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【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く12
柊一さんは困ったように眉根を寄せ、ため息をひとつついた。だが、その瞳の奥には、俺の頑固さに半ばあきらめつつも、どこか愛おしさを隠しきれないような、昨夜見せたものとは違う、ひどく優しい光が宿っている。
「……お前というやつは仕方ない。言い出したら聞かないからな…」
そう言って、柊一さんはゆっくりと俺に歩み寄ってきた。床を踏む静かな足音が、俺の心拍数を容赦なく跳ね上げる。
「本当に、後悔しないな?」
目の前で立ち止まった柊一さんが、少し屈んで俺の顔を覗き込んできた。宿の浴衣から漂う、彼特有の香りと、昨夜さんざん浴びせられた体温が、すぐ近くで揺れている。
「後悔なんてするわけないじゃん。連れてって!」
「…わかった。ゆっくり運転するからな」
運転するってことは、柊一さんの愛車のボルボのステーションワゴンに乗っていくんだ。
北欧の洗練されたデザインと高性能。実用性の高い荷室と、いかにも高級車なセレブが乗っている高級車だ。俺は車どころか運転免許さえ持っていない。
「うん、よろしくね。俺、準備するから」
運転を代われるものなら代わりたいけれど、免許のない俺では到底無理。しかもこんな高級車なんておこがましい。隣に乗れるだけで凄いと思わないと。
でもいいのかな。こんなに甘やかされて。細かいところまで至れり尽くせりで。改めて胸がくすぐったくなるのと共に申し訳なくなる気持ちがある。柊一さんへの気持ちは俺の片想いなのに。
(また勘違い起こしちゃうじゃないか…)
俺は少しぎこちない動きで、部屋の隅に置かれた柊一さんの大きなトランクケースへと近づいた。パカン、とロックを外して蓋を開けると、そこには驚くほど丁寧に畳まれた俺のトレッキング用の服が収められている。吸汗速乾性の高そうなインナーに、動きやすそうな頑丈なアウター。どれも俺のサイズにぴったり合うように、彼が事前に選んで用意してくれたものだ。
「……本当に、何から何まで用意してるね」
「当然だ。取材のコーディネートも含めての計画だからな。おかしな格好で山に登られて、怪我でもされたら仕事にならない」
後ろから聞こえてきた柊一さんの声は、相変わらず淡々としている。けれど、トランクの半分を占める俺のための衣服の一着一着から、彼がどれだけ時間をかけてこの旅行を準備してくれたかが痛いほど伝わってきて、愛おしさが限界まで膨れ上がっていく。
「ありがとう、柊一さん。……じゃあ、着替えるね」
俺が浴衣の帯に手をかけると、柊一さんはふっと視線を窓の外の温泉街へと移した。そんな彼の少し不器用な気遣いに、俺は小さく笑みをこぼしながら、用意された服へと袖を通し始めた。
「山登りって言ったら、熊でないかな…怖いな、熊」
俺が用意されたボトムに足を通しながら、ふと気になって口にすると、柊一さんは荷物を整理していた手をピタリと止めた。
ゆっくりとこちらを振り返った彼の表情は、真面目そのものだ。
「熊、か。……確かに志賀高原はツキノワグマの生息地だな。遭遇する可能性はゼロじゃない」
「えっ、やっぱり出るの!?どうしよう、俺、襲われたりしたら!」
少し大げさに怯えて見せると、柊一さんはふっと口元を緩め、トランクのサイドポケットから金属製の小さなものを取り出した。チリン、と澄んだ、けれどよく響く音が静かな部屋に広がる。
「だから、ちゃんと準備してある。……ほら、熊よけの鈴だ」
柊一さんは、トランクケースからトレッキング用リュックを出し、そのリュックのファスナーに手際よくその鈴を取り付けた。
柊一さんは俺のそばに寄って、トレッキング用リュックの一つを渡してくれる。至近距離から漂う彼の体温と、匂い。昨夜、何度も俺の身体を支配した大きな手がすぐ目の前で動いている。
(わあドキドキする…)
「基本的には、これで音を鳴らして歩けば向こうから避けていく。それと最悪はこのスプレーだな」
「スプレー?」
「熊遭遇した時用の最終手段だ。熊の目や鼻の粘膜に激痛を与えてひるませ、逃げる時間を稼ぐことができる。今回用に調達しといた。七瀬の分もある」
俺はその熊用のスプレーを渡される。
「これ、俺の分……?」
受け取ったスプレー缶は、想像していたよりもずっしりと重く、物々しい雰囲気を漂わせていた。表面には英語の警告文と、牙を剥いた獰猛な熊のイラストが描かれている。
「そうだ。二人で行動するからといって、一本を共有するのはリスクが高すぎるからな。はぐれた時に対処できなくなるし、遭遇したパニックの最中に投げ渡す時間などない。必ず自分の手元、すぐに抜ける位置に携帯しておけ」
柊一さんはそう言うと、手慣れた様子で専用のホルダーを俺のベルトの位置に合わせてくれた。彼の指先が俺の腰のあたりに触れるたび、昨夜、そこを強く掴まれて何度も揺さぶられた感触がフラッシュバックして、体温が急上昇するのがわかる。
「あの……柊一さん」
「何」
「これ、本当に使うような状況になったら、俺、ちゃんとできるか不安……」
弱音を吐く俺に、柊一さんはベルトの金具をパチンと留め、ゆっくりと身体を離した。そして、諭すような、けれどどこか温かい眼差しで俺を見つめる。
「使う状況にならないのが一番だが、万が一の時は、風向きを意識して、熊が5メートル前後に近づくまで引きつけてから鼻先を狙え。……その時は俺がお前を守る。だからそんなに怯えるな」
そう言って、柊一さんは俺の頭をぽんぽんと軽く叩いた。壮絶だった昨夜の後だからこそ、彼が向けてくれるこうした不器用な優しさが、じわじわと胸の奥を甘く侵食していく。
「わかった。ありがとう、柊一さん」
俺がはにかむように笑った。
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