76 / 78
【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く30
「おはよ…」
俺は眠い目を擦る。隣の柊一さんはまだ眠っている。起こしちゃダメかな。俺は白雪姫の王子様ばりに彼の唇にキスを落とす。
「――なんだ」
柊一さんが目覚めた。ホントにこれでは俺は白雪姫の王子様だ。…世界で一番美しい姫様を起こす王子様。
「気持ちよさそうに寝てたから…その…ちょっとだけ…」
俺はバツが悪そうに苦笑いを浮かべる。柊一さんは目を細め、疑わしい眼差しで俺の顔を見る。
「べ、別に何にも考えてないよ!柊一さんが綺麗だったから…その…ちょっといつもとは違った感じで起こそうかなーって…」
白雪姫のお姫様になぞらえたなんて言ったら無茶苦茶怒るだろうな。柊一さんはまごうことなき男性なのだから。
「…お前の足りないオツムで考えることなんてたかが知れてる」
「……ひどい!ちゃんと起きてくれたんだから、少しは感謝してくれたっていいのに」
俺がぷいっと顔を背けようとすると、柊一さんの大きな手がすばやく俺のあごを捉え、逃がさないように軽く持ち上げた。
「ふん……感謝してほしいなら、あんな遠慮がちな挨拶で済ませるなよ」
「え……んむっ!?」
不意を突かれ、俺の唇は彼によって深く塞がれた。
起きたばかりの、少し低くてかすれた吐息。昨夜の優しさとは一転して、熱を確かめるような強いキスに、脳の奥がじんわりと痺れていく。呼吸が苦しくなって胸を軽く叩くと、柊一さんはようやく満足したように唇を離した。
「……んっ、はぁ……。柊一さん、朝から反則……」
「白雪姫を叩き起こすなら、これくらい覚悟しとけ」
「……っ!?なんで知って――」
「お前、寝言で『俺が王子様で……』ってぶつぶつ言ってたぞ。丸分かりだ」
「うわあああ!言わないで!聞かなかったことにして!」
恥ずかしさのあまり布団に潜り込もうとする俺を、柊一さんは楽しそうに笑いながらしっかりと腕の中に抱き寄せた。ドSな彼に完璧な弱みを握られてしまったけれど、その腕の温もりが愛おしくて、俺は大人しく胸の中に収まる。
「……ほら、恥ずかしがってないで着替えるぞ。東京に帰る前に、まだ見せたい場所がある」
琥珀色の瞳を優しく細めた柊一さんの言葉に、俺の胸はまた新しく高鳴り始めていた。
「まだ見せたい場所?志賀高原は見たよ?蛍も見たし…この辺の長野でまだ見せたいところってどこがあるの?」
俺は頭の中が?で溢れだす。彼は、微笑みながらこう説明した。
「まだ秘密だ。着いてからのお楽しみ」
思わせぶりに不敵な笑みを浮かべる柊一さんに、俺は「えーっ!」と声を上げた。
「ケチ!少しだけでもヒント!」
「そうだな……お前が好きそうな、静かで綺麗な場所だ。あそこなら、今の季節は朝の空気が一番美味い」
そう言いながら、柊一さんは手際よく自分の荷物をバッグに詰めていく。その背中を追いかけながら、俺も慌てて脱ぎ散らかした服を拾い集めた。
「俺が好きそうな場所……?神社とか?それとも絶景が見える展望台とか?」
「さあな。これ以上聞いたら、連れてってやらねぇぞ」
「うぐっ……わかったよ、大人しくついていくよ……」
俺が降参して口を尖らせると、柊一さんはポンと優しく俺の頭を撫でてくれた。
旅館のチェックアウトを済ませ、少し肌寒い長野の朝の空気に包まれながら、俺たちは彼の車に乗り込む。助手席から見上げる車窓の風景は、昨日よりも少しだけ愛おしく感じられた。
車が走り出してしばらく経つと、街並みは次第に緑豊かな山道へと姿を変えていく。流れる木漏れ日と、穏やかなドライブの揺れ。
「七瀬、着いたぞ」
柊一さんの声にハッと目を覚ますと、車の窓の外には、朝靄に包まれた幻想的な湖面が広がっていた――。
「こ、ここは何処?」
「木戸池。ここも志賀高原の見どころの一つだ。初夏の早朝、冷え込んだ空気によって湖面に白い霧が立ち込める気嵐がみられる。今だけの風景だ」
「今だけ?初夏の早朝だけなの?」
「ああ。だから、メシも食わずに早めにチェックアウトしてここに連れてきた。木々が水面に映って綺麗だろう」
「うん…すげー神秘的…――!それに今だけなんてすげーレアじゃん!」
池の周囲には遊歩道があり、小鳥のさえずりが聞こえる。
「少し池の周り歩くか」
「うんっ!」
俺は柊一さんの後をついていく。柊一さんの寄りたかった場所、とっておきの場所だ。昨日から池ばかり見ているが、それぞれ個性があってどれも綺麗だった。初夏で平日というのもあり、人もまばらで柊一さんと二人きりになれるのがたまらなくいい。
「周りを囲んでるのは白樺と竹だな。池の水面に映ってるだろ」
「そうだね、きれいだねー!」
その時、俺の腹の虫がぐうと鳴った。柊一さんは笑っている。
「七瀬は結局腹の方が大切か」
「しょ、しょうがないじゃん!こればっかりは防ぎようないもんっ!」
「わかったよ、七瀬が気に入りそうな朝食処行くか」
「えー!朝食処もあるの?」
柊一さんはスマホを見ながら、答えてくれる。
「まだ朝6時だからまだやってないな。早くて朝の8時半だ。この辺りにコンビニはないし。 俺が買ってきた甘いパンやスナック菓子でも食うか?」
「げ。やっぱりそこは我慢しなくちゃなのかあ…」
「七瀬は新陳代謝のバケモンだな。最近のガキでもこれほど燃費が悪い奴はいねえよ」
「言わないでよーっ!」
俺はぶうたれる。人間活動すれば腹が減るもんでしょうが!
「朝の8時半になれば、食える場所はあるが…俺はそこじゃなく、またリフトを乗るが、志賀高原クランペットカフェを薦めるな。朝9時からだが、またマウンテンビューの大パノラマが広がるところで店名にもなってるクランペットを食べる。ここはコーヒーだけじゃなく紅茶も凝っているから、迷うほどあるぞ」
「何それ!すげー惹かれる!!俺、遅くなってもいいからそこ行きたい!」
「ここから10分ほどで着くが、その前に日本国道最高地点碑ってのがあるからそこに寄って写真を撮っていくか」
「日本国道最高地点碑?」
「ああ、全国の国道の中で最も標高が高い2172メートルにある、志賀草津高原ルートきっての有名フォトスポットだ。石碑のすぐ横にある展望台から、「芳ヶ平湿地群 」や草津方面の荒々しい火山美を眼下に見下ろせるし、雲海も見える」
柊一さんの説明は長くてよくわからない事ばかりだったが、すげえ高いところで草津の火山も、雲海も見れるって事みたいだ。俺はうん、うんと頷く。
「…とりあえずは車に戻って日本国道最高地点碑を目指すか。異論ないな?」
「ないない。柊一さんの言った通りにして。俺は横でついていくだけだから」
「出来る限り綺麗な場所に連れていく。七瀬と一緒に観たいからな」
さらりと言われたその言葉が、胸の奧をじんわりと熱くさせる。ただ景色を見せるだけじゃなく、「俺と一緒に観たい」と思ってくれていることが、何よりも嬉しかった。
「……うん!楽しみ!」
俺が満面の笑みで頷くと、柊一さんは満足そうにフッと口元を緩め、俺の髪を雑になで上げてから車を走らせた。
ともだちにシェアしよう!

