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【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く13
コンコン。
「お食事の用意ができました」
昨日の仲居さんだろうか。
「柊一さん、ご飯だって。昨日凄かったからね、朝も凄いのかな~」
俺がからかうように呟いた瞬間、柊一さんの目の色が変わり、音もなく距離を詰めてきた。大きな手が、容赦なく俺の口を力強く塞ぐ。
「……バカ。声が外に聞こえる」
耳元で、低く、けれど確実に焦った柊一さんの囁きが響く。もがく俺を見て、彼はフッとため息をつくと、ゆっくりと手を離した。いつもの冷静な表情に戻ろうとしているが、耳の端が真っ赤になっているのを俺は見逃さない。
「いいか、食事は個室処だ。廊下でも、あそこでも、余計なことを口にするなよ」
釘を刺すように言われ、俺は「うん」と小さく笑って頷いた。
浴衣の裾を気にしながら、俺たちは部屋を出て、宿の奥にあるお食事処の個室へと向かった。案内された個室のテーブルには、炊きたてのご飯、色とりどりの地元の山菜、焼き魚など、目にも鮮やかな朝食がずらりと並んでいる。
「美味しそう……本当に『凄い』~朝も」
個室の引き戸が閉まり、二人きりになった瞬間、俺がテーブルを見つめてそう言うと、お茶を注いでいた柊一さんが、ふっと視線をこちらに投げかけた。
「……お前が喜ぶと思って、ランク一番上の朝食を選んだ。早く座って食べろ」
ぶっきらぼうに言われ、俺は彼の向かいの席に腰を下ろした。動くたびに腰に軽い痛みが走るけれど、彼が俺のためにこの旅のすべてを用意してくれたのだと思うと、そんな痛みすら愛おしく思えてくる。
「贅沢~。いいの?俺にそこまでしてくれて…」
「お前だからいいんだよ。この旅行の為に残業も頑張ったんだろ、七瀬」
さらりと返されたその言葉に、俺の胸はドクンと大きく跳ね上がった。
(お前だから、いい……?)
いつもなら何かと理由をつけて一歩引くはずの柊一さんが、今はまっすぐに俺だけを見てそう言っている。しかも、俺がこの取材旅行を心待ちにして、必死に残業をこなしていたことまでちゃんと見ていてくれた。
「あ……うん。旅行の為って頑張った、けど……」
急に気恥ずかしくなって視線を落とすと、目の前にトントン、と静かにお茶の湯呑みが置かれた。
「だから、この旅の間くらいは遠慮するな。好きなだけ食え」
柊一さんはそう言うと、自分の席に戻り、箸を手にする。その表情はいつものように凛としていて、仕事の時に見せる冷静さを保っている。
けれど、彼は自分のためにランク一番上の特別な朝食を用意し、残業の努力まで認めて労ってくれている。昨夜の激しい熱情とはまた違う、深く静かな愛おしさに包まれているようで、視界がじんわりと潤んでいく。
「うん。いただきます、柊一さん」
俺が箸を手に取り、嬉しさを噛み締めるように地元の山菜に手を伸ばすと、柊一さんはご飯を口に運びながら、ふと何かを思い出したように視線をこちらに向けた。
「どうしたの?」
「ガキみたいな顔して食うよな、七瀬」
「だって美味しいもん、自然現象だもん」
柊一さんははーっと深いため息をつくと、
「だからお前はわかってないっていうんだ」
柊一さんはそう言うと、持っていた箸をそっと置き、組んだ両手の上に顎を乗せて俺をじっと見つめた。その切れ長の瞳が、からかうような、けれどたまらなく熱い温度を孕んで細められる。
「自然現象、か。飯を食ってそんなに無防備に喜ぶやつが、昨夜はあんな顔をして俺に縋りついていたんだぞ。そのギャップを、目の前で見せられている俺の身にもなってみろ」
「っ……!」
口に含んだばかりの山菜が、喉に詰まりそうになった。まさか、個室の静寂の中で、トレートに昨夜のことに触れられるとは思っていなかった。顔が一気にカッと熱くなっていく。
「し、柊一さん!声が……!」
「ここは個室だし、誰も聞いていない。……それに、お前が『朝も凄いのかな』などと部屋で言い出すから、釘を刺しているだけだ」
柊一さんはフッと意地の悪い笑みを浮かべ、再び箸を取り上げた。翻弄されているのは俺だけだと言わんばかりの冷静な態度。だけど、よく見れば彼の湯呑みを握る指先が、ほんの少しだけ強張っている。
(柊一さん可愛い!動揺してるじゃん!)
「……いいから早く食え。冷めるぞ」
ぶっきらぼうに促す柊一さんの視線は、もう俺の顔をまっすぐ捉えてはいない。少し照れくさそうに泳ぐその眼差しに、俺の胸は、恥ずかしさと同じくらい愛おしさでいっぱいになった。
抱きついたら怒られるかな…。
食事を終えて、部屋に戻った。
さっき用意していたトレッキング用リュックをお互いに持って、宿を出る。
「それにしても、お前、さっきからニヤニヤしすぎだぞ」
食事を終えて宿をチェックアウトし、志賀高原へと向かう車の助手席。
「えへへー」
俺はニヤケ顔を隠さずにいた。その時、俺は大事なことに気づいて口を滑らす。
「チェックアウトは?――あ、二泊三日だから、まだチェックアウトしなくていいんだった」
車の助手席に乗り込みながら俺が言うと、柊一さんは可笑しそうに口元を緩めた。
「お前な……まだ初日が終わったばかりだろう。もう帰る気か?」
「違うって!嬉しすぎて頭がフワフワしてるだけ。荷物は部屋に置いたままでいいんだね。最高じゃん」
「お前が勘違いしてただけだろ、バカ」
相変わらずな言いようだ。彼の悪態には慣れている。伊達に三年付き合っていない。
フロントガラスの向こうには、青空に映える鮮やかな緑の山々がどこまでも広がっている。 ハンドルを握る柊一さんは、時折バックミラーやサイドミラーを確認しながら、相変わらず涼しい顔で車を志賀高原へと走らせていた。
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