはまだ三人が残っていた。陽斗がフェンスにもたれて、深く息を吐く。
「怒ってたね」
朔が頷いた。
「当然だろ」
「でも、言ってくれた」
陽斗の声は少しだけ震えていた。
「俺、湊があんなに傷ついてたの、ちゃんと見てなかった」
朔は黙っていた。凪も黙っていた。
「見てたつもりだった」
朔が低く言う。
「でも、自分の見たいところばっか見てた」
凪が静かに続けた。
「これから見る」
陽斗が頷いた。
「うん。ちゃんと、湊として」
しばらく沈黙が落ちた。それから、陽斗が少しだけ笑った。
「でも、ノートは本当に可愛かったね」
朔が睨む。
「今言うな」
「ごめん。でも、陥落度って」
「瀬名」
「はい、忘れる努力します」
凪が静かに付け足した。
「忘れないけど、言わない」
「凪、それが一番正直でひどい」
三人は、少しだけ笑った。でも、その笑いは軽くなかった。
明日、湊が男子制服で来る。もうミナではなく、朝比奈湊として。
そこから、ちゃんと始め直すために。
もちろん俺は、そんな会話を知らない。
****
俺はただ、ノートを閉じて、ベッドに倒れ込んでいた。
復讐は失敗した。完全に失敗した。
なのに、胸の奥でまだ何かが終わっていない。むしろ、ここから何かが始まる気がしていた。
それが悔しくて、恥ずかしくて、少しだけ怖くて。俺は布団を頭までかぶり、小さく呟いた。
「……最悪だ」
でも、その最悪は、思っていたより少しだけ温かかった。
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