72 / 78

【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く26

「今夜は蛍観に行かないの?」 「お前が居る限り、同じ事になるのがわかったからもう諦めた。七瀬がはしゃぎすぎるからな」 「俺、そんなにはしゃいだっけ…でも蛍の求愛行動も邪魔しなかったし!」 「その無自覚なところが厄介なんだと何度言ったら…!」  そういえば、蛍観に行った時の後半、柊一さんにキスされてばかりだったっけ。何故そうなるのかは未だによくわからないんだけれども。  俺そんなに無防備かな。自分じゃわからないけれど。柊一さんが何度も言うくらいなんだからそうなんだろうな。 「無防備どころの騒ぎじゃない。……少しは自分の言動が無防備な自覚を持て」  柊一さんは呆れたように溜息をつきながら、湯から上がって俺の頭にポンと手を乗せた。濡れた前髪が額に落ち、彼の指先が優しくそれを払う。 「……あんな風に暗闇の中で無邪気に笑って、目を輝かせて俺の手を引っ張るんだ。周囲の目も気にせずにな。それがどれだけ男の理性を試しているか、お前は分かっていない」 「う……っ」  ストレートに突きつけられた言葉に、ぐうの音も出ない。昨日の夜、蛍の光を追いかけて夢中になっていた自分の姿が脳裏に浮かび、途端に顔が熱くなっていく。確かに俺、柊一さんの袖を引っ張って「見て見て!」って何度も抱きつくみたいにしてたかも……。 「分かったなら、少しはその無自覚さを反省しろ」  柊一さんは満足そうに小さく微笑むと、俺の頬を指先で軽く突っついた。 「さ、長湯してのぼせる前に上がるぞ。……部屋に戻ったら、その無防備さの罰をたっぷり受けてもらうからな」 「え、罰って……!柊一さん、待ってよ!」  先に向きを変えて湯船から上がっていく大きな背中を追いかけるように、俺も大急ぎで湯から上がった。檜の心地よい余韻と、これから部屋で待っている時間に胸をドキドキさせながら。 「七瀬、もう体の方はいいのか?夕べの痛みは残ってないな?」 「え、あ、うん…。もう大丈夫。平気だよ」  脱衣所で浴衣に着替えながら、柊一さんが声をかけてくる。 「でも柊一さん、あんまりやりすぎないでね…明日帰るだけだけど…――」  俺は顔を少し赤く染めながら、彼に忠告をする。 「悪い…夕べの事は反省してる。でも半分は七瀬、お前の所為だからな。お前が俺を怒らせたのが悪い」  柊一さんは浴衣に袖を通し、帯を締めている。 「…だって、俺と柊一さんの関係よくわからなかったし…」  俺はずっと柊一さんとセフレの繋がりだと思っていた。柊一さんに囲われている女性たちと同じような一人だと。  でも、それが違うと今日わかった。柊一さんにとって、俺は唯一無二の存在だと言ってくれた。それだけで十分だ。 「着替え終わったか、七瀬」 「帯締めが上手くいかない」  柊一さんは手元を止めてこちらを振り返ると、呆れたような、けれどどこか優しげな溜息をひとつ吐いた。 「貸してみろ」  そう言って俺の前にかがみ込むと、器用な手つきで崩れかけていた帯を解き、キュッと綺麗に結び直してくれる。目の前にある彼の整った顔立ちと、ふわりと香る石鹸の匂いに、さっきまで話していた会話の余韻が重なって胸が苦しくなる。  セフレでも、大ぜいの中のひとりでもない。俺が柊一さんの「唯一無二」になれたという事実が、結び直される帯の締めつけと一緒にじんわりと身体に染み渡っていくようだった。 「……できたぞ。これで解けない」 「あ、ありがとう……」 「よし、部屋に戻るぞ」  結び目をぽんと軽く叩き、柊一さんは立ち上がると、俺の手を自然な動作でギュッと握り締めた。 「……柊一さん、手」 「誰も見ていない。それに……さっき言っただろう?俺の領域の中にいろと」  拒む余地なんて与えない強引さで握られた手に、俺は何も言えなくなってしまう。繋いだ手から伝わる温もりは、俺を束縛するように力強くて、だけど驚くほど優しかった。  部屋へと続く廊下を静かに並んで歩く。足音だけが響く夜の静寂の中で、これからの時間に思いを巡らせると、湯上がりの火照りとは違う熱が頬を伝っていった。  部屋に戻ると、もう既に布団が二つ敷かれていた。夕べと同じ、見た感じ清潔で高級そうなふかふかな布団。 「やっぱり、俺、柊一さんと一緒の布団だよね…」  夕べ、俺が自分の布団にダイブしたものの、柊一さんに連れられて結局柊一さんの布団でアレコレあって寝てしまったわけで。俺は柊一さんの顔を窺う。  柊一さんはお風呂の上気した顔のまま艶っぽい浴衣姿で佇んでいた。それだけで絵になるのだから、この人は本当にずるい。ビジネスで関わった女性たちが放っておかないのもわかる。 「柊一さん、まだ夜九時前なんだけど…どうするの?もう寝るの?ここ、テレビもないし」 「寝るのにはまだ惜しいな。それとも早いこと布団に入って、したいのか?七瀬」  柊一さんは色気を含んで妖しく笑う。 「……そ、そういうわけじゃないよ。聞いてみただけ」  柊一さんは俺の反応を楽しむようにフッと口角を上げると、繋いだ手に少しだけ力を込め、そのままゆっくりと自分の引き寄せた。 「そうか。なら、少し話をしよう」  そう言って柊一さんは、俺の手を引いたまま敷かれた布団の上に静かに腰を下ろした。畳の匂いと、柊一さんから漂う湯上がりの微かな石鹸の匂いが鼻腔をくすぐる。引き込まれるように俺もその隣に座り込むと、彼の手は解放されることなく、俺の指の隙間に自身の指を滑り込ませてしっかりと組み直された。 「……話って?」  平静を装って尋ねてみたものの、密着した太ももから伝わる熱と、間近で見つめ返してくる柊一さんの深い眼差しに、胸の鼓動は早くなる一方だ。テレビのない静かな部屋で、二人の呼吸音だけが微かに響く。 「今日の昼間、お前が楽しそうにしていた顔を見ていただろ」  柊一さんは空いている方の手で、俺の頬に触れた。熱を持った指先が滑るように耳を撫で、首筋へと降りてくる。 「ずっと、こうして二人きりになるのを待っていた」  耳元で低く囁かれた声は、昼間の彼とはまるで別人のように甘く、そして逃げ道を塞ぐように強引だ。 「……柊一さん、それって……」 「言葉にする必要があるか?」  柊一さんの顔がさらに近づき、互いの吐息が交差する。頬を伝う熱はもう隠しようもなく、俺はただ彼の手の温もりに身を委ねるように、そっと目を閉じることしかできなかった。

ともだちにシェアしよう!