14 / 17
■番外編1「ミナ計画ノートは見せない」
復讐は失敗した。ミナ・クロフォードは存在しなかったことになり、俺は朝比奈湊として普通に学校へ戻った。
普通に、と言っても、俺の周囲には全然普通じゃない三人がいる。
桐生朔は、相変わらず隣の席から俺を見すぎる。
瀬名陽斗は、距離を詰める前に「ここまでいい?」と聞くようになった。
神崎凪は、相変わらず何も言わずに俺の変化に気づく。
ただし最近は、一応「言っていい?」と聞いてくるようになった。改善している。たぶん。
だが、問題は別にあった。ミナ計画ノートである。
俺は、あのノートを処分するかどうかで、ここ数日かなり悩んでいた。復讐の失敗記録。黒歴史。
俺がミナとして三人を落とそうとし、勝手に陥落度をつけ、勝ったと思い込み、最終的に全部バレていたことを知って爆散した、恥の記録。
消すべきだ。燃やすべきだ。
いや、燃やすと家族に何事かと思われる。細かく破いて捨てるのが現実的か。いや、でもそれはそれで、なんか負けた気がする。
というわけで、俺はノートを鞄の奥にしまったまま、毎日持ち歩いていた。なぜ持ち歩くのか。
家に置いておくと澪に見つかるからだ。あの人は教師であり従姉妹であり、人生の地雷を笑顔で踏みに来るタイプの大人である。
俺の部屋に置いておけば、絶対に「掃除してたら偶然見つけちゃった」とか言う。鍵付きの引き出しでも、あの人は何かしらのギャグ補正で開ける。
だから持ち歩くしかない。そう思っていた。
その判断が、のちに俺を地獄へ落とすとも知らずに。
****
昼休み。俺は教室の端の席で、いつものように焼きそばパンを食べていた。
陽斗は俺の前の席に座っている。距離は近いが、一応机一つ分は空いている。成長した。犬にも待ては覚えられるらしい。
「湊、今日の昼、一緒に食べていいって聞く前に座っちゃったけど」
「もう座ってから聞くな」
「今から立つ?」
「立たなくていい。面倒くさい」
「やった」
「喜ぶところじゃない」
陽斗は嬉しそうに笑った。その顔にちょっとだけ胸が緩みそうになって、俺は焼きそばパンを乱暴にかじった。
「食い方」
「言うな」
「言ってない」
「言おうとした」
「思っただけ」
「思うな」
「それは難しい」
陽斗は笑った。俺も少しだけ口元が緩みかけた。
その瞬間、鞄が椅子の脚に引っかかって、がさりと倒れた。
「あ」
中身が少しこぼれた。教科書、筆箱、プリント。
そして、黒いノート。ミナ計画ノート。
俺は全身の血が引いた。陽斗の目が、そのノートに落ちる。
朔も、隣の席から視線を向けた。後ろの方にいた凪まで、なぜかこちらを見ている。
終わった。いや、終わってない。
まだ表紙だけだ。表紙には、澪の字で堂々と「ミナ計画ノート」と書いてある。
終わっている。完全に終わっている。
俺は反射的にノートを拾おうとした。同時に、陽斗も手を伸ばした。
指先が触れかける。
「触るな!」
俺の叫び声に、教室の数人が振り返った。陽斗がびくっと手を止める。
「ご、ごめん。拾おうとしただけ」
「拾わなくていい。俺の。これは俺の」
「うん。湊のだね」
「見るな」
「見てない」
「表紙見ただろ!」
「ミナ計画ノートって書いてあった」
「読んでるじゃねえか!」
俺はノートを抱え込んだ。顔が熱い。
死にたい。いや、死なない。死ぬくらいならノートを守る。
朔が横から静かに言った。
「まだ持ってたのか」
「持ってない」
「今、抱えてる」
「これは別のミナ計画ノートだ」
「複数ある方が怖いだろ」
くそ。正論で殴るな。
凪がいつの間にか近くに来ていた。
「見ない」
「神崎」
「うん」
「その言い方、すでに見たい人間の言い方だろ」
「見たい」
「正直になるな!」
俺はノートをさらに強く抱えた。凪は表情を変えずに言った。
「でも、見ない」
その言い方は本気だった。ちゃんと俺の意思を優先している。
そこは分かる。分かるけど、見たいとは思っているのが分かりすぎる。
陽斗が両手を合わせた。
「湊、ちょっとだけ。最初のページだけ」
「駄目」
「じゃあ目次だけ」
「目次なんかない」
「陥落度のページだけ」
「何で知ってる!」
「屋上で言ってたから」
俺はその場に沈みたくなった。言った。確かに自分で言った。
ミナ計画ノートに陥落度をつけていたことを、あの場で自爆した。最悪だ。
自分の口が一番信用できない。朔が咳払いした。
「瀬名、やめろ。本人が嫌がってる」
「分かってる。でも気になる」
「気になるのは分かる」
「分かるのかよ!」
俺が睨むと、朔は目をそらした。
「……多少は」
「多少じゃない顔してるぞ」
「見ないとは言ってる」
「見たいとは思ってるだろ」
「思ってる」
「お前も正直になるな!」
俺は頭を抱えた。三人とも見たい。だが、俺が嫌がっているから見ない。
そのラインは守っている。守っているが、見たい圧がすごい。
もう空気がノートを読んでいる。ノート本人が震えている気がする。
俺はノートを鞄に突っ込もうとした。その時、ひらりと一枚の紙が落ちた。
挟んでいたメモだった。
そこには、俺の字でこう書いてあった。
瀬名陽斗:陥落度120%。距離が近い。怖い。
ただし、嫌がると止まる。そこは偉い。
名前呼びに弱い。犬。
教室の空気が止まった。俺も止まった。陽斗も止まった。
朔が顔をそらした。凪が無言で紙を見ている。
「……見た?」
俺の声は、自分でもびっくりするくらい低かった。陽斗が、ものすごく慎重に言った。
「ごめん。見えた」
「読んだ?」
「読めた」
「忘れろ」
「努力する」
「努力じゃなくて忘れろ!」
陽斗は口元を押さえている。笑っている。いや、笑わないようにしている。
それが余計に腹立つ。
「犬って」
「言うな!」
「俺、犬なんだ」
「犬っぽいとは思ってたけど、書いた時の俺の精神状態は普通じゃなかった!」
「でも、そこは偉いって書いてある」
「そこを読むな!」
陽斗の顔が赤くなっていく。なぜお前が照れる。
照れるな。俺が恥ずかしいだろ。
「名前呼びに弱いって、バレてたんだ」
「バレてたっていうか、丸出しだった」
「そっか」
「そこで嬉しそうにするな!」
陽斗はにこにこしている。完全に嬉しそうだ。
俺は紙を奪い取って、ノートに挟み直した。最悪だ。
一人分の陥落度が流出した。しかもよりによって陽斗。
朔が隣で低く言った。
「俺のは」
「ない」
「嘘だろ」
「嘘じゃない」
「今の反応が嘘だ」
俺は唇を結んだ。朔のページはある。ものすごくある。
桐生朔:陥落度60%。理性で耐えている。
耳が赤い。たぶん照れている。
上着を貸すのが自然すぎる。むかつく。
教え方がうまい。むかつく。
でも安心する。むかつく。
絶対に見せられない。見せた瞬間、俺が死ぬ。
朔は俺の顔を見て、少しだけ眉を上げた。
「あるな」
「ない」
「俺のページ、あるだろ」
「ない」
「ある顔してる」
「顔を見るな」
「見る」
「見るな!」
凪が静かに言った。
「俺のは?」
「神崎、お前まで乗るな」
「気になる」
「気になるな」
「判定不能って書いた?」
俺は息を止めた。凪の目が少しだけ細くなった。
「書いたんだ」
「……書いてない」
「怖い、とも書いた?」
「書いてない」
「でも助かった、とも書いた?」
「書いてない!」
全部書いた。ほぼそのまま書いた。
神崎凪:判定不能。怖い。
でも助かる。怖いのに助かる。
隠れても見つけるらしい。怖い。
でも、逃げ道は残す。意味が分からない。
嫌じゃない顔、と言われた。危険。
判定不能。
見せられるわけがない。俺は鞄を抱えて立ち上がった。
「帰る」
「まだ昼休みだよ」
陽斗が言った。
「心が帰る」
「心だけ?」
「現実も帰りたい」
「それは駄目」
朔が即答した。
「駄目って何だよ」
「午後の授業がある」
「真面目か」
「真面目だ」
凪が少し近づいてきた。近すぎない距離で止まる。
「湊」
「何」
「見ない」
「……本当に?」
「本当に」
凪は静かに頷いた。
「湊が見せたいと思うまで、見ない」
「一生思わない」
「なら一生見ない」
その言い方が、妙にまっすぐで、俺は少しだけ言葉に詰まった。こういうところがずるい。
重いくせに、線は守る。陽斗も慌てて頷いた。
「俺も見ない。さっきのは本当に事故。犬は忘れる」
「忘れてないだろ」
「忘れる努力を最大限する」
「だから努力じゃなくて」
「無理かも」
「正直!」
朔は小さく息を吐いた。
「俺も見ない」
「本当か?」
「ああ」
「絶対?」
「絶対」
「気になっても?」
「気になる」
「そこは嘘でも否定しろ」
「でも見ない」
俺は三人を見た。全員、見たい顔をしている。
でも、見ないと決めている。俺が嫌がるから。
昔なら、たぶんここで「見せろよ」とか「何書いてんだよ」とか言われていたかもしれない。少なくとも、俺はそう思っていた。
でも、今の三人は違った。見たい。でも、俺が嫌なら見ない。
その当たり前みたいな線引きに、胸の奥が少しだけ温かくなる。俺は鞄を抱えたまま、ぼそっと言った。
「……まあ、いつか」
三人が同時に俺を見た。俺はすぐに顔をそらした。
「いつかだ。今じゃない。あと、全部じゃない。あと、変なところは見せない」
陽斗の顔がぱっと明るくなった。
「いつか見せてくれるの?」
「調子に乗るな。可能性の話だ」
「可能性あるだけで嬉しい」
「重い」
「ごめん。でも嬉しい」
朔が静かに言った。
「変なところって、どこだ」
「全部だよ」
「なら見せるところないだろ」
「そうだよ」
「じゃあ、いつかって何だ」
「うるさいな、言葉の綾だよ!」
凪がぽつりと言った。
「見せたいところだけでいい」
俺は凪を見た。凪はいつもの静かな顔で続けた。
「見せたくないところは、湊のものだから」
またそういうことを言う。まっすぐ。静か。逃げ道つき。
俺は顔が熱くなるのを感じた。
「……そういうの、急に言うな」
「重い?」
「ちょっと」
「気をつける」
素直に頷く凪に、俺はため息をついた。昼休みの終わりが近づいていた。
俺はミナ計画ノートを鞄の一番奥にしまい、ファスナーを閉めた。それから、三人を睨む。
「いいか。今日見えた内容は忘れろ」
陽斗が手を上げる。
「犬は?」
「忘れろ」
「そこは残したい」
「忘れろ」
「そこは偉いって書いてあったのも?」
「全部忘れろ!」
朔が小さく笑った。
「陥落度120%は、なかなかだな」
「桐生!」
「悪い。忘れる」
「今絶対忘れる気なかった」
「努力する」
「努力禁止!」
凪が静かに言った。
「保護より観察が正確」
「神崎、お前グループ名の話をここで蒸し返すな!」
「思い出した」
「思い出すな!」
チャイムが鳴った。俺は頭を抱えながら席に戻った。
最悪だ。またひとつ黒歴史が増えた。
いや、黒歴史が外部流出した。ただし、流出したのは犬だけだ。
犬だけなら、まだ耐えられる。たぶん。
****
放課後。俺は三人に囲まれながら校門まで歩いていた。
ノートのことは誰も話さなかった。話さなかったが、陽斗がたまに妙に嬉しそうに俺を見る。
朔が何か言いたそうにして飲み込む。凪はいつも通り静かだが、たぶん全部覚えている。
俺は校門の前で立ち止まった。
「本当に忘れろよ」
陽斗が笑う。
「うん。忘れる努力してる」
「努力じゃなくて」
「忘れた」
「今の言い方、絶対忘れてない」
朔が言った。
「忘れなくても、言わなければいいだろ」
「よくない」
「じゃあ忘れる」
「軽い」
凪が最後に言った。
「忘れないけど、大事にする」
俺は固まった。
「……それ、どういう意味だよ」
「湊が本気で書いたものだから」
凪は静かに言った。
「恥ずかしいものでも、なかったことにはしない」
俺は返事に困った。ミナ計画ノートは、恥だ。黒歴史だ。
でも、たしかに俺が本気で書いたものだった。傷ついて、悔しくて、勝ちたくて、それでも何度も助けられて、嫌じゃないと思って、嬉しいと書きそうになって。
全部、俺のその時の本気だった。俺は顔をそらした。
「……勝手に美談にするな」
「うん」
「でも」
三人が俺を見る。俺は鞄の紐を握った。
「いつか、一ページくらいなら、見せてやってもいい」
陽斗が息を止めた。朔が少しだけ目を見開いた。凪が静かに頷いた。
「一ページだけだからな」
俺は慌てて付け足した。
「しかも、俺が選ぶ。陥落度のところは絶対見せない。犬も見せない。上着のところも、見せない。凪の判定不能も見せない」
言いながら、自分で墓穴を掘っていることに気づいた。三人の目が、明らかに光った。
陽斗が口元を押さえる。
「犬以外にも、上着と判定不能があるんだ」
「忘れろ!」
朔が低く言う。
「上着のところ、あるのか」
「ない!」
凪が静かに言う。
「判定不能」
「ない!」
俺は叫んだ。終わった。また漏れた。
俺の口は本当に信用できない。三人は笑っていた。
でも、その笑いはからかいすぎない程度で、ちゃんと俺が本気で嫌になる前に止まった。それがまた、少しだけ嬉しかった。
俺は悔しくなって、わざと大きくため息をついた。
「もういい。帰る」
「明日も来る?」
陽斗が聞く。
「来るよ」
朔が言う。
「ノートは持ってくるなよ」
「持ってくる。家の方が危険だから」
「朝比奈先生か」
「そう」
凪が頷く。
「守る」
「何を」
「ノート」
「お前らから守るんだよ!」
三人がまた笑った。俺も、少しだけ笑ってしまった。
帰り道、俺は鞄の中のミナ計画ノートを指先で確認した。まだ、見せたくない。
恥ずかしいし、むかつくし、読まれたらたぶん三日は学校を休む。でも、いつか一ページくらいなら。
そう思ってしまった自分が、少しだけ悔しい。
****
家に帰って、俺はノートを開いた。新しいページに、今日の記録を書く。
番外編的事故。
ミナ計画ノート、落下。
瀬名に犬ページの一部を見られた。
最悪。
今日の被害。
俺の尊厳。
今日の発見。
三人は見たいけど、見ない。
嫌がったら止まる。
そこは、まあ、偉い。
俺は少し迷ってから、最後に一行足した。
いつか、一ページだけなら見せてもいい。
ただし、俺が選ぶ。
絶対に陥落度は見せない。
書き終えて、俺はノートを閉じた。スマホが鳴る。
グループ名は、いつの間にか変わっていた。
【ミナ計画ノート被害者の会】
俺は即座に打った。『誰が変えた』
陽斗。『俺じゃない』
朔。『俺でもない』
凪。『俺』
俺。『即戻せ』
凪。『湊保護会?』
俺。『それも違う』
陽斗。『じゃあ、湊中心会?』
朔。『宗教になるからやめろ』
俺は画面を見ながら、呆れて笑った。最悪だ。
こいつらは本当に最悪だ。でも、ミナ計画ノートを守るために、明日も学校へ行く理由ができてしまった。
それはそれで、まあ。
いいか。
ともだちにシェアしよう!

