102 / 107
【番外編】静寂の宿で、君という傑作を読み解く56
「おはよう、柊一さん」
「…な、七瀬…もう起きたのか…」
「会社だからね。時間通りに行かないと」
俺はベッドから起き上がり、そのままリビングへ向かう。朝の一分、無駄には出来ない。顔を洗い、歯を磨き、スマホを見る。
「冷やかしラインばっかじゃん…」
独りごちていると、柊一さんの姿が見えた。まだ眠そうに目を擦っている。
「ダイニングに昨日買ったパンがある。俺も食うから一緒に行くか」
「うん!」
ダイニングに行くと、柊一さんは手際よく昨日買ったパンと冷蔵庫に入ったアイスコーヒーを用意してくれた。
「今日はこんなんでいいか?」
「構わないよー。しっかり食べて行くね」
俺と柊一さんは向かい合わせに座り、俺はパンを頬張る。
「七瀬、そんなに詰め込むな。ゆっくり食え」
「うん、うん」
「うん、じゃねえ。まったく…」
「ひゅういひひゃん(柊一さん)、俺、いひゃなひゃ(行かなきゃ)」
「七瀬、何言ってるのかわかんねえよ」
俺は、アイスコーヒーで全部を飲み込むと、早々とリビングに向かう。さっさと着替えないとね。
夕べ柊一さんが洗って干しといたシャツをハンガーから下し、袖を通していく。後はスーツのジャケットとスラックス、それにネクタイだ。
「大変だな、会社員は」
いつの間にか柊一さんがリビングに戻ってきていた。俺はスラックスを穿き、ジャケットを羽織る。
スタンドミラーを見ながら、ネクタイをつけるがなかなか上手くいかない。
「七瀬、貸せ」
ため息まじりに差し出された柊一さんの手が、俺の手からネクタイを奪う。至近距離で見つめ合う格好になり、昨夜の甘い記憶が背筋を駆け抜けて思わず鼓動が跳ねた。彼は慣れた手つきで結び目を整えると、きゅっと綺麗に首元へ収めてくれた。
「……よし。できたぞ」
「ありがとう、柊一さん!助かったぁ……」
「これくらいなら、いつでもやってやる」
不愛想に言いながらも、俺の襟元を整える指先はどこまでも優しい。俺は彼に深く感謝しながら、両手いっぱいの長野土産と通勤用のバッグを抱え直した。
「お前……本当にその体で大丈夫なのか?時間に余裕があるなら、会社まで車で送ってやってもいいが……」
「大丈夫、大丈夫!これくらい平気だから!」
昨夜あれほど奥まで貪られた秘部と、首筋に刻まれた噛み痕がまだかすかに痺れるような熱と、彼に満たされていた余韻が残っている。けれど、これ以上甘えてしまえば本当に仕事に行けなくなってしまう。
「……強がらなくていいのに」
呆れたように呟く柊一さんは、山のようなお土産の中から重そうな紙袋をいくつか取り上げると、「玄関まで持ってやる」と先を歩き出した。
「柊一さん……」
「なんだ」
「……行ってきます」
玄関先で荷物を受け取り、すがるような気持ちで彼を見上げると、柊一さんは一瞬だけ目元を緩め、俺の額に優しく唇を落とした。
「ああ、行ってらっしゃい。……気をつけろよ、七瀬」
おでこに残る熱を指先で撫でながら、俺は弾む胸を抑えて、朝の街へと駆け出した。
「おはようございまーす!」
今日も始業時間10分前に到着だ。俺の山のようなお土産を見て、同僚たちが騒いでいる。
「七瀬、お前、それ土産物?」
「そう、そう。みんなの分買ってきたー。三日も休んじゃったからね」
俺は土産を直接の上司に持って行った。
「リンゴのアーモンドフロランタンか。美味そうだな、長野行ってきたのか」
「はいっ」
幸せいっぱいの俺の顔に周りがざわめいている。
「七瀬君は彼女としけこみデートだそうです」
あ、旅行前に休憩室で会ったヤツだ。セレブって事は教えちゃったけど、あまりにも言い過ぎだ。
「それ、モラハラ!」
「いいじゃねーかよ、相手セレブなんてよー。七瀬ずる過ぎ」
また周囲がざわつき始めた。
「私生活の充実か。仕事にも生かせるようにな」
上司が言ってきたので、素直に「はい」と返事をした。
「あ、この話はオフレコで!」
「何が「オフレコで」だよ!」
どうも俺の部署は、俺のオーラをひがむやつばかりのようだ。まあ世間的にも?リア充爆発しろだからな。仕方ないか。
「……で、その土産がこれか。ふーん、長野ね」
昼休み、冷やかしラインを送ってきた同僚の一人に、俺は長野名物のりんごの焼き菓子を差し出した。
「長野って冬のイメージが強いけどな」
「夏も最高なんだって!蛍も綺麗だし、一面に広がる青空と緑の景色、マジで壮観だから!」
「熱弁すんなって。……それより七瀬、お前なんかやけに肌ツヤツヤしてね?長野で何してきたんだよ」
「っ!?」
鋭い突っ込みに心臓が跳ねる。
(新陳代謝にいいこと(主にバスルームでの濃密なアレコレ)しかしてねぇ……なんて死んでも言えない!!)
ここで変にドギマギすれば「架空の彼女とのラブラブ旅行」だと勝手に納得されるだろう。真実がバレるよりは100倍マシだが、それはそれで居心地が悪い。
「あ、はは……いい空気を吸って、温泉でのんびりリフレッシュしてきたからかなー」
俺は引きつりそうな頬を必死に持ち上げて、ヘラヘラと笑ってごまかした。
午後の業務が始まり、俺は自分のデスクに戻った。
「七瀬さんが有休取ってる間に、仕事結構溜まってますからね。よろしくお願いしますね?」
朝配ったアーモンドフロランタンをサクサクと美味しそうに頬張りながら、隣の席の後輩女子が声をかけてくる。
「はいはい、分かってますよ……」
デスクの上にうずたかく積まれた未処理の請求書と書類の山を見つめ、俺は深く深いため息をついた。有休明けの現実。予想はしていたけれど、これぞ会社員の宿命というやつだ。まあ、仕事を回されない窓際族になるよりは遥かにマシだけれど。
(……柊一さんは今頃、何してんだろ)
パソコンのキーボードに指を走らせながら、ふと彼の顔が頭をよぎる。
自由業の彼は、今頃自宅でのんびりコーヒーでも飲みながら原稿に向かっているか、あるいは昨夜の疲れでまだベッドで泥のように眠っているかもしれない。締め切りに追われていない時期の彼は、実に優雅で気ままに見える。
縛られてばかりの自分と違って自由な柊一さんが、少しだけ羨ましくなった。……いや、うちの会社も世間一般から見ればかなりのホワイト企業なんだろうけれど。
ポケットの中で、スマホが短い振動を知らせた。
画面を覗くと、通知欄に表示されたのは『柊一さん』の名前。
『ちゃんと仕事してるか』
たったそれだけの短いメッセージ。
ディスプレイ越しにも伝わってくる彼の温度に、俺の顔は一瞬でカツカツと熱を帯びていく。
(……なっ、なに仕事中にそんなメッセージ送ってきてんだよ……ッ!)
周りにバレないよう慌てて画面を伏せながらも、緩みそうになる口元を抑えるのに必死だった。
ともだちにシェアしよう!

