67 / 78

【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く21

「ねえ、柊一さんこの琵琶池には何が居るの?さっき見た植物園の中にあった池にはクロサンショウウオが居たけど…」 「ああ、ここにはコイやブナ、ウグイとかブラックバスも居るって話だ」 「ブラックバスまで居るの?釣りする人居ないけど」 「志賀高原、この琵琶池は釣り禁止だ。ブラックバスがいても鑑賞用だな」  ポンと押せばポンと答えが出る。柊一さんは歩く百科事典だ。俺にもその性能の良さそうな百科事典機能、分けてほしい。 「分けてどうする。お前のその頭じゃ、容量オーバーでフリーズするのがオチだろ」  こちらの考えていることを見透かしたように、柊一さんが意地悪く目を細めた。本当にどこまでもスマートで、どこまでも憎たらしい人だ。 「う、うるさいな!ちょっとくらい賢くなったっていいじゃん。そしたら柊一さんの難しい話にもついていけるし……」 「今のままでいいと言っているだろ。余計な知識をつけて小賢しくなるより、俺の言うことを素直に聞いてる方がお前らしい」  そう言って、柊一さんは繋いだ手をグイと引っ張り、池のすぐ近くまで整備された木道へと俺を導いた。 「わ……っ」  水辺に出ると、高原のひんやりとした風が一気に体を包み込む。  水面は驚くほど透明で、柊一さんの言った通り、浅瀬を小さな魚――ウグイだろうか――が群れをなしてすいすいと泳いでいるのが見えた。ブラックバスやコイのような大きな影は見当たらないけれど、静かな水面を眺めているだけで、不思議と心が穏やかになっていく。 「綺麗……本当に魚がいっぱいいるね」 「そうだな。釣り人がいない分、警戒心が薄いのかもしれないな」  柊一さんは俺の隣に並び、一緒に水面を見つめた。  きらきらと光る波紋が、彼の切れ上がった美しい琥珀色の瞳に反射している。 (……やっぱり、セフレなんかじゃない)  彼の口から出た「その他大勢のうちの一人じゃない」という言葉が、この静かな景色の中で、より一層現実味を帯びて俺の胸に染み込んでいく。もし本当に身体だけの関係なら、こんな風に俺のくだらない疑問にいちいち付き合って、隣で同じ景色を眺めてくれるはずがないのだ。 「七瀬」  ふいに名前を呼ばれて心臓が跳ねる。振り向くと、柊一さんはリュックから一眼レフのデジカメを取り出していた。 「せっかくだ、写真を撮ってやる。そこへ立て」 「えっ、写真!?俺、今どんな顔してるか分かんないよ!」 「いいから。ほら、池をバックにしろ」  断る隙も与えられないまま、俺は言われるがままに池を背にして立った。カメラを向けられると急に緊張してしまい、無意識に体が強張る。 「……そんなに硬くなるな。もっと力を抜け」  柊一さんは苦笑しながら画面を見つめ、カシャリと静かなシャッター音を響かせた。 「七瀬、可愛い」 「なっ!!何言ってんの!?」 「よし、その顔!」  俺が真っ赤な顔をしている顔を撮って何が楽しいのだろう。彼は満足そうな顔を見せる。 (意味が解らないんだけど…) 「今度は俺が柊一さん撮ってあげる!」  俺はスマホを取り出し、構える。 「おい、勝手に撮るな」  柊一さんは眉をひそめて手をかざそうとしたけれど、俺は構わずスマホの画面をタップした。カシャ、と軽快な音が響く。 「あ、ちょっと動いちゃったじゃん!もう一枚、今度はちゃんとポーズ取ってよ」 「断る。カメラを向けられるのは好きじゃない」 「えー、ずるい!俺のことは散々おもちゃみたいに撮ったくせに!」  俺が不満げに口を尖らせると、柊一さんはため息をつきながらも、かざしていた手をゆっくりと下ろした。完全に諦めたような、だけどどこか穏やかな眼差しが、スマホのレンズ越しにまっすぐ俺を捉える。  池の青と白樺の緑を背負って立つ彼は、ただそこに佇んでいるだけで、まるでお洒落な雑誌のワンシーンみたいに絵になっていた。 「ほら、撮るなら早くしろ。これ以上は待たない」 「あ、うん! ……はい、チーズ」  慌ててフォーカスを合わせて、もう一度シャッターを切る。  画面に収まった柊一さんは、少しだけ口元を和らげて、俺だけに向けられる優しい表情を浮かべていた。 「……うん、すっごく格好よく撮れた!」  満足して画面を覗き込んでいると、いつの間にかすぐ隣まで歩み寄ってきた柊一さんが、俺の頭上から画面を覗き込んできた。 「どれ……ふん、まあまあだな」 「まあまあなんてことないよ!本当に、モデルさんみたい」  素直に称賛すると、柊一さんは少しだけ目元を緩め、俺のスマホを持っている手を上からそっと包み込んだ。 「なら、その写真は消さずに持ってろ。……他の誰にも見せるなよ」  耳元で低く囁かれた独占欲の塊みたいな言葉に、また胸の奥がキュンと跳ねる。  写真を撮り合うなんて、まるで本物の恋人同士みたいだ。そんな甘い錯覚に溺れそうになるのを、必死で「難しいことは考えない」と自分に言い聞かせる。 「言われなくても消さないよ。俺だけの特等席なんだから」  俺が小さく笑って言い返すと、柊一さんは一瞬だけ驚いたように目を見張り、それから本当に愛おしそうに俺の髪を優しく撫で回した。 「ね、柊一さん琵琶池見終わったら、次何処行くの?」 「駐車場の近くに温泉宿のレストランカフェがある。そこで少し休んで行こう」 「へー!レストランカフェ併設してるんだーまたお洒落な感じなんだろうなー」  俺は目をきらきらさせる。好奇心の女神が降臨している。この長野に入ってからずっとこの女神が降りっ放しだ。 「ウッドデッキで食事もできるらしい。七瀬の言う通り、結構洒落てるところだな」 「いいね、いいね!なんか雰囲気あっていいね!」 「お前、本当に分かりやすいな。さっきまで足が重いだのなんだの言ってたくせに」  俺の(はしゃ)ぎっぷりに、柊一さんは呆れ半分、だけど嬉しさを隠しきれないといった様子で口元を緩めた。 「だって、緑がいっぱいの中でウッドデッキのテラス席なんて、絶対最高じゃん!そういうお洒落なところで、柊一さんと……あ、いや、なんでもない!」  つい口を滑らせて「恋人同士みたいに」と言いそうになり、慌てて口を両手で塞ぐ。また難しい顔をされたり、からかわれたりしたら敵わない。 「なんだ、言いたいことがあるならはっきり言え」 「言わない!ほら、早く琵琶池一周しちゃおう。お腹空いてきちゃった!」  ごまかすように柊一さんの手をぐいぐいと引っ張ると、彼は「まったく……」と小さく笑いながらも、俺の歩調に合わせてしっかりと歩き出してくれた。 「あんなに食っといてもう腹減ったのか?お前の新陳代謝の良さには呆れるな」 「だって今でも成長してるんだから、俺!」  俺は力こぶを見せる。 「ハイ、ハイ」  柊一さんは笑っていた。

ともだちにシェアしよう!