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【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く6

 柊一さんに背を向けるようにして、大慌てで浴衣に袖を通す。帯の結び方は適当になってしまったけれど、これ以上赤くなった顔を見られたくなくて、「着替えました!」と急いで振り返った。 「……うん、悪くない」  柊一さんは窓際にある二人がけの椅子に腰掛け、お茶をすすりながら俺を一瞥した。その視線だけで、また心臓が跳ね上がる。  夕食まではまだ少し時間がある。俺は柊一さんの正面の椅子に座り、手持ち無沙汰に自分のスマホの画面を眺めた。画面をスクロールするフリをしながら、視線はついつい、液晶の反射越しに柊一さんを追ってしまう。  はだけた浴衣の胸元から覗く、男らしい鎖骨。いつもはカチッとしたスーツやカジュアルな服が多いから、こういう無防備な姿は破壊力が強すぎる。 (落ち着け、俺。柊一さんはただ、気まぐれに俺の身体を抱いただけだ。変に恋人面して嫌われたら、この関係すら終わってしまう……)  ぎゅっとスマホを握りしめて自分に言い聞かせる。  一線を超えてしまったからこそ、この片思いは余計にタチが悪い。肌を重ねるたびに「もしかして」と期待しては、その優しさがただの「男の余裕」や「身体の相性の良さ」によるものだと思い知らされて、胸がズキズキと痛む。 「おい」  不意に低く名前を呼ばれて、肩がビクッと跳ねた。 「は、はい!」 「そんなに緊張してスマホ見つめて、誰かと連絡でもしてんのか?」  柊一さんが、わずかに眉を寄せて俺を見ている。その目は、どこか不機嫌そうにも見えた。 「え?いや、別に誰とも……。なんとなく画面を見てただけ」 「ふーん……」  柊一さんは湯呑みを机に置くと、椅子の背もたれに体を預け、じっと俺を見つめた。 「せっかく二人で温泉に来たんだ。スマホじゃなくて、俺を見ろよ」 「……っ」  冗談めかした口調なのに、その声はひどく甘く響いて、俺の思考はまた真っ白に染まっていく。 「それとも何?部屋に入ったばっかなのに、もう別のこと考えてんの?」  柊一さんが立ち上がり、俺の椅子の前まで歩いてくる。畳を踏む足音がやけに大きく聞こえて、逃げ出したいのに身体が動かない。柊一さんは俺の椅子の両肘置きに手を突き、上から覆いかぶさるように顔を近づけてきた。はだけた浴衣の隙間から、男らしい胸元がすぐ目の前に迫る。  先日、その肌に自分が触れたときの熱さが脳裏に蘇って、一気に耳まで熱くなった。 「……ひゅう、いちさん……近い」 「遠くする理由、ねぇだろ。ここ、鍵かかってるし」  フッと鼻で笑いながら、柊一さんの長い指先が、俺の浴衣の襟元にゆるりと掛けられる。 「飯の前に……一回、しとく?」  その瞳はからかっているようで見えて、奥のほうでジリジリとした暗い熱を孕んでいた。もちろん俺は、これが「ただの旅行のテンション」だと言い聞かせることで、精一杯だったけれど。  コンコン、と絶妙なタイミングで部屋の障子が叩かれた。 「失礼いたします。お夕食のお時間です」 「チッ……」  柊一さんが露骨に舌打ちをして、身体を離す。俺は破裂しそうな心臓を押さえながら、お盆を持って入ってきた仲居さんに、心の中で激しく感謝の祈りを捧げていた。 「失礼いたします。お食事の準備が整いましたので、離れの個室へご案内いたします」  仲居さんに案内されて、迷路みたいな長い廊下を渡る。たどり着いたのは、お庭の奥にある、すっごく高級そうな離れの個室だった。静かすぎて、外の虫の声がめちゃくちゃ響いている。 (うわ、すげえ……! 完全に文豪のお忍び旅行じゃん!)  緊張で喉が鳴るのを隠しながら、座布団に腰を下ろす。 「お前も座れよ。そんなに離れて座るな」  柊一さんが、自分の真横の席をポンポンと叩いた。 「え? 対面のほうが、柊一さんの顔がよく見えて眼福なんですけど」 「いいから横に座れって」 「はーい」 と、素直に隣の座布団へ移動する。浴衣の袖ががっつり触れ合う距離で、柊一さんのいい匂いがして、ちょっとドキドキする。 「……何、そんなに緊張してんだよ。さっき部屋で、続きしたかった?」 「ち、違うよ! ……あの、柊一さん」 「ん?」 「柊一さん、見て!お肉が信州牛って書いてあるよ!すっごい霜降り!」  目の前に並んだ、長野ならではの贅沢な山の幸を前に、俺のテンションは最高潮になる。囲炉裏でじっくり焼かれた岩魚(いわな)の塩焼きや、ツヤツヤした信州お肉、採れたての瑞々しい山菜。  お揃いの宿の浴衣を着ているせいか、なんだかいつもより柊一さんとの距離が近く感じられて、それだけで胸が弾む。 「……。落ち着いて食べろ、七瀬。誰も取らないから」  柊一さんはふっと目を細め、俺の前の小皿に、綺麗に骨を外して身をほぐした岩魚を置いてくれる。 「わ、ありがとう。柊一さん優しいなぁ」 「お前が美味そうに食べるから、甘やかしたくなる」  差し出された箸から直接、ぱくりと魚を口に含む。川魚特有の上品な旨味が広がって、 「美味しい!」 と、頬を押さえる俺を、柊一さんは信州の地酒のグラスを傾けながらじっと見つめていた。  その切れ長の瞳が、いつもより少しだけ熱を孕んでいる。 「…七瀬。夕食が終わったら、蛍観に行くぞ」 「うん。宿からどのくらいかかるの?」  柊一さんはスマホで何か確認している。 「だいたいタクシーで30分位だ。志賀高原ゲンジボタル公園に行く」 「ゲンジボタル?」 「蛍の種類だ。ヘイケボタルとか他にも種類は居るな」 「そうなんだ」 「蛍追い回すなよ、ゆっくり見るのがマナーだ」 「…わかった」  柊一さんは訝し気に俺を見る。 「追い回しそうなんだよな、七瀬」 「しないもん!」  俺は胸を張る。柊一さんは目を細めて俺を見て、「どうだかな…」と言った。  俺だって子供じゃないんだから、追い回したりしない。…多分。 「蛍だって好きで光ってるわけじゃない。あれは求愛行動。主にオスが飛び回りながら光を放って、メスにアピールする。メスはそれに応えて光を返す…だから邪魔すんなよ」 「そうなの?蛍の求愛行動なんだ。なんかロマンチックだねー」 「そう思うなら、邪魔するなよ」 「うん、わかった」  俺は首を縦に振る。 「それより、柊一さんの飲んでる地酒少し貰ってもいい?」 「少しだけな、七瀬あまり強くないだろ」  俺のグラスに柊一さんが注いでくれる。 「ぷはー!美味しいけど、結構くるね…コレ」 「飲み過ぎるなよ、まだやることあるんだからな」 「わかってるよう」  俺は信州の地酒を少しだけ味わった。喉の奥がカッと熱くなり、遅れて鼻から抜ける米の甘い香りに息を吐く。たった一口なのに、温泉の熱が残る体にじんわりとアルコールが回っていくのが分かった。 「ほら、早く行かないと蛍が引っ込んじまうぞ」  柊一さんがクスリと笑って立ち上がり、俺に手を差し伸べる。 「あ、待って……」  立ち上がった瞬間、少しだけ視界がふわふわして足元がよろめいた。 「おっと。だから言っただろ」  すかさず伸ばされた柊一さんの大きな腕が、俺の腰をしっかりと支える。浴衣越しに伝わる彼の体温に、お酒とは違う熱が顔に上った。 「う、動けるよ。行こ、柊一さん」 「……危なっかしいな。ほら、手、繋いどくからな」  柊一さんは俺の言い訳を無視して、大きな手のひらで俺の指を包み込んだ。旅館のすのこを歩く下駄の音が、いつもより少し早く刻む俺の心臓の音と重なっていた。 「ほろ酔いで浴衣のまま夜道を歩かせるのは危ないからな。……着替えるぞ、七瀬」

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