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【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く7
柊一さんが立ち上がり、俺の手を引っ張って部屋に戻る。
彼は、自分の旅行鞄から綺麗に畳まれた服を取り出した。見覚えのない服に俺がパチクリと瞬きをしていると、彼はそれを俺の膝の上にぽんと置いた。
「これ、柊一さんの……?」
「お前に似合いそうだと思って、来る前に買っておいたやつ。ほら、浴衣脱げ」
柊一さんの大きな手が、俺の浴衣の帯にするりと掛けられる。ほんの少しお酒が回って頭がふわふわしているせいか、いつもなら「自分でできるよ!」と拒むはずの身体が、妙に素直になってしまう。
されるがままに帯を解かれ、浴衣が肩からハラリと滑り落ちた。部屋の冷えた空気が素肌に触れて小さく身震いすると、すかさず柊一さんの温かい手のひらが俺の二の腕を支える。
「……本当に、ちょっと飲んだだけで肌が赤くなるな、七瀬」
低く微かに掠れた声が耳元に届き、ドクンと心臓が跳ねた。
柊一さんは俺の返事を待たずに、用意してくれた柔らかな生地のシャツを頭からすっぽりと被せてくる。首元から顔を出した瞬間、ふわりと柊一さんの愛用している柔軟剤の匂いが鼻腔をくすぐった。新品のはずなのに、まるで彼のクローゼットに閉じ込められたみたいな錯覚に陥る。
「柊一さん、これ、サイズ大きくない……?」
「ん?そうか? ……いや、ちょうどいい」
柊一さんは少しだけはだけた俺の襟元を整えながら、満足そうに目を細めた。
少し長めの袖から覗く俺の手首を、彼の大きな指先が愛おしそうにひと撫でする。完全にお人形で、彼の好みに染められているような気恥ずかしさで、お酒のせいだけじゃない熱が身体の芯からじわじわと広がっていく。
「よし、ズボンも穿かせるぞ。足上げろ」
「う、それは自分で穿けるってば……っ!」
「はいはい。じゃあ、早く穿けよ」
クスクスと楽しそうに笑う柊一さんに見守られながら、なんとか着替えを終える。上から下まで柊一さんのコーディネートで塗り固められる。
彼は朝着てきた服を着た。俺もそれでよかったのになあ。どっちにしろ柊一さんの好みの服だし。
「よし、準備できたな。そろそろタクシーも来る」
「予約しておいたんだ…」
「地酒飲む予定だったからな。飲んだら運転できねえだろ」
そう言って、柊一さんは高級そうなデジカメと三脚を用意していた。
「普通のカメラじゃ蛍は撮れないからな」
俺は自分のスマホ、iPhoneで撮ろうとしていた。柊一さんに聞くと、iPhoneでも撮れなくはないが、ナイトモードに設定し、フラッシュはオフ、秒数を「最大(30秒)」に設定…とか他諸々言われたのでバカな俺には無理だと諦めた。
後で柊一さんに写真を見せてもらえればいい。
夜はこれから。長野の夜を満喫するぞ!
旅館の玄関に出て柊一さんが手配したタクシーに乗り込むと、車内は少し冷房が効いていた。
けれど、柊一さんが隣にぴったりと座るせいで、ちっとも寒くない。むしろ、狭い座席のなかで肩と太ももがぴったりと密着していて、お酒の熱が引くどころか余計に身体が熱くなっていく。
「……七瀬、寒くないか?服、少し大きかったろ」
「ううん、全然。柊一さんの匂いがして、なんか……落ち着く」
酔った勢いで正直に口にすると、柊一さんが小さく息を呑む気配がした。チラリと隣を見上げると、彼は少しバツが悪そうに窓の外へ視線を逸らしている。
けれど、座席に置かれた彼の大きな手が、俺の手をそっと包み込んで、そのまま指を絡めてくれた。暗い車内、運転手さんからは見えない位置での密かな恋人繋ぎに、胸の奥がキュンと切なくなる。
わあ、また勘違い起こしそう――。
『お客さん、着きましたよ。この先の遊歩道が、一番綺麗に見えるスポットです』
運転手さんの声でハッと我に返り、お礼言って車を降りる。タクシーが去ってしまうと、辺りは心地いい夜風の音と、遠くで聞こえる川のせせらぎだけの静寂に包まれた。
「うわぁ……すごくきれい……」
思わず息を漏らした。生い茂る草木の合間を、淡い緑色の小さな光が、優しく、ゆっくりと舞っている。まるで星空がそのまま地上に降りてきたみたいに幻想的な光景だった。
「……ああ、綺麗だな」
柊一さんの低い声が降ってくる。視線を感じて振り返ると、柊一さんは蛍ではなく、じっと俺の顔を見ていた。蛍の儚い光に照らされた彼の瞳が、ひどく熱を帯びていて、捕らえられたように動けなくなる。
「あ、の……柊一さん?」
ぽつりと名前を呼ぶと、絡めていた手のひらに、ぎゅっと強い力がこめられた。
「……そんなに嬉しそうな顔されたら、連れてきた甲斐があった」
柊一さんが一歩、距離を詰める。暗闇に紛れて、彼の顔がゆっくりと近づいてきて――。
トン、と。
俺の鼻先に、冷たいものが当たった。
「……ん?柊一さん待って、なんか今、鼻に、当たった……!」
「え?」
ムードもへったくれもない声を上げた俺に、柊一さんがピキッと動きを止める。俺は絡めていた手を力ずくでブンブンと振り解き、自分の鼻の頭を必死に指さした。
「ほ、蛍!蛍が俺の鼻に激突した!見て見て、今俺の鼻の頭、光ってる!?緑色にピカピカしてる!?」
「……いや、光ってない。もう飛んでった」
「えー残念。今の、写真撮ればよかったなぁ。鼻がイルミネーションみたいになってたのに!」
悔しがってスマホを取り出そうとする俺の横で、柊一さんが「はぁぁぁ……」と、本日一番の深い、深いため息を吐いた。額を手で押さえて、天を仰いでいる。
「……お前、本当にそういうとこだぞ」
「え?なにが?」
「……なんでもない。おい、それより、あっちの草むらの方がたくさん飛んでるぞ」
「本当だ!待って柊一さん、競争!どっちがたくさん蛍を見つけられるか!」
完全にテンションが上がってしまった俺は、柊一さんの用意してくれた少し大きめのシャツの袖をバタバタとさせながら、夜道を小走りで進んだ。お酒のせいで足元がちょっと怪しいけれど、楽しくて仕方がない。
「わー、あっちにもいる!ほら、柊一さん早く!」
振り返って手招きすると、柊一さんは少し離れたところで、ポケットに手を突っ込んだまま歩みを止めていた。街灯のない暗闇のなか、蛍の淡い光に照らされた柊一さんの顔は、なぜかちっとも笑っていなくて。
「……柊一さん?」
急に怖くなって足を止めると、柊一さんが静かに、けれど有無を言わせない足取りでこちらに近づいてきた。ぐい、と。長い袖の上から手首を掴まれ、そのまま人気の無い大きな木陰へと引っ張り込まれる。背中がゴツンと幹に当たった。
「わっ……ちょっと、柊一さ――」
「競争なんかしない。……お前、さっきから自分がどれだけ無防備な格好で、どれだけ俺を焦らしてるか分かってないだろ」
降ってきた声は、これまでに聞いたことがないくらい低くて、どろりとした熱を孕んでいた。柊一さんの大きな身体が目の前を塞ぎ、視界が完全に彼の胸元で埋まる。
「せっかく、お前が怖がらないように、旅館に戻るまで手を出さないって決めてたのに」
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