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心拍数16 穢れ

 太一の部屋を出て、どうやってここまで歩いてきたのか覚えていない。  体のあちこちが鈍く痛み、肌にはあの男の不快な痕跡が残っている。柊一さんを守るため、会社を守るため。そう自分に言い聞かせて差し出した体だったが、失ったものの大きさに涙さえ出なかった。  自宅の最寄り駅の近く。  俯いて歩く俺の前に、激しい足音が近づき、すれ違いざまに強い力で腕を掴まれた。 「――七瀬っ!!」  弾かれたように顔を上げると、そこには息を荒くした柊一さんが立っていた。美也子さんから事情を聞き、血眼になって探していたのだろう。  髪は乱れ、いつも完璧な彼が、見たこともないほど必死な形相していた。 「どこに行ってたんだ、連絡もつかないで……!」  柊一さんが俺を抱きしめようと、大きな両手を伸ばしてくる。 その瞬間、俺の心臓が恐怖で跳ね上がった。その手で、今の汚れた自分に触れてほしくない。 「――っ、来ないで!!触らないで……っ!」  悲鳴のような声を上げ、俺は柊一さんの手を強く振り払った。一歩、また一歩と後ずさりする。  柊一さんは拒絶されたことにショックを受け、目を見開いて硬直した。 「七瀬……?」 「見ないで、お願いだから見ないで……。もう、嫌だ……っ」  乱れた衣服、首元に刻まれた生々しい鬱血の痕、そして怯えきった俺の瞳。  聡明な彼が、俺の身に何が起きたのかを察するのに、一秒もかからなかった。柊一さんの顔から、すうっと血の気が引いていくのが分かった。  柊一さんの瞳の奥に、世界を焼き尽くさんばかりの漆黒の怒りが灯る。それは太一に向けられた、完全な『殺意』だった。  同時に、彼は消え入りそうな声で泣きそうな顔になり、今度は拒絶されないよう、壊れ物を扱うようにゆっくりと俺との距離を詰めた。 「……太一に、やられたのか」 「ごめんなさい……っ、ごめんなさい、俺、もう、柊一さんの隣にいられない……っ」  汚されてしまった。もう愛してもらえるはずがない。そう言ってボロボロと涙をこぼす俺を、柊一さんは逃がさないように強く、強く、腕の中に閉じ込めた。 「何言ってる……。そんなことで、俺がお前を離すわけない」  柊一さんの声が怒りで低く震え、けれど俺を抱きしめる腕は、痛いほど優しかった。 「お前をこんな目に遭わせた奴は、俺が絶対に許さない。……まずは家に帰ろう。綺麗に洗って、俺の匂いだけで満たすから」 「柊一さん――っ!」  彼の名を呼び、俺は溢れる涙をこらえきれなかった。柊一さんの胸は温かかった。 「七瀬の部屋初めて来たな」  柊一さんは興味深そうに部屋を観察する。 「柊一さんの部屋と違って、ワンルームで狭いよ。最低限の物しか置いてないし」  俺は涙でひどく腫れた瞼を手で擦る。 「まずはシャワー浴びるか。七瀬、綺麗に洗ってやるから」 「でも狭いよ?」 「気にするな」  俺は柊一さんを連れてユニットバスに入る。 「トイレと一緒だから狭いんだ、浴槽しか洗い場ないけど――」 「構わない、洗う場所があればいい」  俺は申し訳ない気持ちに包まれる。柊一さんの部屋は2LDKのメゾネットタイプの部屋。一流ブランドが勢ぞろいしているインテリアにアイテム。俺の部屋にあるのは100均オンパレードなアイテムばかり。精々ホームセンターで買ったものが高価な部類。彼との差を感じずにはいられない。 「どうした、七瀬?」 「柊一さんみたいなセレブな人から見たら、俺ひどく平凡でつまらない人間だなって」  柊一さんは俺の頭を小突く。 「七瀬のクセに難しい事考えるな。お前はお前でいいんだよ」  俺は目を潤ませ、彼の目を見つめる。 「そんな顔するな、お前はそのままでいいんだ」  泣きはらした目にまた涙が落ちる。 「柊一さ――ん――!」  俺は彼にしがみつく。 「バカ、また泣くなよ。今日泣いていいのはベッドの上だ」 「――俺、太一に――俺、汚されて…――」 「汚されたとか、どうでもいい。お前が誰に何をされたって、俺が手放すわけないだろ」  彼の言葉が心に染みてくる。涙が止まらなくなる。  彼を包むこの香り。太一の香水と同じなのに心なしか柊一さんの香りは甘く感じてくる。  いつも意地悪な事を言って、俺に悪態ついてくる柊一さんとは違う。  三年前、俺が上司に推されて行ったジャズバーで酔い潰れた後、優しく介抱してくれたあの時と似ている。月明かりの下、柊一さんの家のリビングで初めて会った時と同じ穏やかに接してくれたあの時と同じだ。  俺はあれから三年間ずっと柊一さんだけを想い続けてきた。太一はセフレとバカにしたけど、俺にとっては柊一さんと関係を持って、本望を遂げた。俺の片思いのままでもいい。 「七瀬、洗ってやるから泣き止めよ、…な」  彼の口調が柔らかい。泣いてる子供をあやすような声音だ。 「――ごめんね、柊一さん。俺情けなくって…」 「七瀬は情けなくなんかない、七瀬は七瀬のままでいい」 「柊一さ―――んっっっ!」  俺の目から涙が溢れる。愛しい人の名前を何度も叫ぶ。 「七瀬、これじゃいつまでたっても洗えないだろ」 「うん…ごめんね、柊一さん…」 「謝らなくていい。七瀬は何も悪い事してない」 「――バカで、ごめん――」 「知ってる、今更そんなこと謝るな」 「――そこは少しフォローしてよ…」  俺は少し拗ねた。柊一さんは少し肩を震わせている。 「バカの方が可愛げがあるだろ」  いつもの柊一さんの口調に戻っている。もっと甘やかしてほしいのに。  柊一さんはトントンと俺の背中を叩く。 「洗わせろよ、七瀬。服、俺が脱がしてやろうか?」  俺は柊一さんから身体を離し、左右に首を振る。 「俺が自分で脱ぐよ、柊一さんは自分の服脱いでよ」 「――七瀬がそうしたいなら、そうする」  彼は俺の目の前で服を脱ぎ、浅黒い肌を俺の目に晒す。  無駄な肉が一切ない、という表現は正確ではない。彼の肉体には、生きるための目的を持った肉が、過不足なく、あまりにも調和した割合で配置されていた。筋肉質な俺とは違う柊一さんの身体。その均整の取れた美しい身体を見ると、俺はこの穢れた身体を彼に預けていいのかと躊躇っていた。見かねた柊一さんが声を掛けてくる。 「七瀬、やっぱり俺が――」  その声を遮って、彼から視線をそらし、俯いて俺が掠れた声で喚く。 「俺の身体は穢れた、とても柊一さんの前に出せない。身体のあちこち生傷みたいになって俺の芯を壊してくる――」  柊一さんは、俺を腕の中に押し込むと、やや上ずった声を出した。 「七瀬は何も穢れてなんかない。七瀬の生傷がお前の芯を壊すのなら、俺が全部上書きして壊さないようにしてやる」  柊一さんの手がわずかに震えている。  ――柊一さんも怖いの?―― 「――ごめん、柊一さん…、やっぱり柊一さんの手で脱がして。俺、自分で自分の身体を見るのが怖い――」 「謝るな、七瀬。お前は何も悪くない」  彼はゆっくりと俺の身体を離すと、俺の乱れた服に手をかけた。いつもなら焦らすように服を脱がせるのに、今回はシャツのボタンをいくつもちぎるような勢いで剥ぎ取っていく。太一ほど乱暴じゃないけれど、いつもの柊一さんとは違う。肌に触れると、手が、微かに、けれどはっきりと震えているのがわかる。  ――柊一さんも怖いんだ――  『でも、七瀬君。柊一はあなたの事を大事に思っているわ。だからセフレだなんて思わないで』  美也子さんの言ってたことは本当なのかな、俺、少しは期待していてもいいのかな。想いが少しは通じてると捉えてもいいのかな。  ね、柊一さん。

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