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第8話
「今度聞かせてよ、ピアノ。ちょっとはジャズわかるようになったし」
「後でな」
「いつもそれじゃん。柊一さんの『後で』はいつなんだよ」
「だから後でな」
社交辞令の「今度会いましょう」の今度と同じだ。俺に聞かす気はさらさらないっていうのか?俺ごときでは「関根柊一」のピアノは聞かせないっていうのか。俺はむくれてまた口をへの字に曲げる。
「七瀬、メシはまだでいいよな?」
柊一さんが振り向くと、俺と目が重なる。すると、柊一さんの口許が緩む。
「お前何むくれてンだよ」
「しゅ、柊一さんが悪い」
「そんなムクれるほど、七瀬君は俺のピアノ聴きたいってか?」
柊一さんは笑ってる。俺の不機嫌な顔が余程お気に召したようだ。
「そ、そうだよ。毎回毎回後で、後でって言ってさ…よっぽど俺に聴かせたくないの?」
「だとしたらどうする?」
俺は目を丸くし、ただでさえ大きな目を見開く。
「七瀬がもう少しオトナになったら考えてやるよ」
…バカにされた気がする。いや確実に人を小馬鹿にしてる。
「そういう柊一さんだって俺より10年上ってだけで、子供、ガキじゃん!」
ああ、柊一さんが声を出して笑いだす。こういうところ腹が立つんだよなあ、この人の!
「七瀬見てると飽きねーわ~」
まだ柊一さんは笑ってる。何がそんなに面白いんだか。人を不快にさせておいてコレだもの。
なんでこんな人を俺は三年もの間追いかけて、今も追いかけ続けているのか。俺だって昔は!…本当に昔の話で悲しいけど。少なくても人の神経を逆なでするような人とどうにかなる なんてなかった。ーーなかったのに。
「一人百面相だもんな。コロコロと顔が変わって、おもしれーヤツ」
柊一さんはニヤニヤと嫌な笑みをこぼす。綺麗な顔なだけに余計むかつくんですけど!
「だからほっておけねーんだよなー。七瀬は」
柊一さんの言葉にどきりとした俺は、頬を朱色に染めていく。
「三年も経つのに変わんねーな。見てるだけで癒し効果抜群だよ、七瀬は」
嫌な笑みは変わらないのに、それが今は優しく見える。言われてることはあまりいいことではないのに。
…ずるいよ、柊一さんは。やることなすこと、ずるい。
俺はいつから柊一さんを恋愛対象として見るようになったんだろう。無我夢中で「関根柊一」を探したあの頃から予兆はあったのか?
三年前のあの雨の日。初めて酒に溺れた夜。
優しくされたからその気になった訳じゃない、多分。あまりにも月明かりに見えた顔が綺麗でその美しさの虜になった訳じゃない、これも多分。
「美也子さんに感謝だな。美也子さんが居なかったら七瀬とまた会うこともなかった」
そうだった。
美也子さんが一般サラリーマンの俺と有名作家「関根柊一」を繋げてくれたのだ。
「美也子さんがあの店のオーナーと知り合いだったし、オーナーと付き合いのある出版関係者で探したんだったな。あの迷惑な一見大泣き客。俺が介抱して家連れてったのが美也子さん的に気になったらしくてさ」
気恥ずかしくて顔まで赤くなる。今思っても酒に溺れて大泣きしたのは恥ずかしい。覚えてないから尚更恥ずかしい。
「ーーで、たまたま新しい本のパーティがあって、そこにそれらしき人間呼びつけようって七瀬と再度会ったんだよな」
「うん。柊一さん名刺くれた」
「七瀬もな」
お互い名刺交換したっけ。俺は柊一さんの顔見てドキっとしたけど、柊一さんは初めて会ったような態度だった。それがやけに胸にひっかかって、淋しかった。
その後、美也子さんと名刺交換して、ようやく俺と柊一さんは繋がることになる。
「裏も見てねって美也子さんに言われて。何だろって見たら、美也子さんの名刺の裏に柊一さんのメールアドレスが手書きで書いてあったんだよ。何で俺にそういうの教えてくれるのか解らなかったけど…」
あの頃は美也子さんの色気に胸が高鳴ったが、今は感謝しかない。俺も変われば変わる。
「美也子さんも何を思ってたんだかなー。ま、おかげで七瀬という面白いキャラと知りあえたけどな」
面白いキャラかあ、それだけかあ…。癒しの存在ってそういうことかあ…。
あの時、柊一さんの本を刷ったとはいえ、印刷会社の企画やデザイン関係ではなく、事務方の俺がパーティなんて華やかなとこに呼ばれることになって、会社の一部(俺予測)で騒がれた。俺の世話をしてくれていた上司が失礼があって怒られるんじゃないかと胃がキリキリ痛かったって言ってた。なんせその上司の誘いで俺はあのジャズバーで酒に飲まれたんだから。自分の部下が常連の店で大失態をかましたわけだしな。ま、何事もなかったんだけど、世間的には。あれ以来、その上司から何にも言われなくなったな。若気の至りにしては俺がやりすぎたってことなのか。
それから教えてもらったメールアドレスにおそるおそる、メールを書いた。どう切り出していいのか悩んで送信するのに時間かかったけど。送ったらすぐにメールが返ってきて、俺の事憶えててくれたんだって、嬉しくてたまらなかった。
ーーあ。もしかしてその時かもしれない。恋愛感情ほど濃いものではないが、意識しだしたのは。
トクン、トクンと胸が鳴る。こうやって柊一さんと二人で居るだけでその頃を思い出して胸が熱くなってくる。
三年前までは挫折して失うことばかりが多かったけれど、今は何もかも新鮮で得るものが多い毎日だ。
それもこれも全部、柊一さんのせいなんだよ。
夕闇迫る西新宿の片隅。俺と柊一さんを温かく包んでいく空。
今日も俺はここにいる。
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