90 / 107

【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く44

「そろそろ東京に戻るぞ」 「もうそんな時間?あ、鐘の音が聞こえる~!風情あるなー」 「帰るぞ、七瀬」  柊一さんは俺の手を引っ張る。 「俺の故郷、藤沢にも行こうよ。いいとこだよー俺、案内するから」 「そのうちな」  俺たちは日暮れの空の下、歩いて行く。今日は長野の志賀高原から始まり、戸隠、横川サービスエリアを進んできた。 「立ち寄るのは川越で最後?」 「そうだな。もういい時間になる。明日は七瀬仕事だろう」 「うん、仕事。三日間休んだから頑張って働かなきゃ。長野のお土産も渡さないとね」  二人の並んだ影が、夕暮れから宵へと変わりゆく街灯の灯りに柔らかく引き伸ばされていく。 「お土産か。渡す相手、間違えるなよ」 「えっ、どういう意味?」 「『柊一さんとの旅行が楽しすぎました!』って職場全員に報告しそうな顔をしてるからだ」 「しないよ!……いや、それくらい楽しかったのは本当だけどさ」  唇を尖らせて反論すると、柊一さんは低く小さく笑った。その笑い声が耳に心地よく響いて、繋がれた手から伝わる温もりが胸の奥までじんわりと広がる。  川越の蔵造りの街並みを抜け、コインパーキングへと向かう道すがら、振り返ると遠くに時の鐘のシルエットが宵闇の中に浮かんでいた。志賀高原の澄んだ空気、戸隠の静けさと美味しすぎたお蕎麦、横川で食べたソフトクリーム、そしてここ、小江戸の情緒あふれる夜風。三日間の思い出が、めくるめくフィルムのように頭の中を駆け巡る。 「……ねえ、柊一さん」 「なんだ」 「藤沢、本当に来てね。江の島も、海が見えるカフェも、柊一さんに見せたい場所がたくさんあるんだから」 「……善処する」  相変わらずの素っ気ない返事。けれど、上着のポケットの中で重ねられた手が、さっきよりもほんの少しだけ強く握り返されたのを、俺は見逃さなかった。 「約束だよ」  今度は「安売りしない主義」だなんて言わせないように、俺はポケットの中でギュッと握り返した。  車に乗り込むと、静かなエンジン音が夜の街に溶けていく。東京への帰り道。旅の終わりはいつだって少しだけ寂しいけれど、次の「約束」を携えた俺たちの心は、どこまでも温かかった。 「関越終わると次は首都高だな。その前に東京外環道か…混むな」 「ちょうど、夕方のラッシュ時間帯だね。ゆっくり行こうよ、柊一さん」  俺は横川サービスエリアで買ってもらったスポーツドリンクを一口、口にする。 「急ぐ旅でもないしな」  アクセルをふむ柊一さんの表情は、心なしかさっきよりも穏やかに見える。車内には、お気に入りの軽やかなジャズと、規則正しいエンジンの低音が心地よく響いていた。  関越道を抜け、美女木JCT周辺のゆっくりとした車の流れに身をまかせる。赤く点滅する前の車のブレーキランプが流星みたいに流れていって、車内の暗がりの中で柊一さんの綺麗な横顔をぼんやりと照らし出した。 「七瀬」 「ん?」 「……寝てていいぞ。家に着くまで、まだかかりそうだからな」 「やだ。寝ないよ」  即答すると、柊一さんは可笑しそうに片方の眉を上げた。 「強がり言っても、目が半分閉じかけてる」 「閉じてない!……ただ、もったいないだけ」  旅が終わってしまうのも、こうして二人きりで車に乗っている時間が終わってしまうのも。  俺がシートに深く背をもたれかけながら言うと、柊一さんは一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから静かに左手を伸ばしてきた。シフトレバーの横、俺の膝の上にトンと置かれた大きな手。 「なら、起きとけ。……付き合ってやるから」  信号待ちで止まった車内。俺はその手に自分の手を重ねて、指をそっと絡めた。外の渋滞も、少しずつ暮れていく東京の夜も、今の俺たちにとっては二人だけの時間を引き延ばしてくれる特別な魔法みたいだった。 「渋滞も悪いもんじゃないね…こうやってずっと柊一さんとくっついていられるのってなかなかないもん」 「俺は据え膳を食わされてるようで、微妙だがな」 「何それ」 「…俺が車運転してなきゃ、お前のこと押し倒してるって話だ」  俺は顔を真っ赤にして、柊一さんの顔をうかがう。 「な……っ、なに着火させてんのさ!」  急激に熱くなった耳たぶを誤魔化すように怒ってみせるけれど、上着のポケットから出されたままの俺の手は、柊一さんの大きな手に指先までしっかりと握られたままだ。逃げるつもりなんてないのを見透かされているみたいで、余計に胸の鼓動が早くなる。 「お前が無防備すぎるのが悪い」  前方のブレーキランプを見つめたまま、柊一さんは悪びれもせずに口角を少しだけ上げた。そのサイドフェイスがあまりにも整っていて、夕闇の中の横顔に吸い寄せられそうになる。 「押し倒すって……車の中なんだから無理でしょ」 「じゃあ、家に着いたら覚悟しとけ」 「……っ!」  低い声でサラリと言い放たれて、言葉に詰まる。  渋滞の中、少しずつしか進まない車列。いつもならイライラしてしまうはずの赤いランプの連なりが、今は二人だけの甘い時間を少しでも引き延ばしてくれる優しさに感じられた。 「……じゃあ、早く帰る?」 「お前が寝ないなら、このままゆっくり行く」  絡めた指先から伝わる体温が、秋の夜の冷え込みを綺麗に溶かしていく。  東京の街の灯りが近づいてくる。旅の終わりと、その先に待っている新しい時間を予感しながら、俺は柊一さんの手の上にもう片方の手もそっと重ねた。  柊一さんはどこまでもズルくて、意地悪で、甘い。こんな時間を、俺は他の誰とも過ごせない。与えられたこの優しい時間を、俺は誰よりも深く、ただ味わうのだった。 「ここから、見応えあるぞ。左右にマンションやビルが間近に迫ってきて、まるでビルの谷間をすり抜けていくようなサイバーパンク風な都市景観だ」 「サイバーパンク?」 「映画で言えば「ブレードランナー」、アニメの「攻殻機動隊」みたいな高度に発達したテクノロジーと荒廃・腐敗した社会が共存する近未来SFのジャンルのことだ」 「…どっちもわかんない」 「…いいから、黙って見とけ。ちょっとしたスリルあるから」  柊一さんにそう言われて、俺は窓を見る。  流れるような車列の先、首都高5号池袋線から板橋JCTへと差し掛かると、車窓の風景が一変した。  迫り来る巨大なコンクリートの壁と、頭上を縦横無尽に交差する高架橋。左右には手の届きそうなほど間近に密集するマンションやビルの明かりが迫り、暗がりの中にテールランプの赤い光の帯がいくつもぬらぬらと反射している。 「うわ……なにこれ、すごい……!」  思わず窓ガラスに顔を近づけて見入ってしまう。  重なり合う高架の影と無機質な都市の灯りが交錯する空間は、確かにどこか現実離れしていて、SF映画の迷宮に入り込んだかのような錯覚を覚えた。夜の冷気と高速道路の緊張感が相まって、胸が少しだけゾクゾクと跳ねる。 「……だろ」  左隣から、少し得意気な柊一さんの声が聞こえた。チラリと横顔を見ると、ハンドルを握る真剣な眼差しの中に、どこか楽しげな色が混ざっている。 「本当に……ビルの谷間を飛んでるみたい」 「運転する側としては車線変更が多くてヒヤヒヤする場所なんだがな。お前が面白がってるなら、見せた甲斐があった」  そう言って、シフトレバーに置かれた俺の手に、柊一さんは繋いだままの左手でポンポンと優しく触れた。  サイバーパンクなんて難しい言葉はよく分からないけれど。  無機質でどこか冷たい都市の夜景の中で、繋いだ手から伝わってくる柊一さんの体温だけが、はっきりと俺の心を惹きつけて離さなかった。

ともだちにシェアしよう!