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心拍数20 平和な朝

 あの騒動から一ヶ月。  太一のベース本は完全にボツになり、彼はバンドからも、音楽業界からもいなくなったらしい。詳しいことは、頭の悪い俺にはよく分からない。柊一さんが「もうあの男は来ないよ」と言ってくれたから、ただ「そっか、よかった!」と安心しているだけだ。  それよりも、今の俺には、目の前にある平和な朝のほうがずっと大事だった。  週末の午前。  カーテン越しに柔らかな朝の光が差し込む寝室で、俺は柊一さんの腕の中にすっぽりと収まっていた。 「……ん、柊一さん、お腹空かない?」  もぞもぞと動こうとすると、腰に回された大きな手にぐっと引き戻され、余計に彼の胸元へと押し付けられる。 「まだ寝ていろ、七瀬。今日仕事は休みだろう」  低く、少し掠れた寝起きの声。  柊一さんは俺の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。毎日毎日、まるで自分の匂いが消えていないか確かめるみたいな、ちょっとくすぐったい儀式。 「昨日買ってきたプリンまだ有ったよね?」 「朝からプリン食う気にならねえよ。腹が減ったなら俺が作るから」  そう言って、柊一さんは俺の手に自分の長い指を絡めた。あの夜、俺の身体を激しく抉った指先は、いまは嘘みたいに優しくて、俺の手のひらを愛おしそうになっている。 「リクエストがあるなら聞くぞ」 「じゃパンにして軽く食べられるから」  俺は彼にリクエストした。今は白米って感じじゃない、軽くパンが食べたい。 「ピザトーストでどうだ?すぐに焼ける」 「いいね、ピザトースト!そういうのがいい」 「わかった」  彼はベッドから起き上がり、寝室を出て行った。  俺もベッドから起きて、身体を伸ばす。  今日は何をしよう。そう言えば、柊一さんの新作小説は出たのかな、珍しくサイン会があるって言ってた本。  柊一さんはサイン会をほとんどしない。メディアの前にも出ないし、ファンの前にも現れないっていう徹底ぶり。昔何かあったらしいけれど、それが何かは美也子さんも柊一さんも教えてくれない。  柊一さんは謎が多すぎる。神秘的といえば聞こえはいいけど、前より心の距離が近くなったんだから、少し位教えてくれてもいいと思う。俺は好きな人の事なら何でも知りたい性格だ。太一の話にしてもそうだ。初めから教えてくれれば――って、どうにもならなかったか。  あ、柊一さんの女性関係の事は別に教えてくれなくてもいいけど。知りたくもないし。  久々に柊一さんのとこでゲームでもやろうかな。PSもあるし、Switchもあるし。それとも音楽でも聴いていようかな。アレクサに言えば、Amazonに入っている音楽ならかけてくれる。音楽にそれほど拘りがないので、どんな音楽でもいい。柊一さんの家だからやはりジャズかな。  ジャズも細かく分けると色々あるみたいで、1940年代から1960年前半の物をモダンジャズというらしい。それ以降はまた細分化されてて、俺の頭じゃ追いつかない。  とりあえずリビングに行こう、話はそれからだ。俺は少し眠い目をこすりながら、寝室を後にし、一階のリビングに行った。  俺のスマホが鳴っている。どうやらラインを受信したらしい。俺はバッグに突っ込んであったスマホを取り出す。 『『関根柊平』の絵画イベント、人手が足りなくて営業部の事務班から七瀬も行くことになったみたいだぞ』  会社の同僚からのラインだった。  ――『関根柊平』?知らないけど、名前だけ聞くと柊一さんと何かしら繋がりがあるような人に思える。絵画のイベントってことは画家なのか。  俺は文化系に極端に疎い。余程有名でもない限り、知らない。こういう時はGoogleさんに頼るしかない。俺は名前を入力してGoogleの検索結果を待つ。  『関根柊平 1991年10月23日生まれ AB型 画家』…あれ、柊一さんと誕生日一緒なんだけど。偶然?いや、こんな偶然があるわけがない。柊一さんは家族の話をほとんどしないけど、これは明らかに家族。バカな俺でもわかる、柊一さんは双子だ。弟か兄かはわからないけれど。  俺は彼が居るだろう、キッチンに急ぐ。 「柊一さんて双子なの?」  振り向いた顔はやけにけだるげだ。 「何故そんなこと言い出す」  俺は少し興奮気味に、 「生年月日が柊一さんと同じで、名前が関根柊平っていう画家の人が居るんだけど…その人の仕事俺やらなくなっちゃって!」  彼は冷めた顔をする。 「お前の会社も大概だな。あいつの仕事するとか――」 「柊一さんのお兄さんか弟なんでしょ?その人」  柊一さんはレンジに向き直る。 「兄貴だ、俺と双子の」 「お兄さんなんだ――」  チンと音が鳴る。柊一さんはレンジに入ってた物を取り出して、ダイニングテーブルに並べる。 「ほら、出来たぞピザトースト。くだらねえこと言ってないで食え、七瀬。腹が減ってるんだろう」 「くだらなないことじゃないよ。柊一さんのお兄さんなんでしょ」 「くだらねえんだよ、兄貴の事なんて」  柊一さんは顔色一つ変えないが、言葉は冷たい。 「大体、七瀬は事務方じゃないのか。イベント関連の仕事なんてすることないだろう」 「人手が足りないみたい…余程有名な人なんだね」 「七瀬も忙しいな、あいつ如きのイベントで駆り出されるなんて」  柊一さん、顔こそ怒ってないが、言葉は毒を帯びている。  同じ家族、しかも双子の兄弟なのにこの柊一さんの態度は何なのだろう。妹の話をした時はもっと笑っていた気がする。 「ピザトースト冷めるぞ。早く食えよ」 「うん……」  俺はテーブルに着き、柊一さんの作ったピザトーストを食べ始める。 「美味しい……」  俺は思わずつぶやいた。 「それはよかった」  柊一さんも席に着き、ピザトーストを食べ始めた。 「柊一さん、お兄さんと仲悪いの?」 「別に。関わりたくないだけだ」  柊一さんはそれ以上何も言わない。これは何かあるなと思ったが、彼の機嫌を損ねることはしたくないので、触れずにいよう。俺も仕事で会うただのクライアントとして接しよう。…出来るかな。  第一、顔も見たことないし。仕事で嫌でも会うのかもしれないけど。それはその時に考えよう、今はやっと平和な日常を取り戻せたことを祝おう。  太一は去った。その事実だけで嬉しい。 「七瀬、新しいゲーム手に入ったけど、一緒にやるか?」 「うん、やる」  ひとまず、彼とゲームから始めよう。 「負けたら罰ゲームな」 「えー、何それ~!」  ダイニングに響く笑い声。おバカな平凡サラリーマンな俺と柊一さん…天才作家が紡ぐ物語は、まだまだこれから――。

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