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心拍数18 会議

 今日は打合せブースではなく、会社の会議室で行われる。  普段呼ばれることのない会議室に呼ばれ、少し俺は緊張していた。  円卓の向かい側に座る現役ベーシストの太一は、いつも平然と笑っていたが、今はこれ以上ないほど勝ち誇った顔をしていた。  今回のプロジェクトは、大手の印刷会社である我が社の技術力を結集させた、太一のジャズベース本の製造計画。太一はその発注元であり、知名度もある(グーグルには載ってなかったが)現役アーティストという立場を悪用し、昨日、プロジェクトの窓口になった俺の肉体を無残に凌辱したのだ。 「いいか、これは大手印刷会社が総力を挙げて動かしてる大型プロジェクトなんだよ。お前がいくら泣き寝入りしようが、上が俺を切るわけがない。俺の機嫌を損ねて、この大口案件を飛ばしたいのか?」  俯く俺を、太一は絶対的な勝者の目で嘲笑う。大企業の看板と、現役ミュージシャンとしてのプライド。その二つの後ろ盾がある太一には、何の死角もないはずだった。俺は太一の靴の汚れをこんな大勢の前で拭かなきゃならないのか…。俺は絶望する。  その時、重厚なドアが静かに開いた。 「──他人の用意した旋律の裏で、ただルート音をなぞることしかできなかった男が、ずいぶん大層な専門書を書いたものだな」  低く、部屋の空気を一瞬で凍りつかせるような声音。いつもの彼より落ち着いた声。完璧なスリーピースのスーツを着こなした柊一さんが、製造を担当している我が社の営業本部長(最高責任者)を従え、淡々と入室してきた。  ――むっちゃ、カッコイイんですけど!!―― 「し、柊一……!? なんでお前が……!」  太一の顔から一瞬で余裕が消え、椅子をガタつかせて立ち上がる。柊一さんは太一の動揺など視界にも入れず、俺のすぐ隣の席へ腰を下ろすと、怯える俺の手を机の下で優しく包み込んだ。柊一さんの体温が俺に落ち着きを取り戻させてくれる。 「驚くのも無理はない。市原太一くん、君が自信満々に持ち込んだそのベース本の印刷計画だが──先ほど、我が社の役員会で、製造ラインの全面中止、ボツが決定した」 「な……中止って、嘘だろ……! 大手のうちのバンドの、しかも現役の俺の専門書だぞ!? 上がそんな損失を認めるわけがない!」 「損失?君の本がもたらす程度の印刷利益が、私の作品の製造ラインに勝てるとでも思っているのか?この大手印刷会社にとって、年間数十万部を刷り上げる私の新刊の印刷権を他社へ持っていかれることの方が、よほど致命的な損失だ。  上層部に『彼の本をこの工場で刷るなら、私は今後この会社で一切本を刷らせない』と一言告げるだけで十分だったよ」  柊一さんの後ろに控える営業本部長が、申し訳なさそうに、けれど厳かに深く頷く。  一人の「天才作家」が持つ、印刷業界内での絶対的な発言権。どれだけ現役の有名ミュージシャンであっても、柊一さんの「刷らせる本のボリューム」の前では、ただの吹けば飛ぶような存在に過ぎなかった。会社の経営陣からすれば、太一の一冊を守るために柊一さんという大口顧客を失うわけにはいかないのだ。 「音楽理論としても、言葉としても破綻している君の拙い原稿に、我が社の貴重な紙も、インクも、一滴たりとも使わせるわけがない。市原太一くん、君の席はもうここにはない。今すぐ私の視界から消えてくれ」 「お前、昔のよしみだろ……! 音楽を諦めて、やっと、やっと掴んだ俺の新しい舞台なんだよ……!」 「昔のよしみだからこそ、お前の逃げ道をすべて塞いだんだ。現役の肩書きがいつまで持つか、楽しみにしているよ」  すべてを失い、現役としてのプライドも、言葉を形にする手段も完全に殺された太一は、這うようにして会議室から連れ出されていった。ドアが閉まった瞬間、柊一さんはすぐさま俺の方を向き、俺の震える手をその大きな掌で包み込んだ。 「──待たせて悪かった。お前の心を傷つけたあいつの『言葉』も『夢』も、全部俺の力で、灰にしてやったから」  その力強い体温に触れた瞬間、俺の胸の奥で、太一に対する恐怖の残滓が完全に消え去っていくのが分かった。  会議室を出ると、何もなかったように俺と柊一さんは別れる。  もしもここで何かアクションしようものなら、それをエサに柊一さんが嫌いなメディアにあることない事書かれてしまうかもしれないから。素性を明かさない作家のスキャンダルなんてマスコミがこぞって書くに違いない。俺と柊一さんは知り合いの関係程度に思わせるのが得策だろう。  柊一さんは太一に復讐したのだ。俺の為でもあるし、柊一さん自身の為でもある。  もう俺は太一の影に怯えなくてもいいんだ。それが何より嬉しい。  俺は営業本部長に頭を下げ、俺の営業部の部屋へ戻る。 「あれ?七瀬会議終わったのか」  営業部の部屋に入って早々、同僚から声がかかる。 「ああ、企画がぽしゃったから。俺はいつも通り事務の仕事をするよ」  俺は何気なく口にしたが、周りは驚愕していた。 「えええ?!嘘だろ、上に上がれる大チャンスだったのに」 「あのイケメンに嫌われたのか!?」 「何かやらかしたのか、七瀬!!」  次々に営業部のヤツが口々に騒ぎ立てる。 「しょうがないじゃん、企画おじゃんになったんだから。俺は事務方気に入ってるからいいんだ」  俺は自分の席に座り、未処理の書類に目を通していく。 「惜しかったな、七瀬」  俺の上司が残念そうに言う。 「いいんです。俺は俺の仕事をしますから」  まだ手に残る柊一さんのぬくもりを感じつつ、俺は笑った。  昼休み。  俺はまた一人で食堂に行く。 「七瀬!関根柊一が来たってホントか!?」  『関根柊一』を俺に教えてくれた、川田が俺を見つけて、人を押しのけ駆けこんでくる。 「しかも、そのせいで営業と合同企画がお流れになったとか――ってかお前、やけに幸せそうな顔してるな」  心が全部顔に出る俺はどうやらニヤケ面してたらしい。柊一さんが太一を灰にしてくれた。もう二度と会うこともない。それにしてもカッコよかったな、柊一さん。 「あー!今日も首筋にきっかりつけてやがる!キスマーク」  俺は更ににやける。 「えへへー。羨ましいだろー」  川田は顔を引きつらせている。俺の身体も精神(こころ)も柊一さんのモノだ。仮想の彼女と仲良しなのが余程面白くなかったのか、川田は「脳筋のクセに」と文句を言う。 「世の中には脳筋を好きって人も居るんだよ」  ね、柊一さん。

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