62 / 78
【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く16
「なんだ、俺の顔をじっと見て」
「あ、なんでもない!」
これ以上心臓の音を聞かれたくなくて、差し出されたベーコンを慌てて口に放り込む。ジューシーな旨味と一緒に、胸の奥の甘酸っぱい痛みがじんわりと広がっていくのが自分でもわかる。
柊一さんは本当にずるい。
こんな何気ない優しさや、からかうような視線のひとつひとつが、俺の「もしかして」という淡い期待をどれだけ膨らませているか、きっと全くわかってはいないのだろう。
「じゃあそろそろ行くか」
時計に目をやった柊一さんが、すっきりと空になったコーヒーグラスを置いて立ち上がる。
楽しい時間は本当にあっという間で、気がつけばランチタイムの終わりを告げるように、周囲の席も少しずつ片付けられ始めていた。
「ごちそうさま。めちゃくちゃ美味しかったあ!」
「お前が美味そうに食うから、それだけで俺は満足だ。ほら、行くぞ」
伝票を掠め取った柊一さんの背中を追いかけ、俺はレジへと向かう。もちろん自分の分は払おうと財布を出したが、「いいから」とあっさり遮られてしまう。こういうところも、いちいち格好良くて困る。
お店を出ると、2000メートルの標高の壮大な景色が広がる。美味しいものだらけでお腹も満たされ、胸や頭は柊一さんの所為でいっぱいで、ふんわりとした心地のまま、俺たちのランチタイムは幕を閉じる。
「柊一さん、次は何処行くの?」
「次は東館山高山植物園に行く。日本最大級の高山植物園で、軽くトレッキングも楽しめる」
「日本最大級かあ~!楽しみぃ~」
見上げる空は驚くほど近く、どこまでも青い。目の前には、山の斜面を覆うように緑豊かな高山植物園が広がっている。
「足元、気をつけろ。ここは自然の傾斜をそのまま活かしているから、結構急な階段や滑りやすい場所もあるから」
そう言って、柊一さんが自然な動作で俺の前に手を差し出してくれる。
差し出された手のひらを見つめ、また少し胸が熱くなるのを感じながら、俺はその手をそっと握り返した。大きくて温かい体温が、指先からじんわりと伝わってくる。
「ありがとう、柊一さん」
「ほら、見てみろ。あの一面黄色く咲いているのが、ニッコウキスゲだ。ちょうど今の時期が見頃らしい」
柊一さんが指差した先には、風に揺れる鮮やかな黄色い花の群生があった。緑の絨毯に散りばめられた星のように美しく咲き誇っている。
木道をゆっくりと歩きながら、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
時折すれ違う他の観光客の楽しげな声や、サラサラと葉を揺らす風の音。握りしめた手の温もりがあまりに心地よくて、この穏やかな時間がずっと続けばいいのに、と心の底から願ってしまう。
「この先を少し下ると、武衛門池 っていう小さな池がある。そこまで散策だな」
覗き込んでくる柊一さんの優しい瞳に、俺は何度も頷いた。
彼と並んで歩む一歩一歩が、アルバムの一ページのような気がしてくる。
「武衛門池《ぶえもんいけ》?」
「小さな池だけどな。運が良ければ、クロサンショウウオの卵や、静かな水面に映る青空が見られる。……まあ、のんびり歩くか」
繋いだ手から伝わる確かな体温を感じながら、俺たちは緩やかな傾斜の木道を下り始める。
まわりの緑はいっそう濃くなり、時折、名前も知らない小さな高山植物が可憐な白い花を咲かせているのが目に入った。そのたびに柊一さんは歩幅を合わせ、
「これはシガアヤメかな」と、穏やかな声で教えてくれる。
その博識さに感心しながら、俺はただ、彼の横顔を見つめていた。
普段の仕事中の張り詰めた空気はすっかり消え去り、今の柊一さんの表情は、高原の風のように柔らかい。
「……どうかしたか?俺の顔に何か付いてるか?」
不意に視線に気づいた柊一さんが、少し照れくさそうに片眉を上げる。
「ううん、何でもない。……柊一さんとこうして歩けて、すごく嬉しい」
正直に気持ちを伝えると、彼は安堵した顔をのぞかせた。
「そうか。それは良かったな」
もう少し甘い言葉を囁いてくれてもいいのに。彼は冷静そのものだ。
やがて木道の先が開け、ひっそりと佇む武衛門池が姿を現す。
周囲の針葉樹林と青空を鏡のように映し出す水面は、息をのむほどに静謐で、まるで二人だけの世界に迷い込んだかのような錯覚を覚えさせた。
「すげー綺麗~!!」
思わず感嘆の声をあげる。
風がピタリと止み、波ひとつ立たない池の表面は、まるで周囲の濃い緑と吸い込まれそうな青空をそのまま閉じ込めた一枚の硬質なガラスのようだ。現実と水中の境界線が曖昧になっていくような、奇妙で美しい静けさがそこにはあった。
「本当に、静かだな」
柊一さんの低い声が、静寂のなかに心地よく響く。
隣に立つ彼を見上げると、その横顔はいつになく穏やかだった。冷徹に見られがちな彼が、こんなにも柔らかい眼差しで自然を見つめている。
「……あの、柊一さん」
「ん?」
名前を呼ぶと、彼がこちらに視線を向けた。
「やっぱり、すげー嬉しい。こんな綺麗なとこ柊一さんと来られて」
今度はじっと目を見つめて、もう一度真っ直ぐに伝えた。
からかうような余地を一切残さない、俺の本心。
すると、柊一さんは一瞬だけ息を呑むように肩を揺らした。
すぐに観念したような苦笑を浮かべると、繋いでいない方の手を伸ばし、俺の頬をそっと大きな手のひらで包み込む。
「……お前は本当に、そういうことを不意打ちで言うな」
少しだけ掠れたその声は、もう、いつもの冷静な柊一さんのものではなかった。
向けられる瞳の奥に、熱い温度がじわりと灯る。彼を揺さぶることができたのだと分かって、俺の鼓動は一気に跳ね上がった。
(…それでも俺の片想いなんだけどね…)
「クロサンショウウオの卵ってどれ?見える?」
「もうこの時期は卵からかえって、小さなサンショウウオの赤んぼが水底を元気に泳ぎ回ってる頃だな」
「え?もう赤ちゃんになってるんだ、クロサンショウウオ!」
俺は水面を凝視してみる。せっかくなら、クロサンショウウオの赤ちゃん見てみたい。こういう場所じゃないとみられないんだから。
ともだちにシェアしよう!

