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【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く17
「どこだろう……あ、いた!柊一さん、あれ!」
池の端にある少し泥の溜まった浅瀬を指差すと、柊一さんが俺の肩にそっと手を添え、同じように水面を覗き込んだ。彼の体温がすぐ近くに感じられて、また心臓が小さく跳ねる。
「……本当だな。よく見つけた」
「ね!小さくて、ちょっと不格好だけど可愛い~!」
水底の落ち葉の影から現れたのは、体長わずか数センチほどの、まだあどけない姿の赤ちゃんだった。頭の横にふさふさとした、まるで飾り羽のような外鰓《がいさい》を揺らしながら、おぼつかない様子でちょこちょこと泳いでいる。
「あのふさふさしたやつ、エラなのかな」
「そうだ。幼生の間だけある外鰓だな。もう少し大きくなって、秋口に陸へ上がる頃には消えてしまうんだ」
「へえ、今しか見られないんだ……レアじゃん!」
俺は興奮したように大声を上げ、そっと柊一さんの横顔を盗み見た。
クロサンショウウオの成長を静かに見守る彼の眼差しは、やっぱりとても温かい。その視線が少しでも俺の物になればいいのに。…所詮は俺の片想い。彼にとって、俺はただの都合のいいセフレみたいなモノを連れて歩いているだけ。それでも、この人が見せてくれる知らなかった世界や、たまに見せてくれる優しい柊一さんの仕草。それらが俺の胸をどうしようもなく締め付ける。
「……何を見てる。クロサンショウウオはあっちだぞ」
不意に、柊一さんが視線だけをこちらに向けて、ふっと悪戯っぽく笑った。
その顔があまりにも格好良くて、俺は慌てて池へと視線を戻す。
「あ!えーと…柊一さんの解説が分かりやすいなと思って!」
「明らかにお前、何か考えてたな」
照れ隠しの言い訳を見透かしたように、柊一さんは俺の頭をぽんぽんと軽く叩くと、今度は池の周りに広がる砂礫地へと歩き出した。
「考えてない、考えてないって!ほら、柊一さん、あっちに綺麗なお花が咲いてる!」
誤魔化すように声を張り上げて、俺は彼の少し先を歩き出す。これ以上顔を見られていたら、何を考えていたか本当に見透かされてしまいそうだった。
砂利の混ざった斜面に差し掛かると、足元の小石がパラパラと音を立てて転がる。
ふと見れば、厳しい寒さと風に耐えるように地を這う低木の間から、淡いピンク色の不思議な形をした花が顔を覗かせていた。
「これ、すごく変わった形をしてるね。花びらがきゅっと曲がってて、なんか……馬の顔みたい?」
「よく気づいたな。それはコマクサだ。花の形が馬の顔に似ていることからその名がついたと言われている」
追いついてきた柊一さんが、俺の隣で足を止めてその小さな花を見下ろす。
「他の植物が生育できないような、砂利だらけの厳しい環境でしか生きられない。だからこそ、高山植物の女王なんて呼ばれ方もする」
「女王……。すげー!!」
「お前、さっきから「すげー」ばかりだな。相変わらずバカな感想しか言えないのな」
「え。だってすげーとしか言えないじゃん!」
「…まあ、それが七瀬だよな」
柊一さんは短くため息をつく。俺は俺なりに素直な感想を述べているんだけどな。バカな俺には長ったらしい御託を並べた感想は無理というもの。期待されても困る。
「……そろそろ、戻って志賀高原で2番目に大きい琵琶池《びわいけ》に行くか。そこで少し遊歩道を歩く緩やかなトレッキングになる」
ゆっくりと顔を上げた柊一さんが、空を見上げながら言った。
「琵琶池……?それって、ゴンドラで降りてから行くの?」
「そうだ。一度ゴンドラで発哺温泉駅まで戻って、そこから車移動する。そこに車を停めてから歩く」
てきぱきとこれからの予定を組み立てる柊一さんを、俺はただ「へえ」と見上げる。
本当にこの人は、俺をどこへでも連れて行ってくれる。まるで、本当に恋人同士が普通の休日を過ごしているみたいに。
――セフレ。
ふと脳裏をよぎった無機質な言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。
どれだけ優しく髪を撫でられても、こうして綺麗な景色を一緒に見ても、俺たちの関係はそれ以上でも以下でもない。いくら夕べの事があったとしても、その事実だけは変わらない。
「……なんだ。まだ歩き足りないか?これでもお前の事考えて移動してるのに」
黙り込んだ俺の顔を覗き込み、柊一さんが少しだけ心配そうに眉を下げる。
「ううん、全然!次は琵琶池だね。よし、行こう!」
無理に作った笑顔が歪んでいないことを祈りながら、俺はわざと明るい声を上げた。
胸の中に渦巻く切なさを心の奥にぎゅっと押し込んで、俺は柊一さんの隣を歩き出す。
「慌てるな、七瀬。足元に気をつけろって言っただろ」
呆れたように言いながらも、柊一さんは再び俺の手をそっと握り直してくれた。
その手のひらの温かさに、俺はただ、もうしばらくこの夢の中にいさせてほしいと願うことしかできなかった。
サマーリフトに乗る。さっきと違って今度は下りだ。俺は慎重に乗る。
「ほら、しっかり座れよ」
隣に腰を下ろした柊一さんの声と同時に、ガタリとリフトが揺れて動き出す。
上りの時とは違い、目の前に広がるのは遮るもののない圧倒的なパノラマだ。遠くに見える山々の緑と、どこまでも続く青い空。本来なら歓声を上げたくなるような絶景のはずなのに、下り特有の浮遊感のせいか、それとも胸の内のせいか、心臓がいつもより少しうるさく音を立てていた。
「すごい景色……」
風が髪を揺らす。視線を下ろすと、足元のはるか下に緑の絨毯が広がっている。
ふと、リフトの安全バーを握る俺の手に、大きな手が重なった。
「怖いか?」
覗き込んでくる柊一さんの瞳に、俺の顔が映っている。
嘘をつく必要なんてないのに、俺はまた、反射的に小さく首を振ってしまった。
「ううん、綺麗だなって思って」
「ならいい。……だが、そんなに強く握ってたら、あとで手が痛くなるぞ」
柊一さんは苦笑しながら、俺の指を一本ずつ解くようにして、そのまま自分の指を絡めてきた。
リフトの上という、誰に見られるわけでもない空間。遮るもののない空中での、確かな熱。
(ずるいな、この人は)
こういう優しさを、柊一さんはどんな気持ちで俺に与えているんだろう。
ただの気まぐれか、それとも「セフレ」としての居心地の良さを保つための、彼なりのマナーなのか。
訊ねてしまえば、この心地いい風も、手の温もりも、すべてが消えてしまいそうで口が裂けても言えない。
「……柊一さん」
「ん?」
「……ええとね、風が気持ちいいねって言おうとしただけ」
「そうか」
柊一さんはそれ以上追及せず、ただ繋いだ手に少しだけ力を込めてくれた。
ガタガタと規則的な音を立てて、リフトはゆっくりと下界へ向かっていく。
このリフトが着く頃には、またいつもの、「都合のいい関係」に戻ってしまう。
だからせめて、この空中庭園にいる間だけは。
俺は繋がれた手を握り返し、静かに目を閉じて、頬を撫でる夏の風を感じていた。
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