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■第13話「まあいいや」

翌朝、俺は久しぶりに男子制服へ袖を通した。白いシャツ。ネクタイ。ズボン。いつも着ていたはずの制服なのに、妙に新鮮だった。 スカートの裾を気にしなくていい。階段で後ろを警戒しなくていい。風が吹いても人生が終わらない。 それだけで、世界が少しだけ楽に見えた。でも、鏡の中の俺は、全然楽そうな顔をしていなかった。 「……何だよ、その顔」 自分に向かって言う。鏡の中には、朝比奈湊がいた。 ミナ・クロフォードではない。ウィッグもない。女子制服もない。いつもの男子制服を着た、いつもの俺。 なのに、昨日までのミナが完全に消えたわけじゃない気がした。女子制服を着て、教室に入って、三人に助けられて、勝ったと思って、全部バレていたことを知った。 その全部が、俺の中に残っている。ミナは嘘だった。 でも、ミナとして感じたことまで、全部嘘だったわけじゃない。それが、朝からずっと俺を困らせていた。 机の上には、ミナ計画ノートが置かれている。昨日の最後のページには、こう書いてある。 明日、男子制服で行く。 朝比奈湊として。 俺はその文字を見て、ノートを閉じた。今日は、ミナじゃない。 復讐者でもない。朝比奈湊として学校へ行く。 それだけだ。 **** 玄関で靴を履いていると、澪が廊下から顔を出した。 「お、湊に戻ってる」 「戻ってるって言うな。元から俺だ」 「はいはい。男子制服、似合ってるよ」 「……どうも」 「素直じゃん」 「うるさい」 澪は少し笑ったあと、俺の鞄に視線を落とした。 「ノート、持っていくの?」 「持っていかない」 「そう」 「もう終わったし」 そう言うと、澪は少しだけ目を細めた。 「本当に?」 「……たぶん」 「たぶんね」 笑うでもなく、茶化すでもなく、澪はそう言った。俺は玄関のドアノブに手をかけた。 「今日、どうしたらいいと思う」 聞いてから、少しだけ後悔した。こんなことを澪に聞いたら、また変な助言をされるかもしれない。 でも、澪は意外にも真面目に答えた。 「怒っていいし、許さなくてもいいし、照れてもいいんじゃない?」 「最後のはいらない」 「いるよ。湊、照れるの下手だから」 「上手い照れ方なんてあるのかよ」 「ないけど、下手だと可愛い」 「行ってきます」 「逃げた」 澪の笑い声を背中に受けながら、俺は家を出た。通学路は、いつもと同じだった。 でも、俺の方が少し違っていた。駅前のガラスに映る男子制服の自分を見て、ほんの少しだけほっとする。 俺は男だ。朝比奈湊だ。そう確認できることが、今日は少しありがたかった。 でも同時に、ミナとして歩いた時の視線や、女子たちの優しさや、三人の守り方を思い出す。俺は、あの時たしかに傷ついていた。 でも、助けられたのも本当だった。その二つは、どちらか一つにできない。 **** 学校の正門が見えた瞬間、足が少し止まった。今日、教室に入ったらどうなるのか。 ミナがいなくなり、朝比奈湊が戻ってくる。クラスには、澪が適当に説明してくれているはずだ。 たぶん、交換留学生の期間が終わったとか、家庭の都合で早めに帰国したとか、そんな感じだろう。細かいことはギャグで処理する。 澪の最低な合言葉が、今日ほど頼もしく聞こえたことはない。教室のドアの前で、俺は一度だけ深呼吸した。 それから、ドアを開けた。 「おはよ」 教室のざわめきが、一瞬だけ俺に向いた。 「あ、朝比奈じゃん。体調大丈夫だった?」 「ミナちゃん、帰国したって朝比奈先生が言ってたよ」 「入れ替わりみたいなタイミングだな」 雑。あまりにも雑。 だが、誰も本気で疑っていない。人間は本当に適応力が高い。そして、澪の説明能力はたぶん教師としては駄目だが、物語処理能力だけは高い。 「まあ、ちょっと休んでた。心配かけた」 俺はいつもの声で返した。女子の一人が笑う。 「朝比奈くん、ミナちゃんに会えなくて残念だったね。ちょっと似てたのに」 心臓が跳ねた。でも、今日は逃げなかった。 「……そうらしいな」 「見たかった?」 「まあ、少し」 自分のことだけど。そう心の中で突っ込みながら、俺は席へ向かった。 隣の席には、桐生朔がいた。前の席には、瀬名陽斗。 後ろの方には、神崎凪。三人とも、俺を見ていた。 俺は席に座る。鞄を置く。椅子を引く。 いつもの動作のはずなのに、三人の視線が刺さって、妙に落ち着かない。 最初に声をかけたのは、陽斗だった。 「おはよ、湊」 その声は、いつもより少しだけ丁寧だった。俺は顔を上げた。 「……おはよ」 陽斗はほっとしたように笑った。その笑顔に、俺は少しだけ胸が詰まった。 次に、朔が低く言った。 「そっちも似合うな」 「そっちも、って何だよ」 「男子制服」 「当たり前だろ。俺の制服なんだから」 「そうだな」 朔は頷いた。その頷き方が、妙に真面目だった。 最後に、凪が俺を見て言った。 「ちゃんと湊だね」 俺は耳まで熱くなった。 「どういう意味だよ」 「そのまま」 「意味分かんない」 「分からなくていい」 「よくないだろ」 凪は少しだけ口元を緩めた。俺は顔をそらした。 何だ、これ。怒るつもりだったのに。 昨日のことを、もっとちゃんと責めるつもりだったのに。三人があまりにも普通に、でも少しだけ大事そうに俺を迎えるから、言葉が喉で迷子になる。 ホームルームが始まり、授業が始まった。俺は久しぶりに、朝比奈湊としてノートを取った。 シャーペンの持ち方も、字の速さも、遠慮する必要がない。変に日本語が不慣れなふりをしなくていい。 先生に当てられても、普通に答えればいい。楽だ。 でも、楽なはずなのに、少しだけ物足りない。自分でそう思ってしまって、俺は机の下で拳を握った。 **** 昼休み。俺は逃げるように購買へ行った。 ミナとしてではなく、朝比奈湊として焼きそばパンを買う。いつものことなのに、変に緊張する。 教室へ戻る途中、陽斗が追いついてきた。 「湊、一緒に食べていい?」 俺は足を止めた。 「何で許可制になってんだよ」 「勝手に近づきすぎない方がいいかなって」 昨日、俺が言ったことを覚えている。距離を勝手に詰めすぎるな。 まだ正式に言っていないのに、もう気にしている。俺は少しだけ目をそらした。 「……別に、昼飯くらいいい」 「ほんと?」 「何回も聞くな。やっぱ駄目にするぞ」 「食べる。すぐ食べる」 陽斗は嬉しそうに笑った。その笑顔を見ると、胸が変に緩みそうになる。 俺は焼きそばパンの袋を開けながら、わざとぶっきらぼうに言った。 「あと、昨日のことだけど」 「うん」 陽斗の顔が少し緊張した。俺はパンを見ながら続けた。 「俺、まだ全部許したわけじゃないからな」 「うん」 「傷ついたのは本当だし」 「うん」 「騙してたのも本当だし」 「うん」 「お前らが最初から知ってたのも、かなりむかつく」 「うん。ごめん」 陽斗は逃げなかった。俺は少しだけ息を吐いた。 「だから、すぐどうこうなると思うなよ」 「思わない」 「あと、重いことを急に言うな」 「努力する」 「努力じゃなくて守れ」 「守る」 陽斗は真剣に頷いた。その真剣さが、少しだけおかしくて、俺は口元が緩みそうになった。 危ない。ここで笑うな。 「毎日誘うとか、重いからな」 「でも、誘っていい日はある?」 「……検討」 「検討入った」 「喜ぶな。まだ許可してない」 「うん。でも嬉しい」 陽斗は本当に嬉しそうだった。俺は焼きそばパンをかじった。 ソースが指につきかける。陽斗が何か言いそうになった瞬間、俺は睨んだ。 「食い方が子どもっぽいって言ったら殴る」 「言わない。今、ちゃんと我慢した」 「我慢してる時点で思ってるだろ」 「思ったけど、言わない」 「正直すぎるわ」 陽斗が笑った。俺も、少しだけ笑ってしまった。 **** 午後の授業後、朔とは廊下で二人になった。たまたま、ではたぶんない。 朔はプリントを持っていて、俺も提出物を持っていて、職員室へ向かう道が同じだった。しばらく無言で歩く。 その無言は、気まずいようで、少しだけ落ち着いた。朔が先に口を開いた。 「昨日のこと」 「うん」 「改めて、ごめん」 立ち止まるほど、まっすぐな声だった。俺も足を止めた。 「手が小さいとか、赤くなるとか。構いたかったからって、嫌な言い方していい理由にはならない」 「……分かってるならいい」 「まだ言うかもしれない」 「おい」 「だから、言ったら怒れ」 朔は俺を見た。 「今度は、ちゃんと聞く」 胸の奥が、少しだけ熱くなった。俺は視線を落とした。 「俺、前から怒ってたんだけど」 「知ってる。いや、ちゃんとは知らなかった。怒ってる顔が可愛いとか思ってた」 「最悪だな」 「最悪だった」 即答された。そこで開き直られなかったことに、少しだけ救われてしまう。 俺は持っていたプリントを抱え直した。 「次に言ったら、普通に怒る」 「ああ」 「あと、可愛いって言うのも、今はまだ微妙」 「分かった」 「でも」 言いかけて、喉が詰まった。朔は待っていた。 急かさない。俺は小さく息を吐いた。 「全部が嫌だったわけじゃない」 自分で言って、顔が熱くなった。朔は少しだけ目を見開いた。 「そうか」 「それだけだからな。調子に乗るなよ」 「乗らない」 「本当か?」 「努力する」 「お前も努力かよ」 朔は少しだけ笑った。その笑い方が優しくて、俺は顔をそらした。 **** 放課後。凪は昇降口で待っていた。 もう隠す気がないらしい。 「湊」 「何」 「帰る?」 「帰るけど」 「一人で?」 「一人で帰れる」 「うん」 凪は頷いた。それで終わりかと思ったら、少しだけ間を置いて言った。 「でも、途中までいていい?」 珍しい聞き方だった。いつもの凪なら、気づいたら近くにいる。 許可を取るようなことはあまりしない。俺は少しだけ戸惑った。 「……途中までなら」 「うん」 二人で校門へ向かう。凪は近すぎず、遠すぎず、隣を歩いた。 その距離が、今の俺にはちょうどよかった。 「昨日」 凪が言った。 「泣きそうな顔って言ったこと、ごめん」 俺は足を止めなかった。 「それ、嫌だった」 「うん」 「泣いてないのに、泣きそうって言われると、本当に泣きそうになるから嫌だった」 「うん」 「あと、匂いのやつも嫌だった」 「ごめん」 「声のやつも」 「ごめん」 凪はひとつずつ、全部受け取った。言い訳しない。 それが、少しだけずるい。 「でも」 俺は小さく言った。 「お前が見てたから助かったこともあった」 凪がこちらを見た。俺は前を向いたまま続けた。 「男子トイレの時とか、体調悪かった時とか。正直、助かった」 「うん」 「そこは、ありがとう」 凪は少し黙った。それから、静かに言った。 「どういたしまして」 その普通の返事が、なぜか胸に残った。 **** 校門に着くと、陽斗と朔がいた。自然に集合している。 もう突っ込む気力もない。 「湊」 陽斗が手を上げる。 「何でいるんだよ」 「偶然」 「絶対嘘」 「じゃあ、待ってた」 「正直すぎる」 朔が俺を見る。 「今日は一人で帰るか」 「……そのつもりだったけど」 言いながら、俺は三人を見た。昨日までミナを見ていた三人。 今は、朝比奈湊を見ている三人。その視線が、まだ少し怖い。 でも、嫌ではなかった。 「条件がある」 三人が同時に俺を見た。俺は指を一本立てた。 「一つ。過去の嫌がらせっぽい言い方は禁止」 朔が頷く。 「ああ」 「二つ。距離を勝手に詰めすぎるな」 陽斗が真剣に頷く。 「守る」 「三つ。重いことを急に言うな」 凪が少しだけ首を傾げた。 「どのくらいから重い?」 「その質問がもう重い」 「分かった」 「四つ。勝手にいなくなるな」 言ってから、自分で少し驚いた。三人も少しだけ目を見開いた。 俺は顔が熱くなるのを感じながら、強引に続けた。 「俺も、いなくならないから」 陽斗が泣きそうな顔になった。 「湊」 「泣くな。まだ何も始まってない」 「泣いてない」 「泣きそう」 言ってから、俺は凪を見た。 「人に言われるの嫌だったのに、今俺が言ったな」 凪は少しだけ口元を緩めた。 「言ってた」 「忘れろ」 「努力する」 「お前もか」 朔が小さく笑った。陽斗も笑った。 凪も、少しだけ笑った。俺はその三人の笑顔を見て、胸がむずむずした。 まだ好きとか、そういうのは分からない。分からないし、今すぐ決めたくもない。 でも。嫌じゃなかった。 助けられたことも、見つけられたことも、待たれていたことも。悔しいけど、嬉しかった。 「まだ好きとか分かんないからな」 俺は言った。 「でも、嫌じゃなかった」 三人が黙った。俺は顔が熱すぎて、地面を見た。 「嬉しかったことも、ある」 言った瞬間、陽斗が何か言いかけた。俺はすぐ睨む。 「今、重いこと言うなよ」 陽斗は両手で口を押さえた。 「言わない。今は言わない」 朔が低く言った。 「待つ」 「待つって言い方もちょっと腹立つけど、まあ許す」 凪が静かに言った。 「近くにいる」 「だからそれが重いんだよ」 「離れる?」 「……そこまでは言ってない」 言ってから、俺は自分の負けを悟った。三人の顔が、少しだけ明るくなる。 腹立つ。でも、まあ。 いいか。 **** 帰り道、結局四人で歩いた。誰かが手を繋ぐわけでもない。抱きつくわけでもない。恋人になったわけでもない。 でも、昨日までとは違った。俺はミナではなく、朝比奈湊として、その真ん中にいた。 前を歩きすぎる陽斗に「近い」と言い、横で見すぎる朔に「見るな」と言い、後ろから静かに観察してくる凪に「怖い」と言う。 三人は、それぞれ少しずつ笑って、それぞれ少しずつ距離を直した。 **** 家に帰って、俺はミナ計画ノートを開いた。最後のページに、ゆっくり書く。 復讐。 失敗。 ざまぁ。 できなかった。 俺。 負けた。 そこまで書いて、少しだけペンを止めた。それから、続きを書いた。 でも、悪くない。 まだ全部許したわけじゃない。 まだ好きかも分からない。 でも、嫌じゃなかった。 嬉しかった。 まあいいや。 書き終えると、スマホが鳴った。画面を見る。 新しいグループが作成されていた。 【湊保護会】 参加者。 瀬名陽斗。 桐生朔。 神崎凪。 朝比奈湊。 俺は一秒で文字を打った。『即消せ』 すぐに陽斗から返事が来る。『えー、いい名前じゃん』 朔。『消せ』 凪。『保護より観察が正確』 俺はスマホを握りしめた。『もっと嫌だわ』 陽斗。『じゃあ湊見守り隊?』 朔。『悪化してる』 凪。『湊中心会』 俺。『何の宗教だよ』 画面の向こうで三人が笑っている気がした。俺も、少しだけ笑ってしまった。 最悪だ。復讐は失敗した。 全部バレていた。陥落度までほぼバレた。 でも、自分を嫌いになる理由は、ほんの少しだけ減った気がする。可愛いと言われることが、まだ平気になったわけじゃない。 女みたいと言われたら、たぶんまだ傷つく。でも、三人は俺に言った。 湊だから。知っている。 だから好きだった。それを、今すぐ全部信じられるほど素直じゃない。 でも、全部捨てるほど嫌でもない。 スマホがまた鳴る。陽斗から。 『明日、一緒に昼食べていい?』 俺は少し考えて、返した。 『検討』 すぐに返信が来た。 『検討入った!』 俺は呆れて笑った。朔から。 『課題、明日見せろ。分からないところだけ教える』 俺は返す。 『上から目線やめろ』 凪から。 『明日もちゃんと来て』 俺は画面を見つめた。少しだけ、胸が温かくなる。 『行く』 送信してから、俺は布団に倒れ込んだ。明日も学校へ行く。 ミナではなく、朝比奈湊として。傷ついたことは、まだ消えない。 許すにも時間がかかる。でも、三人が待つと言うなら。 近くにいると言うなら。俺も、もう少しだけそこにいてみてもいい。 俺はミナ計画ノートを閉じて、机の引き出しにしまった。復讐は終わり。 でも、何かが始まった。悔しいけど。 照れるけど。 むかつくけど。 まあいいや。 ** 女装復讐したら、最初から全員にバレてて詰んだ  ~女っぽいって笑ったくせに、俺だと知ってて好きだったとか聞いてない ~ (終わり)

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