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第6話

軽やかなメロディーが鳴る。どうやら美也子さんの携帯の着信音のようだ。美也子さんが携帯を片手にリビングから廊下へ移動する。 「――嫌な感じだな」 柊一さんが言う。俺は首を傾げ、 「え?何が?」 柊一さんは美也子さんの方を見ながら、 「この時間に美也子さんに電話ってこと」 「誰からかわかるの?柊一さん」 「正確にはわからねえけど、だいたいは」 美也子さんと伊達に長く付き合ってないな。そこまでお見通しなのか。俺は片手に持っていたスポーツドリンクを口にする。つきあい長いだけじゃなく深いんだろうな、ちょっとモヤモヤするけど。 「ごめーん」 美也子さんがそう言いながら戻ってくる。 「ジャズ関係のつきあいで、ちょっと顔出さなくちゃならなくなったわ。私帰らなきゃ」 柊一さんは短くため息をつく。柊一さんの予想してた人と一致したんだろうか。それとも美也子さんの帰るという言葉が気に入らなかったのか。 「七瀬君はラッキーよね。私帰るからあとは二人きりよ。柊一とゆっくりしてって」 二人きり。 そう美也子さんに言われて、かあっと顔が熱くなる。バカみたいだ、俺。もう三年もつきあってるっていうのに、他人にこんなこと言われると感情が軽く揺り動かされる。いい加減慣れろと自分自身につっこみたくなる。 …が、それとは逆に柊一さんはその状況があまり好ましくないようだ。やや不貞腐れた顔をして美也子さんを見ている。 「じゃ、お邪魔虫は消えるわね。またね、七瀬君。それに柊一。仕事の件はさっき決めた通りでお願いね」 「わかりましたよー。しがない作家は言われた通りに仕事しときますよー」 「じゃ、また」 そう言うなり、美也子さんは自分のカバンを持って立ち上がり、軽く俺に手を振り、廊下を歩いて行く。柊一さんも見送りに行くのか美也子さんの後をついていく。残された俺はどうしようかな。柊一さんと同じに美也子さん送りに行こうかな、それともここで待っていようか。どっちにしても俺はここにいる。三年前、俺が寝かされてたソファーもまだある。 三年たってここに俺はいる。あの時は名前すら知らなかった。顔なんてもっと知らない。彼から名前を教えてもらっても、ピンとこずに本に詳しそうな同僚に聞いたんだっけ。同僚がなんでそんな名前が七瀬から出てくる?と不可解だと言わんばかりの顔をしてた。 本なんて全然興味なさそうだもんな、俺。実際、本とは縁なさそうな生活送ってたしな。動画…有名なYoutuberとかいわゆるインフルエンサーなら多少はわかる。アイドルや俳優とかミュージシャン、芸能系なら有名どころならわかる。けれど本、文芸方面は教科書とかで習った文豪と言われる人ならわかるけれど(本は読んだことない)、それ以外は無知といってもいいほどだ。同僚の俺に対する反応は間違っていない。 そこから「関根柊一」を知った。小説を書き、コラムも書く有名人で、著作がベストセラーになったことも何度かあるし、賞も獲ったこともあるという。好き嫌いはあっても、名前ぐらいは知ってて当然という人だった。 同僚は訝しげに俺に何故今、その名前が出てくるんだと聞いてきたっけ。俺はちょっと気になることがあってとか何とかごまかした…ような気がする。 そういや、世話を焼いてくれていた上司には咎められたっけ。まぁ、そうだよなあ…。顔に泥を塗るような事しちゃったんだもんなあ。だって、あまりにあのジャズバーの酒が美味かったし、雰囲気も良かったし(おそらく)、俺みたいな安酒で家飲みする輩には罪深いところだった。 よく飲んだくれてたお前を介抱した奴がいたな、と言ってた。俺は何も言わずニコニコと笑ってたな。 「関根柊一」、その人なのだけど。 あの夜があって、俺は「関根柊一」という人を探した、本や雑誌やネットで。 俺の会社は老舗の大手印刷会社だから、本とか雑誌は当然刷っている。見本や落丁本がどこかにある筈だ。もしそれが無くても図書館や本屋に行けばいい。俺のスマホでも探して電子書籍なら買うことも可能だ。俺は探したかったんだ、あの日、あの夜の艶のある低い声と、月明かりに見せてくれた端正な横顔をした青年のことを。 一か月程探して、俺のスマホは信じられないぐらいに「関根柊一」が蔓延していた。それこそあの綺麗な顔は現さないものの、彼の著作物は多岐にわたり、俺のスマホは彼の色に染まっていた。 周囲からも何があったのかと騒がれていた。俺に最初に「関根柊一」を教えた同僚も大地震の前触れだとか言い出す始末。俺をあのジャズバーに招待してくれた上司は「関根柊一」と俺に何があったのかとしつこく聞いてきた。その時も俺はニコニコと笑ってた。 ――わからなくていい。あの夜のことは。俺と「関根柊一」その人だけがわかっていればいいんだ。誰も知らなくていいし、謎のままでいい。柊一さんのマネージャーの美也子さんも半分しか知らないあの夜のこと。それでいいんだ、二人だけの秘密だ。特別何があったわけでもないけれど。特別何かあったら良かったのかといえば、今はあった方が良かったと強く思う。 …ね、柊一さん。

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