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■番外編1「ミナ計画ノートは見せない」

復讐は失敗した。ミナ・クロフォードは存在しなかったことになり、俺は朝比奈湊として普通に学校へ戻った。 普通に、と言っても、俺の周囲には全然普通じゃない三人がいる。 桐生朔は、相変わらず隣の席から俺を見すぎる。 瀬名陽斗は、距離を詰める前に「ここまでいい?」と聞くようになった。 神崎凪は、相変わらず何も言わずに俺の変化に気づく。 ただし最近は、一応「言っていい?」と聞いてくるようになった。改善している。たぶん。 だが、問題は別にあった。ミナ計画ノートである。 俺は、あのノートを処分するかどうかで、ここ数日かなり悩んでいた。復讐の失敗記録。黒歴史。 俺がミナとして三人を落とそうとし、勝手に陥落度をつけ、勝ったと思い込み、最終的に全部バレていたことを知って爆散した、恥の記録。 消すべきだ。燃やすべきだ。 いや、燃やすと家族に何事かと思われる。細かく破いて捨てるのが現実的か。いや、でもそれはそれで、なんか負けた気がする。 というわけで、俺はノートを鞄の奥にしまったまま、毎日持ち歩いていた。なぜ持ち歩くのか。 家に置いておくと澪に見つかるからだ。あの人は教師であり従姉妹であり、人生の地雷を笑顔で踏みに来るタイプの大人である。 俺の部屋に置いておけば、絶対に「掃除してたら偶然見つけちゃった」とか言う。鍵付きの引き出しでも、あの人は何かしらのギャグ補正で開ける。 だから持ち歩くしかない。そう思っていた。 その判断が、のちに俺を地獄へ落とすとも知らずに。 **** 昼休み。俺は教室の端の席で、いつものように焼きそばパンを食べていた。 陽斗は俺の前の席に座っている。距離は近いが、一応机一つ分は空いている。成長した。犬にも待ては覚えられるらしい。 「湊、今日の昼、一緒に食べていいって聞く前に座っちゃったけど」 「もう座ってから聞くな」 「今から立つ?」 「立たなくていい。面倒くさい」 「やった」 「喜ぶところじゃない」 陽斗は嬉しそうに笑った。その顔にちょっとだけ胸が緩みそうになって、俺は焼きそばパンを乱暴にかじった。 「食い方」 「言うな」 「言ってない」 「言おうとした」 「思っただけ」 「思うな」 「それは難しい」 陽斗は笑った。俺も少しだけ口元が緩みかけた。 その瞬間、鞄が椅子の脚に引っかかって、がさりと倒れた。 「あ」 中身が少しこぼれた。教科書、筆箱、プリント。 そして、黒いノート。ミナ計画ノート。 俺は全身の血が引いた。陽斗の目が、そのノートに落ちる。 朔も、隣の席から視線を向けた。後ろの方にいた凪まで、なぜかこちらを見ている。 終わった。いや、終わってない。 まだ表紙だけだ。表紙には、澪の字で堂々と「ミナ計画ノート」と書いてある。 終わっている。完全に終わっている。 俺は反射的にノートを拾おうとした。同時に、陽斗も手を伸ばした。 指先が触れかける。 「触るな!」 俺の叫び声に、教室の数人が振り返った。陽斗がびくっと手を止める。 「ご、ごめん。拾おうとしただけ」 「拾わなくていい。俺の。これは俺の」 「うん。湊のだね」 「見るな」 「見てない」 「表紙見ただろ!」 「ミナ計画ノートって書いてあった」 「読んでるじゃねえか!」 俺はノートを抱え込んだ。顔が熱い。 死にたい。いや、死なない。死ぬくらいならノートを守る。 朔が横から静かに言った。 「まだ持ってたのか」 「持ってない」 「今、抱えてる」 「これは別のミナ計画ノートだ」 「複数ある方が怖いだろ」 くそ。正論で殴るな。 凪がいつの間にか近くに来ていた。 「見ない」 「神崎」 「うん」 「その言い方、すでに見たい人間の言い方だろ」 「見たい」 「正直になるな!」 俺はノートをさらに強く抱えた。凪は表情を変えずに言った。 「でも、見ない」 その言い方は本気だった。ちゃんと俺の意思を優先している。 そこは分かる。分かるけど、見たいとは思っているのが分かりすぎる。 陽斗が両手を合わせた。 「湊、ちょっとだけ。最初のページだけ」 「駄目」 「じゃあ目次だけ」 「目次なんかない」 「陥落度のページだけ」 「何で知ってる!」 「屋上で言ってたから」 俺はその場に沈みたくなった。言った。確かに自分で言った。 ミナ計画ノートに陥落度をつけていたことを、あの場で自爆した。最悪だ。 自分の口が一番信用できない。朔が咳払いした。 「瀬名、やめろ。本人が嫌がってる」 「分かってる。でも気になる」 「気になるのは分かる」 「分かるのかよ!」 俺が睨むと、朔は目をそらした。 「……多少は」 「多少じゃない顔してるぞ」 「見ないとは言ってる」 「見たいとは思ってるだろ」 「思ってる」 「お前も正直になるな!」 俺は頭を抱えた。三人とも見たい。だが、俺が嫌がっているから見ない。 そのラインは守っている。守っているが、見たい圧がすごい。 もう空気がノートを読んでいる。ノート本人が震えている気がする。 俺はノートを鞄に突っ込もうとした。その時、ひらりと一枚の紙が落ちた。 挟んでいたメモだった。 そこには、俺の字でこう書いてあった。 瀬名陽斗:陥落度120%。距離が近い。怖い。 ただし、嫌がると止まる。そこは偉い。 名前呼びに弱い。犬。 教室の空気が止まった。俺も止まった。陽斗も止まった。 朔が顔をそらした。凪が無言で紙を見ている。 「……見た?」 俺の声は、自分でもびっくりするくらい低かった。陽斗が、ものすごく慎重に言った。 「ごめん。見えた」 「読んだ?」 「読めた」 「忘れろ」 「努力する」 「努力じゃなくて忘れろ!」 陽斗は口元を押さえている。笑っている。いや、笑わないようにしている。 それが余計に腹立つ。 「犬って」 「言うな!」 「俺、犬なんだ」 「犬っぽいとは思ってたけど、書いた時の俺の精神状態は普通じゃなかった!」 「でも、そこは偉いって書いてある」 「そこを読むな!」 陽斗の顔が赤くなっていく。なぜお前が照れる。 照れるな。俺が恥ずかしいだろ。 「名前呼びに弱いって、バレてたんだ」 「バレてたっていうか、丸出しだった」 「そっか」 「そこで嬉しそうにするな!」 陽斗はにこにこしている。完全に嬉しそうだ。 俺は紙を奪い取って、ノートに挟み直した。最悪だ。 一人分の陥落度が流出した。しかもよりによって陽斗。 朔が隣で低く言った。 「俺のは」 「ない」 「嘘だろ」 「嘘じゃない」 「今の反応が嘘だ」 俺は唇を結んだ。朔のページはある。ものすごくある。 桐生朔:陥落度60%。理性で耐えている。 耳が赤い。たぶん照れている。 上着を貸すのが自然すぎる。むかつく。 教え方がうまい。むかつく。 でも安心する。むかつく。 絶対に見せられない。見せた瞬間、俺が死ぬ。 朔は俺の顔を見て、少しだけ眉を上げた。 「あるな」 「ない」 「俺のページ、あるだろ」 「ない」 「ある顔してる」 「顔を見るな」 「見る」 「見るな!」 凪が静かに言った。 「俺のは?」 「神崎、お前まで乗るな」 「気になる」 「気になるな」 「判定不能って書いた?」 俺は息を止めた。凪の目が少しだけ細くなった。 「書いたんだ」 「……書いてない」 「怖い、とも書いた?」 「書いてない」 「でも助かった、とも書いた?」 「書いてない!」 全部書いた。ほぼそのまま書いた。 神崎凪:判定不能。怖い。 でも助かる。怖いのに助かる。 隠れても見つけるらしい。怖い。 でも、逃げ道は残す。意味が分からない。 嫌じゃない顔、と言われた。危険。 判定不能。 見せられるわけがない。俺は鞄を抱えて立ち上がった。 「帰る」 「まだ昼休みだよ」 陽斗が言った。 「心が帰る」 「心だけ?」 「現実も帰りたい」 「それは駄目」 朔が即答した。 「駄目って何だよ」 「午後の授業がある」 「真面目か」 「真面目だ」 凪が少し近づいてきた。近すぎない距離で止まる。 「湊」 「何」 「見ない」 「……本当に?」 「本当に」 凪は静かに頷いた。 「湊が見せたいと思うまで、見ない」 「一生思わない」 「なら一生見ない」 その言い方が、妙にまっすぐで、俺は少しだけ言葉に詰まった。こういうところがずるい。 重いくせに、線は守る。陽斗も慌てて頷いた。 「俺も見ない。さっきのは本当に事故。犬は忘れる」 「忘れてないだろ」 「忘れる努力を最大限する」 「だから努力じゃなくて」 「無理かも」 「正直!」 朔は小さく息を吐いた。 「俺も見ない」 「本当か?」 「ああ」 「絶対?」 「絶対」 「気になっても?」 「気になる」 「そこは嘘でも否定しろ」 「でも見ない」 俺は三人を見た。全員、見たい顔をしている。 でも、見ないと決めている。俺が嫌がるから。 昔なら、たぶんここで「見せろよ」とか「何書いてんだよ」とか言われていたかもしれない。少なくとも、俺はそう思っていた。 でも、今の三人は違った。見たい。でも、俺が嫌なら見ない。 その当たり前みたいな線引きに、胸の奥が少しだけ温かくなる。俺は鞄を抱えたまま、ぼそっと言った。 「……まあ、いつか」 三人が同時に俺を見た。俺はすぐに顔をそらした。 「いつかだ。今じゃない。あと、全部じゃない。あと、変なところは見せない」 陽斗の顔がぱっと明るくなった。 「いつか見せてくれるの?」 「調子に乗るな。可能性の話だ」 「可能性あるだけで嬉しい」 「重い」 「ごめん。でも嬉しい」 朔が静かに言った。 「変なところって、どこだ」 「全部だよ」 「なら見せるところないだろ」 「そうだよ」 「じゃあ、いつかって何だ」 「うるさいな、言葉の綾だよ!」 凪がぽつりと言った。 「見せたいところだけでいい」 俺は凪を見た。凪はいつもの静かな顔で続けた。 「見せたくないところは、湊のものだから」 またそういうことを言う。まっすぐ。静か。逃げ道つき。 俺は顔が熱くなるのを感じた。 「……そういうの、急に言うな」 「重い?」 「ちょっと」 「気をつける」 素直に頷く凪に、俺はため息をついた。昼休みの終わりが近づいていた。 俺はミナ計画ノートを鞄の一番奥にしまい、ファスナーを閉めた。それから、三人を睨む。 「いいか。今日見えた内容は忘れろ」 陽斗が手を上げる。 「犬は?」 「忘れろ」 「そこは残したい」 「忘れろ」 「そこは偉いって書いてあったのも?」 「全部忘れろ!」 朔が小さく笑った。 「陥落度120%は、なかなかだな」 「桐生!」 「悪い。忘れる」 「今絶対忘れる気なかった」 「努力する」 「努力禁止!」 凪が静かに言った。 「保護より観察が正確」 「神崎、お前グループ名の話をここで蒸し返すな!」 「思い出した」 「思い出すな!」 チャイムが鳴った。俺は頭を抱えながら席に戻った。 最悪だ。またひとつ黒歴史が増えた。 いや、黒歴史が外部流出した。ただし、流出したのは犬だけだ。 犬だけなら、まだ耐えられる。たぶん。 **** 放課後。俺は三人に囲まれながら校門まで歩いていた。 ノートのことは誰も話さなかった。話さなかったが、陽斗がたまに妙に嬉しそうに俺を見る。 朔が何か言いたそうにして飲み込む。凪はいつも通り静かだが、たぶん全部覚えている。 俺は校門の前で立ち止まった。 「本当に忘れろよ」 陽斗が笑う。 「うん。忘れる努力してる」 「努力じゃなくて」 「忘れた」 「今の言い方、絶対忘れてない」 朔が言った。 「忘れなくても、言わなければいいだろ」 「よくない」 「じゃあ忘れる」 「軽い」 凪が最後に言った。 「忘れないけど、大事にする」 俺は固まった。 「……それ、どういう意味だよ」 「湊が本気で書いたものだから」 凪は静かに言った。 「恥ずかしいものでも、なかったことにはしない」 俺は返事に困った。ミナ計画ノートは、恥だ。黒歴史だ。 でも、たしかに俺が本気で書いたものだった。傷ついて、悔しくて、勝ちたくて、それでも何度も助けられて、嫌じゃないと思って、嬉しいと書きそうになって。 全部、俺のその時の本気だった。俺は顔をそらした。 「……勝手に美談にするな」 「うん」 「でも」 三人が俺を見る。俺は鞄の紐を握った。 「いつか、一ページくらいなら、見せてやってもいい」 陽斗が息を止めた。朔が少しだけ目を見開いた。凪が静かに頷いた。 「一ページだけだからな」 俺は慌てて付け足した。 「しかも、俺が選ぶ。陥落度のところは絶対見せない。犬も見せない。上着のところも、見せない。凪の判定不能も見せない」 言いながら、自分で墓穴を掘っていることに気づいた。三人の目が、明らかに光った。 陽斗が口元を押さえる。 「犬以外にも、上着と判定不能があるんだ」 「忘れろ!」 朔が低く言う。 「上着のところ、あるのか」 「ない!」 凪が静かに言う。 「判定不能」 「ない!」 俺は叫んだ。終わった。また漏れた。 俺の口は本当に信用できない。三人は笑っていた。 でも、その笑いはからかいすぎない程度で、ちゃんと俺が本気で嫌になる前に止まった。それがまた、少しだけ嬉しかった。 俺は悔しくなって、わざと大きくため息をついた。 「もういい。帰る」 「明日も来る?」 陽斗が聞く。 「来るよ」 朔が言う。 「ノートは持ってくるなよ」 「持ってくる。家の方が危険だから」 「朝比奈先生か」 「そう」 凪が頷く。 「守る」 「何を」 「ノート」 「お前らから守るんだよ!」 三人がまた笑った。俺も、少しだけ笑ってしまった。 帰り道、俺は鞄の中のミナ計画ノートを指先で確認した。まだ、見せたくない。 恥ずかしいし、むかつくし、読まれたらたぶん三日は学校を休む。でも、いつか一ページくらいなら。 そう思ってしまった自分が、少しだけ悔しい。 **** 家に帰って、俺はノートを開いた。新しいページに、今日の記録を書く。 番外編的事故。 ミナ計画ノート、落下。 瀬名に犬ページの一部を見られた。 最悪。 今日の被害。 俺の尊厳。 今日の発見。 三人は見たいけど、見ない。 嫌がったら止まる。 そこは、まあ、偉い。 俺は少し迷ってから、最後に一行足した。 いつか、一ページだけなら見せてもいい。 ただし、俺が選ぶ。 絶対に陥落度は見せない。 書き終えて、俺はノートを閉じた。スマホが鳴る。 グループ名は、いつの間にか変わっていた。 【ミナ計画ノート被害者の会】 俺は即座に打った。『誰が変えた』 陽斗。『俺じゃない』 朔。『俺でもない』 凪。『俺』 俺。『即戻せ』 凪。『湊保護会?』 俺。『それも違う』 陽斗。『じゃあ、湊中心会?』 朔。『宗教になるからやめろ』 俺は画面を見ながら、呆れて笑った。最悪だ。 こいつらは本当に最悪だ。でも、ミナ計画ノートを守るために、明日も学校へ行く理由ができてしまった。 それはそれで、まあ。 いいか。

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