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【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く29
コップを受け取り、カラカラに乾いた喉を潤す。冷たい水が身体に染みわたっていく感覚にホッと吐息をこぼすと、柊一さんは愛おしそうな眼差しで俺の髪を撫でてくれた。
「さっきは……ちょっと激しくしすぎたな。身体、痛むところはないか?」
「大丈夫……っ。柊一さんに、いっぱい愛された証拠だから」
俺が照れくさそうに笑うと、柊一さんは一瞬驚いたように目を見開き、それから愛おしさに耐えかねたように俺の額に優しく唇を落とした。
「……そんな可愛いこと言われたら、風呂の中でもう一回抱きたくなるだろ」
「っ……!もうダメ、今日は本当に限界……!」
あわてて首を振る俺を見て、柊一さんは「嘘だよ」と楽しそうに低く笑う。
彼の大きな手に導かれ、俺たちは客室の奥にある専用の露天風呂へと足を進めた。
戸を開けると、夜風とともに微かに硫黄の香りと心地よい湯気が頬を撫でる。ライトアップされた庭園の緑と、澄んだ夜空に浮かぶ月が湯面に静かに映り込んでいた。
先に湯船に入った柊一さんが、俺に向かってそっと手を差し伸べる。
「おいで、七瀬。のぼせないようにゆっくりな」
「うん……っ」
差し出された手を握り返し、そっと足を踏み入れる。
温かい湯が、火照った肌と疲れきった体を優しく包み込んでいく。少しピリッとするような刺激の後、じんわりと緊張が解けていくのが分かった。
湯船の縁に腰を下ろすと、柊一さんが後ろから俺の身体を包み込むように抱き寄せる。彼の広い胸に背中を預けると、お互いの鼓動がダイレクトに伝わってきた。
「……気持ちいいな」
「うん……すごく、落ち着く……」
湯気越しに見上げる柊一さんの横顔は、いつになく穏やかで甘い。
激しく攻め立てられていた時のドSな顔も甘美だったけれど、こうして二人きりで静かに寄り添う時間は、何よりも胸を熱くさせる。
「七瀬」
「うん……っ?」
耳元で低く名前を呼ばれ、俺は身体をピクッと跳ねさせた。柊一さんは愛おしそうに俺の腰に回した腕に力を込め、耳たぶに小さな口づけを落とす。
「明日も、明後日も……ずっと俺のそばにいろよ」
「……っ、そんなの、言われなくても、柊一さんの側から離れないよ」
俺が振り向いてしっかり瞳を覗き込むと、柊一さんは満足そうに目を細め、湯煙の中で深く優しいキスをくれた。
夜風に揺れる木々の音と、さらさらと流れる湯の音だけが響く静寂の中。
俺たちは互いの体温を確かめ合いながら、甘い余韻の中にいつまでも浸っていた 。
「いいね、信州の旅。俺長野好きになりそう」
「そうなのか?」
「うん。昨日から今日まで楽しくて綺麗なところばっかり。食べ物も美味しいし。東京に帰るのが惜しくなっちゃう」
「確かにいいところだ。わざわざ新幹線で長野から東京まで通勤してる人間も少なくないしな」
「そうなの?凄いね…」
俺は彼の瞳を見つめる。つりながの琥珀色の瞳。その瞳に俺が映って揺らいでいる。
二人きりの、二人だけの空間。柊一さんの住んでる新宿じゃ考えられない静寂に包まれる建った二人だけの場所。俺はもうこれきりかもしれない贅沢を味わう。
「明日帰るんだよね、東京に」
「その予定だが?」
「このまま二人っきりで居たいっていったら柊一さん怒る?」
「…バーカ」
俺は頭を小突かれる。そう呟いた柊一さんの声は、少しも怒ってなどいなくて、むしろ困ったような、愛おしさを噛み殺すような響きを含んでいた。
小突かれたおでこを軽く撫でながら彼を見上げると、そのつり上がった琥珀色の瞳が柔らかく揺れている。大きな手がそのまま俺の頬に添えられ、親指の腹でやさしく撫で上げられた。
「そんなことで怒るわけないだろ。俺だって……同じ気持ちだ」
「……柊一さん」
「だけどな、東京に戻らなきゃ、次にお前を連れてくるための旅行代も稼げねぇだろ?」
少しだけ意地悪く笑ってみせるその表情に、胸がぎゅっと締めつけられる。
ずるい。いつもこうやって、俺の求める言葉を一番欲しい形で返してくれる。
「……じゃあ、また連れてきてくれるの?」
「当たり前だ。長野でもどこでも、お前が行きたいって言うならいくらでもな」
「約束、だからね」
指を絡め合わせると、柊一さんは力強く握り返してくれた。湯煙越しに重なる視線。静寂の中に溶けていく温泉の音と、耳元で聞こえるお互いの呼吸音だけが、ここが二人だけの世界なのだと教えてくれる。
「ほら、そろそろあがろう。のぼせるぞ」
「……ん。でも、部屋に戻ったら……もう少しだけ甘えさせて?」
俺がそう囁くと、柊一さんは一瞬だけ息を呑み、諦めたように苦笑した。
「……お前、本気で俺に手加減させる気ないだろ」
湯からあがる彼の背中を追いかけながら、俺は心の中でそっと微笑んだ。東京に帰る寂しさなんて、彼の腕の中にいれば一瞬で吹き飛んでしまうのだから。
「柊一さん、今度はこっちのぐちゃぐちゃになってない方でゆっくりしよ」
俺は、先程の乱れた布団ではなくきれいに並んでいる布団をめくって、柊一さんを誘った。
「なんだ、七瀬。また抱かれたくなったのか?」
柊一さんは意味深に微笑む。ドSな笑みといったところか。
「違うって!言ったでしょ、今日はあれで限界!柊一さんにまた攻められたら俺身体持たないもん」
「俺はお前が鳴くの可愛くて好きだけどな」
「…また、そんなこと言う!」
俺は顔を少しだけ赤く染めて彼の顔を見る。彼はゆっくりと俺のすぐ近くにきて、同じ布団に潜り込む。
「柊一さんの目的、取材旅行はこれでいいの?」
「ああ。七瀬とここにこれたことでほぼ達成した。贅沢を言えば、もう少し蛍を見たかったってとこだな」
「…だって柊一さん、蛍が飛んでるのに俺ばっかり構ってるから…」
柊一さんの手が伸びてきて、俺の額をデコピンではじいた。
「な、何、柊一さん…っ!」
「あれはお前の無防備で無邪気なところが悪い。俺だって別にお前を構いたくて蛍を観に連れて行ったわけじゃない」
「そんなこと言ったってぇ…――」
言い返そうとした言葉は、俺の唇を優しく塞ぐように重ねられた彼の指先によって遮られた。
「それに、綺麗だったろ」
「……蛍が?」
「お前がだよ、バカ」
真顔でさらりと恥ずかしいことを口にする柊一さんに、さっきよりもずっと顔が熱くなっていくのが自分でもわかる。本当に、この人はずるい。ドSな意地悪を言ったかと思えば、急にこんな風にストレートな愛おしさを投げてくるのだから。
「……もう、そういうこと平気で言うのずるい」
俺が布団を少しだけ引き上げて顔を隠すと、柊一さんは低く心地よい声でくすくすとおかしくなさそうに笑った。そして、布団越しに俺の身体を大きな腕で包み込み、自分の胸元へと引き寄せる。
「ほら、お前が限界だって言うから、今夜は大人しく添い寝だけしてやる。だから、そうやって顔隠すな」
「ほんと……?本当に何もしない?」
「……信用ないな。これ以上何かしたら、お前本当に倒れるだろ。俺だって可愛い愛猫を苛め抜く趣味はねぇよ」
そう言いながらも、髪を優しく撫でてくれる指先はどこまでも甘く、丁寧だ。
首元に顔を埋めると、柊一さん特有の落ち着いた香りと、ほのかに残る温泉の匂いが心地よく鼻腔をくすぐった。
「柊一さん」
「ん?」
「長野、また絶対に一緒に来ようね。今度は……もっとたくさん蛍観よう」
「ああ。次はもっと山奥の誰もいない場所に連れて行ってやる。……七瀬がいくら大声で鳴いても、誰にも聞こえないような場所にな」
「またすぐそういうこと言うんだからっ!」
ポンと胸を軽く叩くと、柊一さんは満足そうに微笑み、俺の頭にそっと優しくキスを落とした。
トクトクと刻まれる彼の規則正しい鼓動を耳で聴きながら、俺はゆっくりとまぶたを閉じる。旅先の静けさと彼の体温に包まれながら、俺たちは穏やかな眠りの中へと落ちていった。
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