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【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く33
「お腹いっぱい…」
「食い過ぎだ、バカ。それじゃ昼に蕎麦食えねえだろ」
「柊一さんだってハイジのパン食ってたじゃん!」
「全部は食ってない。半分は残した」
当然のように柊一さんは言い、深いため息をつく。
「だって美味しそうなパンだったんだもん。ついつい食っちゃうのが人のサガじゃん!」
「サガって……大げさだな」
柊一さんはそう呆れつつも、俺の苦しそうな様子を見てフッと口元を緩めた。
「まあ、焼き立ての誘惑に勝てない気持ちも分からなくはないがな。で、クリームチーズパンはどうした?」
「あ……それは流石にお持ち帰りにした……」
「……まあ、それが賢明だな」
俺はお腹をさすりながら、満足感と少しの後悔が入り混じった息を吐き出す。
テーブルの上に残ったパンの袋と、氷が少し溶けかけたアイスコーヒー。お腹ははち切れそうだけど、大好きなカレーパンにアップルパンまで味わえて、胸の奥まで幸福感でいっぱいだった。
「ほら、立つぞ。少し歩いて消化させないと、本当に昼飯が入らなくなる」
「はーい……あ、ちょっと待って柊一さん、手繋いで引っ張って……」
「甘えるな。自業自得だろ」
冷たく言い放ちながらも、柊一さんは差し出された俺の手を振り払うことなく、しっかりと握り直して引っ張り上げてくれた。その手の温もりが心地よくて、俺はふふっと笑ってしまう。
「なに笑ってるんだ」
「ううん、何でもない!柊一さん、ごちそうさまでした!」
「――俺は、七瀬が満足すればそれでいいけどな」
歩幅を俺のゆったりしたペースに合わせてくれる柊一さん。
パンの香ばしい匂いが残る店を後にして、俺たちは爽やかな風が吹く外へと一歩踏み出した。
帰りは着た時と同じように、リフトに乗り、動く通路・スカイレーターに乗っていく。
リフトに乗るとき、柊一さんは手を差し伸べてくれる。
「足元、気をつけろよ」
「はーい」
差し出された手を素直に握ると、柊一さんは俺の身体を支えるようにゆっくりとリフトの座面へ誘ってくれた。並んで腰を下ろすと、安全バーがゆっくりと下りてくる。
風を切って滑り出すリフトの上。標高の高い澄んだ空気が頬を撫で、目の前にはどこまでも広がる志賀高原の絶景が広がっていた。けれど、俺の意識はどうしても隣に座る人に持っていかれてしまう。
「……ん?」
視線に気づいたのか、柊一さんが横顔のまま問いかけてくる。
「ううん。柊一さん、やっぱり優しいなって思って」
「どの口が言ってるんだ。さっき『甘えるな』って言ったばかりだろう」
「言ってたけど、手は離してくれなかったでしょ?」
ニヤニヤしながら覗き込むと、柊一さんはふっと呆れたように息を吐き、握っていた手にぐっと少しだけ力を込めてきた。その力強さと温もりに、胸の奥がキュッとくすぐったくなる。
「……乗車中に騒ぐな。落ちたら笑い事じゃない」
「うん。じゃあ、スカイレーター着くまでおとなしくしてるー」
素直に頷いて肩を寄せると、柊一さんはそれ以上何も言わず、ただ黙って俺の手を握り返してくれた。
やがてリフトを降り、続いて「動く歩道」であるスカイレーターへ。
ゆっくりと斜面を下っていく揺れの中で、さっき横手山頂ヒュッテで食べた焼きたてパンの幸せな味と、隣にいる柊一さんのぬくもりが重なって、なんだか夢の中にいるみたいな気分になる。
「……七瀬」
「ん?」
「……昼飯、本当に食べられそうなのか?」
「あ、やっぱりそこ心配する!?大丈夫、歩いてお腹空かせるから!」
俺が焦って答えると、柊一さんの唇が微かに柔らかくほころんだ。
爽やかな高原の風に乗って、ふたりの笑い声が静かに溶けていった。
「ディズニーリゾートに行く京葉線の歩道も、ここみたいに傾斜があったら面白いのにね。エスカレーター乗り継いでいくんじゃなくてさー。そしたら東京駅から楽しめるじゃん」
「――七瀬、お前のその突飛な発想力には驚かされる」
「えへへ」
俺はにやける。柊一さんは頭を抱えていた。俺、なんか変な事言ったかな?あ、また柊一さんため息ついてるし。
「変なことじゃなくてな、七瀬。……発想が過酷すぎるんだよ」
頭を抱えたまま、柊一さんは苦笑まじりの呆れた声を漏らした。
「東京駅のあの長い乗り換え通路に斜面をつけたら、朝の通勤ラッシュで悲鳴があがるぞ。ディズニーに行く前に全員息が上がるか、転げ落ちるかだ」
「あ……たしかに!通勤で毎日あれはちょっと嫌かも……」
「ちょっとどころじゃないだろう。……まったく」
呆れつつも、柊一さんは俺の頭にポンと手を置くと、くしゃりと優しく髪を撫でてくれた。 その手の温もりと、どこか愛おしそうに目を細める表情に、俺の胸はまたキュッと熱くなる。
「まあ、お前らしいけどな」
「……ねぇ、柊一さん」
「なんだ」
「今度さ、東京駅の長い通路も、今日みたいに手を繋いで歩いてくれる?」
斜面を下りきり、スカイレーターの終点が見えてくる。
俺がちょっと上目遣いで覗き込むと、柊一さんは一瞬だけ不意をつかれたように目を丸くして、それからそっぽを向くように顔を背けた。でも、繋いだ手にはしっかりと力が込められる。
「……混雑してない時間なら、考えてやる」
「ほんと!?やったー!」
「声を張るなと言ったろ。……ほら、足元注意しろ。降りるぞ」
スカイレーターを降りて地面に足を着くと、爽やかな志賀高原の風が吹き抜けていった。
ちょっと不機嫌そうなフリをしながらも、絶対に俺の手を離そうとしない柊一さん。
その横顔を隣で見上げながら、俺は溢れだしそうな幸せを噛みしめるように、握り返す手にぎゅっと力を込めた。
「ここからすぐ歩けば駐車場だ。どうするんだ、その腹」
「ど、どっか歩くとこ無いの?今だったらトレッキング行けちゃう気がする」
柊一さんは頭を小突く。
「…バカ。トレッキングは専用の服と靴が必要だ。熊も出ないとも限らない。こんなカジュアルな恰好で行けると思うな。」
「えー?!じゃあどうしよう…」
「そんな大袈裟なところに行かなくても、周辺を軽く散策するくらいなら十分歩けるだろう」
呆れたように言いながらも、柊一さんは俺の私服やスニーカーを上から下まで一度目線で確認して、小さく息を吐いた。
「この近くにちょっとした散歩道や展望スポットがある。舗装された道とかなら、その格好でも問題ない」
「ほんと!?行く行く!歩く!」
「転んでも知らないからな……ほら、離れるなよ」
差し出された手を迷わず握り直すと、柊一さんは俺の少し前をゆっくりとした足取りで歩き始めてくれた。
木々の間から差し込む木漏れ日と、高原ならではの冷んやりと澄んだ空気。歩を進めるたびに、お腹いっぱいで重かった身体が少しずつ軽くなっていく気がする。
「……気持ちいいなぁ。柊一さんとこうやって歩いてるだけで、すごく楽しい」
「お前は安上がりで助かるな」
「ちょっと!感動的な雰囲気をぶち壊さないでよ!」
プッと頬を膨らませると、隣で柊一さんが低く心地よい声でクスクスと笑った。
繋いだ手から伝わってくる温もりを感じながら、俺たちは緑に包まれた穏やかな道を、ゆっくりと歩いていった。
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