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【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く5
「七瀬、お疲れ。着いたぞ」
十時ちょうどに柊一さんの車で出発し、新緑のドライブを楽しんでいるうちにお昼を過ぎた時間になった。柊一さんが連れてきてくれたのは、山あいにひっそりと佇む、風情のあるお洒落な蕎麦処だった。
「うわあ、美味しそう……!」
運ばれてきた瑞々しいお蕎麦を前に、俺のテンションは一気に上がる。早く食べたくて、俺は自分のポケットをパタパタと叩いた。
「あれ? ……あ、そうだ。俺、財布とスマホしか持ってないんだった。バック忘れたのかと思って一瞬焦っちゃった」
へへ、と間抜けに笑う俺を見て、お蕎麦に箸を伸ばそうとしていた柊一さんの手がピタリと止まる。柊一さんは深く、長いため息をついた。
「七瀬。朝、俺が『財布とスマホだけ持っていけば十分だ』と言ったのを忘れたのか」
「あ、そうだった!柊一さんが俺の服、トランクに詰めてくれてるんだよね。俺って本当にバカだなぁ」
自分で自分の頭をぽんと叩いて笑う。だけど柊一さんは笑うどころか、どこか呆れたような、それでいて酷く熱を孕んだ目で俺をじっと見つめていた。
「……お前、本当に分かってないな」
「え?何を?」
首を傾げる俺の額を、柊一さんの長い指が小突く。
「下着から何から、すべての衣服を俺に握られているという意味だ。もし俺がここで気が変わってお前を置き去りにしたら、お前は着の身着のままで、他人の用意した服に着替えることもできずに立ち尽くすことになるんだぞ」
柊一さんの低い声が、なぜか少し意地悪に響く。だけど、おバカな俺は「へえ?」と間抜けな声を出すことしかできなかった。
「でも、柊一さんは俺を置いていったりしないでしょ?」
1ミリの疑いもなく、満面の笑みでそう言うと、柊一さんは一瞬だけ目を見開いた。それから、片手で自分の顔を覆うようにしてガシガシと頭を掻く。
「……お前、そういうところだぞ。これ以上俺を煽るなら、宿に着く前に車の中で食う」
「えっ!?お蕎麦ならここにあるよ!?」
焦る俺を見て、柊一さんは降参したようにふっと笑った。
「…って、七瀬、ワサビ入れ過ぎだろ、それ」
「信州そばだもん。美味しく食べないとって」
俺は蕎麦屋さんが用意してくれたワサビを一気に全部入れた。
「ひいいいいい~からい~」
柊一さんは短くため息をつく。
「当たり前だ。バカ」
柊一さんは俺の頭を小突いた。
「全くお前の無自覚なバカ発言の所為で、こっちは煽られて焦らされて大変だったんだぞ」
柊一さんは意味の分からないことを言っている。俺は小首を傾げる。
「そういう行動だ、バカ。気づけよ!?」
「あ……」
唇を奪われる。
「お、俺何かしたの?言った?わかんないんだけど」
また唇を奪われる。
「お前のバカ発言のお仕置き」
そして車は出発する。
「俺そんなにバカなこと言った?よくわかんないんだけど?」
信号待ちに入り、またキスを唇に落とされる。
「本当に食うぞ、七瀬」
「さっき蕎麦食ったじゃん。美味しかったー!」
信号がまだ赤なので、また唇を奪われる。
「………」
重ねられる唇に俺も熱に浮かされてくる。
「本当にお前はバカなんだから、少しは自覚しろ」
「俺自分でもバカだってわかってるよ?それじゃダメなの?」
また信号待ち。
当然のようにキスが落とされる。
俺は意味がわからないまま熱だけ持たされることになった。
お昼ごはんの後の車内で、おバカな発言をしたお仕置きとして柊一さんにさんざん唇を塞がれた。そのせいで、俺の頭は宿に着くまでずっとフワフワしたままだった。
「ほら、着いたぞ。降りる準備をしろ」
柊一さんの声でハッと我に返る。車が止まった。
客室がわずか八室しかないというその隠れ宿は、廊下を歩いていても他の宿泊客の気配が一切なく、まるで世界に二人きりになってしまったかのような錯覚を覚える。
案内された和室の障子を閉めると、川のせせらぎだけが室内に満ちた。
「うわあ、すごい……。テレビもないんだ。柊一さん、本当に静か~」
感動して部屋を見回していると、宿の仲居さんがお茶と一緒に、お揃いの部屋着(浴衣)を置いていってくれた。
仲居さんが下がったのを見計らって、俺は嬉々としてその浴衣に手を伸ばす。
「あ、部屋着は宿のやつを使うんだよね!俺、さっそく着替えてもいい?」
自分の荷物は財布とスマホだけなので、目の前にある宿の浴衣を着る気満々で訊ねる。すると、畳の上に大きなトランクケースを置いた柊一さんが、じっとこちらを睨むように見つめていた。
「……柊一さん?どうした?」
「馬子にも衣裳だなって、な」
「何それ?」
柊一さんは頭をかいていた。
「バカはバカなりに服が良ければよく見えるってこと」
「ぶー!」
俺はむくれる。
「何がぶーだ、ほら」
と、柊一さんがトランクから自分の荷物を取り出しながら笑う。
「せっかくの温泉なんだから、柊一さんも早く浴衣に着替えてよ」
と、俺が急かす。
「俺はいい。お前みたいに子供っぽくはしゃげない」
と、断る柊一さんを、俺が「お揃いにしようよ!」と強引に巻き込む。渋々着替えた柊一さんの浴衣姿が想像以上に格好良くて、今度は俺が圧倒されて赤面してしまう。
じっと見つめてしまった俺の視線に気づいたのか、柊一さんがにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「なんだよ。見惚れたか?」
「なっ、ちが、違う!」
心臓が口から飛び出そうになって、必死に否定する。だけど、柊一さんは一歩、また一歩と畳を踏んで俺との距離を詰めてきた。
「ふーん。じゃあなんでそんなに耳まで赤くなってんだ?」
すっと影が落ちてきて、柊一さんの端正な顔が目の前に迫る。微かに香る、いつもの柊一さんのオリエンタルな香水と、旅館の畳の匂いが混ざり合って頭がクラクラした。
「……っ、柊一さんが格好良すぎるせい!」
勢いに任せて本音を叫ぶと、柊一さんは一瞬だけ目を見開いた。すぐにふいっと顔をそらし、頭をごしごしと掻く。
「……バカ。さっさと着替えろ」
その声がいつもより少しだけ低くて、俺の胸はさらに締め付けられた。
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