70 / 78

【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く24

 柊一さんは車のドアロックを解除すると、助手席のドアを自ら開けて、俺に顎で乗るよう促した。 「お前を連れ出して、美味いものを食わせて、普段見せないような顔をさせる。俺がそのために金と時間を使いたいからやっていることだ。お前が無理に『お返し』をしようとする方が、俺にとっては興奮を削がれる」 「こ、興奮って……っ」  またそうやって、平然と心臓に悪い言葉を混ぜてくる。  俺が真っ赤になって助手席に滑り込むと、柊一さんは満足そうにフッと鼻で笑い、ドアを閉めた。  運転席に乗り込んできた彼は、エンジンをかけると、すぐに車内を適温の冷気に満たしていく。 「お前に投資した分は、別の形でいくらでも回収するつもりだ。……昨晩のように、な」 「……っ、もうその話は終わり!」  俺が慌てて両手でバツ印を作ると、柊一さんはハンドルを握りながら、本当に楽しそうに声を立てて笑った。  ステーションワゴンがゆっくりとサンバレーの駐車場を動き出す。窓の外、志賀高原の豊かな緑が後ろへと流れていくのを眺めながら、俺は胸の奥がじんわりと温かいもので満たされるのを感じていた。  名前のない、歪で、不条理な関係。  だけど、彼が俺に注いでくれるこの過剰なまでの甘やかしと執着は、どんなに頭の悪い俺であっても、もう拒むことなんてできなかった。 「次は、土産物屋だったな。会社に配る実用的な菓子でも探しに行くぞ、七瀬」 「うん、そうだね。……あ、でも、柊一さんへのお土産は、俺がちゃんとお金払って買うからね!」 「断る。お前が俺に買う土産などない」 「なんで一刀両断するのさ!?」  車内に響く俺たちの他愛のない声は、さっきまでの切なさを完全に消し去っていて。俺はただ、この車が走る先の未来を、もっと信じてみたくて仕方がなかった。 「七瀬は会社に出す菓子の事でも考えてろ」 「え、でも…俺柊一さんに何かあげたい」 「それは夕べももらったし、今夜ももらう予定だ」  柊一さんは艶っぽく笑う。 「なっ……!!」  車内の涼しい空気が、一気に熱くなったような錯覚に陥る。  言葉の意味を理解した瞬間、俺の顔はまたしても沸騰したように真っ赤に染まった。バックミラーに映る自分の顔を見なくても、耳の先まで火照っているのがよく分かる。 「な、何言ってるのさ……!そういう意味じゃないってば!」 「俺にとっては同じことだ。お前が俺に何かを与えたいと言うなら、その身体と可愛い鳴き声だけで十分足りている。形に残る土産物など必要ない」  柊一さんはステアリングを握ったまま、視線だけをこちらに寄せてフッと不敵に微笑んだ。その低く滑らかな声は、大人の余裕と容赦のない独占欲に満ちていて、俺の心臓をこれでもかと激しく叩く。 「もう……!柊一さんのバカ。変態。エロオヤジ……っ」 「なんとでも言え。車内でお前がどれだけ悪態をつこうが、宿に着けば立場が逆転するのは分かっているだろう」 「うぐっ……」  完全に逃げ道を塞がれて、俺は助手席のシートに深く背中を預けて口を噤んだ。本当に、この人には口喧嘩でも何でも勝てる気がしない。悔しいけれど、その理不尽なまでの強引さに、胸の奥がキュンと甘く疼いてしまうのも事実だった。  車は国道292号線をゆっくりと下っていく。窓の外を流れる志賀高原の夏の緑は相変わらず綺麗で、青い空がどこまでも広がっている。  セフレという無機質な言葉で自分を縛り、傷つかないように予防線を張っていた数時間前が、まるで遠い昔のことのようだ。  相変わらず俺たちの関係に名前はないし、彼が俺をどう定義しているのかは難しい頭脳のせいでよく分からないけれど。 (でも……今夜も、か)  そう遠くない数時間後のことを想像して、お腹の底がキュッと熱くなる。  俺は赤くなった顔を隠すように窓の外を見つめながら、会社用のリンゴのお菓子か何かのことを必死に考えて、これ以上心臓の音が柊一さんに聞こえないように祈っていた。  無事、お土産屋で会社用にリンゴのお菓子をゲットした俺。りんごアーモンドフロランタン20枚入り。これを二つを買ってきた。俺の居るフロアは広く、職員も多いし、来客が頻繁だ。それと友達用にりんごクッキーを三つほど。それだけで荷物がいっぱいだ。 「会社員は大変だな」  柊一さんは自宅用とマネージャーの美也子さんだけにお土産を買っていた。こういう時、柊一さんの「作家」という職業の気楽さが羨ましい。 「まあ仕方ないよ。おつきあいは大事だしね。忙しい中有給くれたんだし」  義理は大事。特に社会人となってからはそれが痛いほどにわかっている。  宿の部屋に着き、畳の上にどさりと荷物を降ろす。先ほど買い込んだ「りんごアーモンドフロランタン」2箱と「りんごクッキー」3つが入ったお土産用の袋。 「ふぅ……重かった」  手首に残った袋の持ち手の痕を擦りながら、俺は部屋の隅にそれらを並べた。 「お疲れ。荷物の大半がお土産って、なんだか微笑ましいな」  先に椅子へ腰掛けた柊一さんが、少し可笑しそうに目を細めている。その手元には、彼が自分用とマネージャーの美也子さん用に買ったコンパクトな袋がひとつだけちょこんと置かれていた。 「笑わないでよ。これでもかなり厳選したんだから」  畳に横になり、天井を見上げる。  仕事の義理や付き合いの面倒臭さは確かにある。けれど、こうして旅先でお土産の心配をしたり、帰った後の職場の顔ぶれを思い出したりする時間も、旅の終わりのちょっとした味わいなのかもしれない。 「ねえ、明日はどこに行くの、柊一さん」 「美味しい蕎麦でも食べてから帰ろう」 「蕎麦に始まり、蕎麦で終わる…いいね」 「だいぶ宿で信州の味は食ったからな」    うん、うんと俺は頷いた。昨日の夕食でかなりグルメな物を食べた。柊一さんは俺が食べると思って、食事はかなりいいの物を用意してくれていた。朝食もAランクの物。普段の俺からは想像ができないそのハイレベルな食事。信州を堪能したと言っても過言ではない。

ともだちにシェアしよう!