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【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く8
彼の親指が、さっき蛍が当たった俺の鼻の頭を、なぞるように強く、ゆっくりと押し潰す。
「……もう無理。ここで一回、キスさせろ」
「え、ま、待って、ここで――んむっ」
反論する間さえ、与えてもらえなかった。
柊一さんの唇が、勢いよく俺の唇を塞ぐ。驚きで大きく見開いた視界のなか、蛍の淡い光に照らされた彼の長い睫毛が、すぐ目の前で震えているのが見えた。
「……んんっ、ふぁ、」
唇を割って滑り込んできた熱い舌に、脳みそがじんわりと痺れる。バカな俺でも、これがいつもよりずっと深い、余裕のないキスだということくらいは分かった。逃げようと後ろにのけぞっても、背中は硬い木の幹に阻まれて逃げ場がない。それどころか、柊一さんは俺の腰に腕を回し、隙間を無くすように自分の身体をぴったりと押し当ててきた。
「は、く……っ、しゅ、いち、さ……」
息が苦しくなって胸を叩こうとしたけれど、柊一さんが用意してくれた大きめのシャツのせいで、袖が邪魔してうまく力が入らない。布地の中で泳ぐ俺の手首を、彼は片手で容易く掴み上げ、木の幹に縫い付けるように固定した。
「ん……っ、ふ、あ」
顎をくいと持ち上げられ、さらに角度を深くして貪られる。じゅ、と不埒な音が暗闇のなかに響くたび、恥ずかしさで涙が滲みそうになった。口内を隅まで舐めまわされ、さっき飲んだ地酒の香りが、二人の熱い吐息と混ざり合って何度もループする。まるで、お酒ではなく柊一さんのキスそのものに酔わされているみたいだ。
「……っは、ぁ、」
ようやく唇が離れた時、俺は膝の力が完全に抜けて、柊一さんの胸元にずるずると崩れ落ちていた。彼のワイシャツを掴む指先が、小さくガタガタと震えている。
「はぁ、はぁ……っ、なに、急に、びっくり、した……」
酸素を求めて喘ぐ俺の耳元に、柊一さんの熱い吐息が吹きかかる。
「びっくりした、じゃないだろ。……お前が可愛すぎるのが悪い」
柊一さんは、俺の首筋にふつふつと湧き上がる熱を確かめるように、そこに深く顔を埋めた。彼の大きな背中が、まだ興奮を収めきれないように、大きく上下している。
「……これ以上は、外じゃ無理だ。旅館に戻るぞ、七瀬」
「え?!柊一さん蛍撮影しないの?」
柊一さんはまたため息をする。
「お前が無防備過ぎて、それどころじゃなくなった。予定時間より早いが帰るぞ」
「予定時間より早いの?じゃもっと蛍観ていこうよ」
「それが無理だと言っているんだ!バカ、少しはこっちの身にもなれ」
俺は首を傾げる。何言ってるんだろう、柊一さん。意味が解らない。
俺たちは公園の入り口まで手を繋いで歩いた。その間も蛍がたくさん居て、目を楽しませてくれた。
蛍たちの求愛行動。俺は邪魔しなかったぞ。そういう余裕俺にもなかったけれど。
旅館に戻ると、柊一さんはフロントで何かを話し、小さな鍵を受け取ってきた。
「ほら、行くぞ」
「え?部屋戻らないの?」
「貸し切りの露天風呂、今から予約できたから入る。お前も来い」
「わーい!貸し切り?やったー!!」
俺は楽しかった蛍の余韻のまま、脱衣所でババッと服を脱ぎ捨てて、一足先に露天風呂へと飛び出した。
「うわぁ……!すっげえ……!」
目の前に広がっていたのは、大きな岩に囲まれた風情ある露天風呂だった。見上げれば満天の星空。すぐそこには、さっきの川のせせらぎまで聞こえる。大パノラマ~!!
「柊一さん!贅沢すぎ~!最高~!!」
ざぶんと湯船に浸かり、湯の温かさに息を吐きながら、遅れて入ってきた柊一さんを振り返る。柊一さんは、湯船に浸かる俺の姿を、どこか険しい目で見つめたまま、ゆっくりと湯に身体を沈めた。少し離れたところに座る柊一さんの肩や胸元に、湯気が絡みついて色っぽくて艶やかだ。その浅黒い肌と均整の取れた身体がより美しく見える。
(やっぱり、柊一さんは温泉の浸かり方すら絵になるぅ……)
俺が感心していると、柊一さんがお湯をかき分けて、じわじわとこちらに近づいてきた。気づけば、俺のすぐ目の前。岩に背中を預けた俺を、閉じ込めるように柊一さんが両手を突いた。
「……柊一さん?広いんだから、もっとあっち行けばいいのに」
「七瀬。お前、さっき『ホタルの求愛行動を邪魔しなかった』って言ったよな」
「あ、うん。柊一さんと約束したしね。邪魔したら可哀想だし……」
「じゃあ、俺の求愛行動 を邪魔すんのは、もっと可哀想だと思わないわけ?」
「へ?柊一さんもホタルに求愛するの?」
俺が本気で首を傾げると、柊一さんは額を押さえて、本日一番の深い深いタメ息をついた。
「……お前、本当にバカだな。言葉を操る職業やってんのがアホらしくなる」
「えっ、小説のアイディアの相談なら乗るよ!?」
「そんな相談しねえよ。バカ……いいから、大人しくしろって」
「んぐ……っ!?」
次の瞬間、塞がれた唇から、熱いお湯よりも熱い体温が流れ込んできた。お風呂のせいで頭がのぼせているのか、柊一さんのキスのせいで息ができないのか、もう分からない。はだけた俺の身体を、柊一さんの大きな手が、お湯の中でなぞるように深く強く抱き寄せてくる。
「っは、……柊一さん、ここ、外……っ」
「貸し切りだから誰も来ない。……それとも、わざと大きな声を出して、他の客を呼びたいか?」
「呼びたくないっ、呼ばない……!」
俺は首をぶんぶん振る。
「じゃあ、声が響かないように、俺の首にしっかり捕まってろ。……ほら、お湯の温度、ちょうどいいだろ?」
柊一さんのバリトンボイスで笑う声が、耳朶に直接吹きかけられる。俺は言われるがまま、縋り付くように柊一さんの首の後ろにやや筋肉質の腕を回した。
湯気で濡れた彼の硬い肩に触れるだけで、指先から熱が伝わってくる。
(やっぱり柊一さんは意地悪だ……)
この人は、いつもこうだ。
普通に女性とイチャイチャしているくせに、俺を抱くときは、まるで世界に俺しかいないみたいに激しく貪ってくる。
女性をたくさん囲っているくせに、俺に対しては信じられないくらい強引で、こうして旅先にまで連れ出してくる。
――それで俺がどんだけ嫉妬しているのかわからずに。
きっと、ただの退屈しのぎだ。言葉が巧みな人気作家にとって、俺みたいな頭の悪いヤツをからかって、ベッドの中で泣かせるなんて、ちょっとしたお遊びに過ぎないんだ。
「七瀬。お前、今また余計なこと考えてるだろ」
「考えて、ない……っ!」
突如、お湯の中で太ももをぐっと割り込まれ、身体が宙に浮くような感覚に襲われる。思わず声を上げそうになり、俺は柊一さんの肩口に頭を押し付けた。
「嘘つけ。顔に出てんだよ。お前のそのオツムで考えそうなことなんて、大体予想がつく」
柊一さんの大きな手が、俺の濡れた髪を容赦なく掴み、無理やり顔を上向かせる。月明かりに照らされた柊一さんの瞳は、意地悪く細められているのに、底のほうでドロドロとした暗い熱が渦巻いていた。
「どうせまた、俺には他にも相手がいるとか、そんなくだらないこと考えてんだろ。……お前は俺の言うことだけ聞いて、俺に抱かれてりゃいいんだよ」
「……あ、ぅ……」
「これ以上その口でただの友達とか抜かしたら、明日歩けなくなるまでめちゃくちゃにしてやるからな」
その言葉が、ただの脅しではないことは、お湯の中で俺の腰を固定した柊一さんの手の強さで痛いほどよく解った。
「ん、ぅん……っ!」
再び重なった唇は、さっきよりもずっと深くて、手加減が一切なかった。静かな星空の下、お湯が波打つ音だけが、誰もいない露天風呂に激しく響き渡っていた。
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