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【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く45
「東京でもこんなに凄いとこあるんだね。普段生活してるとわかんないや」
「七瀬は免許持ってないからな。電車で見る景色と車から見る景色は全然違う。ちょっとしたスリル味わえるだろ」
「うんうん。ヤバい!びっくりした」
もう東京都内。もうそろそろ旅は終わる。旅の終わりは寂しんだろうが、今日は柊一さんの家に泊まるから、まだ旅の途中。長野からの旅が一段落するだけだ。柊一さん家に泊まるってことは、また今夜も…。俺は夕べの情事を思い出して少しだけ顔が熱くなった。
「どうした、七瀬。黙り込んで。眠いのか?」
「え?!違うよ、ちょっと考え事してた」
「そろそろ新宿だ。新宿のビル群が目の前に広がるぞ」
「え!?そうなんだ。それ見なきゃね」
熊野町JCTを過ぎ、中央環状線へと分岐する短い区間。前方の視界がぱっと開けた瞬間、思わず息をのんだ。
夜の闇の中に、東京都庁をはじめとする西新宿の超高層ビル群が、圧倒的な存在感で目の前にそびえ立っていた。幾重にも重なる窓の明かりが星くずのように輝いていて、まるで光でできた巨大な壁に向かって飛び込んでいくような感覚に襲われる。
「うわぁ……!すごい……本当に目の前にある……」
「だろ。この一瞬だけなんだ、上から西新宿の全景が見えるのは。この先はすぐに地下へ入る」
柊一さんの言葉通り、感動に浸る間もなく、車はそのまま吸い込まれるように「山手トンネル」の地下道へと潜り込んでいった。
オレンジ色の照明が規則正しく通り過ぎる薄暗いトンネルの中。車内の静寂が戻ってくると、さっきまで見ていた光の海と、胸の奥で渦巻いていた熱い妄想が混ざり合って、鼓動がまた早くなっていく。
「……何考えてたんだ?さっき」
前を見据えたまま、低く落ち着いた声で柊一さんが尋ねてきた。シフトレバーの上に重ねられた手のひらから、ゆっくりと親指で俺の手の甲を撫でるような仕草。
「……内緒」
「ふーん」
意地悪く口角を上げた横顔に、今夜のことがますます現実味を帯びて迫ってくる。
旅はもうすぐ一区切り。だけど、俺たちの特別な夜は、このトンネルを抜けた先で、これからまた始まるんだ。
俺と柊一さんの、名前のない関係。ただのセフレのようなものだと思っていた俺の思考は、あっけなく彼に一蹴された。
柊一さんにとって、俺は唯一無二の存在——それが分かっただけでも、この長野旅行は最高に有意義な時間だった。彼とたくさんの思い出も作れた。
メディア嫌いな彼のために、写真は自分一人だけで大切に楽しむと決めよう。
俺だって、今のごく普通のサラリーマン生活を壊されたくはない。SNSをきっかけに人生が狂う話なんて、いくらでも耳にする。俺も柊一さんも、そんな渦中に巻き込まれるのは御免だ。
幸せに浸るのもいい。けれど、大人としての節度はちゃんと弁えておかないと。
有名人とつきあうって大変だな。俺は立場の差を身にしみて感じている。
些細な事が事故…、スキャンダルに繋がる。
「まあ、そういう警戒心を持ってるのは悪くないことだ」
トンネルのオレンジ色の照明が流れる中、前を見据えたまま柊一さんが口を開いた。俺の思考を見抜いたわけじゃないだろうけれど、タイミングが良すぎてドキリとする。
「……何か言った?」
「ん?『顔がマジになってる』と言おうとしただけだ」
柊一さんは可笑しそうに鼻で笑うと、シフトレバーの上の俺の手を、包み込むようにギュッとひと握りした。
「難しく考えるな。お前が俺を気に病む必要もないし、一人で勝手に背負い込む必要もない。事故だのスキャンダルだの……そんなものに足をすくわれるほど、俺もそこまで落ちぶれてない」
低いけれど、どこまでも揺るぎない声。
有名人としての責任やリスクを誰よりも知っているのは、目の前にいる柊一さん自身なのだ。俺が勝手に一人で気負って、勝手に壁を作ろうとしていたのが、なんだか少し馬鹿らしく思えてくる。
「……そっか。柊一さん、頼もしいね」
「当たり前だ。誰を相手にしてると思ってる」
そう言ってふっと口元を緩める横顔があまりにも格好良くて、胸の奥がキュッと締め付けられる。
トンネルを抜けると、東京の夜の明かりが再び車内を鮮やかに照らし出した。
立場が違っても、住む世界が少し違っても、今こうして繋いでいる手の温もりだけは紛れもない本物だ。
「よし、そろそろ着くな」
車がゆっくりとスピードを落とし、聞き慣れたマンションの地下駐車場へと入り込んでいく。
旅が終わる寂しさなんて、もうどこにもなかった。エンジンが静かに止まると同時に、俺たちはどちらからともなく互いを見つめ合った。
「柊一さん、お疲れ様――」
「七瀬もな。よく寝なかったな」
「真剣に運転してる柊一さんの横でグーグー寝れないよっ!」
「そうか?後半、一回ガクッと船漕いでただろ」
「こ、漕いでない!眩しかっただけ!」
必死に否定すると、柊一さんは可笑しそうに口角を上げた。
車から降りて、静まり返ったマンションの地下駐車場に立つ。夜の冷たい空気に肌が晒され、ほんの数分前まで車内のぬくもりに包まれていた身体が、秋の冷気を感じてキュッと小さく縮こまった。
トランクから二人の荷物を手際よく取り出した柊一さんは、自分のトランクケースを片手で持ち上げる。今回の旅行に大活躍の柊一さんのトランクケース。俺の服や靴まで入っていた。
「あ、俺持つよ」
「いい。お前は土産で手が塞がってるだろう」
「う……そうだけど」
会社へ持っていく箱菓子で両手を塞がれた俺を見て、柊一さんは可笑しそうに鼻で笑った。
エレベーターに乗り込むと、静かな金属音とともに上層階へ上がっていく。正面の鏡に映る二人の姿。旅の疲れが少しだけ見え隠れしているけれど、交わす視線の奥には、どこか甘く熱っぽい余韻が残っていた。
「……長野、本当に楽しかったな」
「今度は秋、紅葉のシーズンに連れていく」
「うん。楽しみにしてる」
チーン、と静かな電子音が鳴り、エレベーターのドアが左右に滑らかに開く。
内廊下の落ち着いた照明の中に足を踏み出すと、足音がふんわりと絨毯に吸い込まれていった。柊一さんの部屋の前に立ち、彼がポケットからスマートキーを取り出してドアロックを解除する。カチャリ、と小さな金属音が響いて重厚な扉が開かれた。
「入れ、七瀬」
「お邪魔しまーす……って、自分の家みたいにくつろぐ気満々だけど」
抱えていたお土産の箱を玄関の棚に一度置き、靴を脱いで上がると、ふわっと心地よい柊一さんの部屋の匂いに包まれた。長野の豊かな自然も最高だったけれど、この慣れ親しんだ部屋の匂いを感じると、なんだか心の底からホッとする自分がいる。
柊一さんは大きなトランクケースをリビングの隅へ置くと、そのまま上着のジャケットを脱いでソファーの背もたれに掛けた。首元を緩める仕草があまりに様になっていて、思わず見惚れてしまう。
「喉かわいただろ。何か飲むか?」
「うん、お水もらう」
キッチンへ向かう柊一さんの背中を追いかけるようにリビングへ進む。お気に入りのジャズが流れていた車内から一転して、静寂に満ちた二人の空間。
「ほら」
「ありがと」
手渡されたグラスを受け取り、冷たいお水を一口飲み干すと、ふぅと小さな吐息が漏れた。旅が終わった安堵感と、これから始まる二人きりの時間への緊張感が交差する。
グラスをテーブルに置いた瞬間、背後からスッと伸びてきた腕が俺の腰を抱きすくめた。
「っ……柊一さん?」
背中に伝わる固く温かい胸板の厚み。耳元に吹きかけられた少し短くなった呼吸に、体中の熱が一気に跳ね上がる。
「車の中での約束、覚えてるな?」
低く耳朶を揺らす声に、俺は声が出なくなって、ただ無言で小さく頷くことしかできなかった。
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