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虹のつづき4

「七瀬、落ち着いて食え。誰も取らないから」 「わはってるほお(わかってるよう)」  柊一さんは俺の顔を笑いながら、見つめていた。 「ひゅういひひゃんはたべないのお(柊一さんはたべないの)?」 「俺はこれから寝るから食べない。俺の事は心配するな、七瀬は朝早いんだろ」  俺は食べたものをごくんと飲み込む。 「一緒に食べたかったのに…」 「しょうがないだろ、俺とは感覚が違う」  一般のサラリーマンと自由職の作家。全く時間帯がズレている。 「最近の作家はサラリーマンと同じ時間で仕事する人も居るって聞いたよ」 「みんながみんなそういうわけじゃないだろう。少なくとも俺は違うな」  柊一さんは可笑しそうに鼻を鳴らすと、コーヒーカップに手を伸ばした。夜を越してきた者特有の少し掠れた声と、どこか浮世離れした佇まい。目の前に座っているのに、ふっとどこか遠くへ行ってしまいそうな気がして、俺は無意識に箸を動かす手を止める。 「……じゃあ、せめてコーヒーくらい付き合ってよ」 「こうして付き合ってるだろ。目の前で」 「そうだけどさ。……なんか、柊一さんだけ夜に取り残されてるみたいで、ちょっと寂しい」  口に出してから、柄にもなく気恥ずかしくなって味噌汁に逃げた。出汁の温かさが喉を通り、胃に染み渡っていく。  柊一さんは一瞬だけ目を見張り、それから柔らかく目を細めた。 「お前は相変わらず、変なところで細かいな」 「変じゃないし。本当のこと言っただけ」 「分かった分かった。ほら、冷める前に食え。俺はここを動かないから」  そう言って、柊一さんは頬杖をつきながら、俺が朝食を口に運ぶのをただじっと眺めていた。窓から差し込む朝日が彼の茶色くてウエーブのかかった髪を透かし、テーブルの上にふたつの影を落としている。  生活のリズムも、生きている時間帯も違う。それでも、この食卓を挟んでいる数分間だけは、確かにふたりの時間が重なっていた。 「……美味い」 「そうか。なら良かった」  ふっと満足そうに口元を緩める柊一さんの顔を見て、俺は少しだけ救われたような気分になりながら、二口目の卵焼きを口に運んだ。 「リビングに掛けてあるスーツから好きなものを着てけよ」  こういうことがあると思い、長野旅行行った後に、俺はボストンバッグの中にいくつかスーツを柊一さんの家に持ち込んでいたのだ。  俺は適当な一着を手に取る。ネクタイは昨日つけてたやつでいいだろう。俺は、リビングで寝間着として使ったTシャツ、短パンから着替える。 「手伝うか、七瀬」 「え…じゃ、ネクタイ締めて」  俺はシャツを着て柊一さんに向き合い、ネクタイを締めてもらう。  柊一さんは、俺の襟元に器用な手つきで布を通していく。長くて細い指先が首元に触れるたび、そこだけじんわりと温かくなるような気がして、俺は思わず息を止めた。 「そんなに緊張しなくていいだろ。取って食ったりしないさ」 「緊張なんてしてないし……ただ、なんか慣れないなって思っただけ」 「男にネクタイを締めてもらうのがか?」 「そうじゃなくて……柊一さんに、こういうことしてもらうのが」 「結構ネクタイ締めてるぞ。七瀬が不器用だから」 「それを言わないでよー」  至近距離で柊一さんが小さく笑った。徹夜明けの少し掠れた吐息が、俺の額をかすめる。 「俺だって、人のネクタイなんてお前以外締めないさ。……よし、出来たぞ」  最後に結び目をキュッと引き上げ、襟元を整えてくれた柊一さんは、満足そうに俺の肩をポンと一叩きした。鏡を見るまでもなく、完璧な形になっているのが分かる。 「ありがと。さすが…器用だね」 「これくらいはな。……さ、そろそろ時間だろ。遅刻するぞ」 「あ、ヤバい!もうこんな時間!?」  慌てて腕時計を確認すると、いつも家を出る時間ギリギリだった。ボストンバッグに昨日着ていた服を押し込み、ジャケットを羽織る。 「じゃあ俺、行ってくるね!」 「ああ、気をつけていけよ」  玄関で見送る柊一さんは、どこか眠たげに、でもどこか優しく目を細めていた。  パタンと扉を閉め、朝の冷たい空気を吸い込む。ネクタイの結び目にそっと手を触れると、まだ彼の指先の香りが残っているような気がした。  生活のリズムも、住む世界も違う。けれど胸の奥に残るこの温かさを抱えたまま、俺は駅に向かって駆け出した。 「おはようございます!」  俺は始業時間の10分前にデスクにつき、仕事の準備を始めた。 「おはようございます、七瀬さん」  隣のデスクの後輩女子が、明るく挨拶を返してくる。 「そういえば今日、関根柊平さんのイベントの打ち合わせがあるみたいですよ」  うちの会社がメインで手掛けるイベントだ。事前に社内で打ち合わせがあってもおかしくはない。 「来るといいなぁ、関根柊平さん。一度でいいから生で見てみたいです」  彼女はどこか夢見がちな様子でそう呟いた。 「そうだね。俺も少し気になるな……」  柊一さんの双子の兄だという関根柊平。一体どんな顔をしているのだろうか。一卵性双生児だというから柊一さんと似ているのだろうけれど、雰囲気まで一緒だとは思えない。 「関根柊平さん、画家で風景画がメインらしいですよ。せめて自画像でもあればいいんですけどねー」 「へえ、風景画を描くんだ。どこ情報?」  彼女は1枚のチラシを取り出した。 「前のイベントのチラシをもらったんです。そこに書いてありました。七瀬さん、もらってないんですか?」 「もらってない……いつ配られたの?」 「七瀬さんが有給を取ってた時期です。いなかったから渡せなかったのかも」 「ひどいなそれ!俺もイベントのメンバーなんだから配ってくれなきゃ困るよ」  俺は冗談交じりに、少し拗ねてみせる。 「七瀬は彼女としけこんで長野デートだったんだろー?」  向かいの席の同僚がニヤニヤしながらからかってきた。 「それセクハラ!あとこれとそれとは話が別だから!」 「まあ、言えば普通にもらえるんじゃねえの?七瀬も関係者なんだし」  背後から声をかけてきたのは2歳上の係長だった。同僚は「そうそう、いちいち騒ぐなよ」と笑っている。 「七瀬、もらってなかったんだな。前回のイベントチラシ1枚私とこう」  課長がそう言って、チラシを1枚くれた。 「『関根柊平 12年の歴史』か。主に風景画を得意とする…なるほど、書いてあるね。写真はないのか―」  柊一さんの兄『関根柊平』さんも、柊一さんと一緒でメディア嫌いなんだろうか。  あ。ポケットのスマホが震える。始業時間前だからいいだろう。  柊一さんからだった。  『今夜、連絡する』とだけ書かれたライン。これは俺に今夜用事があるってことか?来いとも書かれていない。気になるラインだ。

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