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虹のつづき8
朝が来てしまった。
何もない、たった一人だけの朝。隣を見ても誰もいない、狭いシングルベッド。こんなにも一人が寂しいと思ったことはなかった。昨日まではすぐ傍に柊一さんが居てくれた。今日からしばらく、それがない。
俺は昨日買っておいた惣菜パンを齧りながら、のろのろと仕事の支度を始める。
「ネクタイも、自分で結ばなきゃな…」
不器用な手つきでネクタイを結ぶ。ほんの数か月前までは、当たり前に一人でやっていたことなのに。
「柊一さん、まだ仕事してるのかな…」
生活時間帯がまるで違う柊一さんのことを思い浮かべながら、俺は着替えを済ませた。
部屋を出るにはまだ早い。俺は時間をつぶすため、スマホでいくつかショート動画を見る。前は結構楽しんで見ていたはずなのに、今はそんなに楽しくない。登録しているチャンネルや好きな配信者の動画も開いてみるが、やっぱり前ほど楽しくない。
「…俺、こんなの好きだったっけ?」
自分で好きで登録していたはずなのに。数か月で趣味が変わってしまったということだろうか。
——否。
柊一さんと深い仲になって、世界の中心が彼で回るようになってしまった。俺の好きなもの=彼の好きなもの。今なら、柊一さんが好きなジャズも、勉強のつもりじゃなく、ただ好きな音楽として自然に耳に流れてくるのかもしれない。
そう思って、YouTubeでジャズを検索してみる。だが曲が多すぎて、あっという間に迷子になる。
「あ、これ柊一さんの家で聴いたやつだ」
タイトルだけで気づいて、思わず再生した。
「あー、いいね、このメロディー」
リズムに合わせて、頭を軽く揺らす。
(この曲、柊一さんやけに気に入ってたよな…)
音楽を聴いたのはいいものの、余計に柊一さんに会いたくなってしまった。
「あ、ヤバ。そろそろ出なきゃ」
俺は慌てて部屋を飛び出した。
「おはようございます…」
「どうした、七瀬。やけに今日は元気がないな」
出勤してきた係長に言われる。そんなにわかりやすいのか、俺…。ただ柊一さんに会えないというだけなのに。
「何かあったんですか?」
俺の隣の後輩女子にも心配される。
「何もないよ。何もないから逆にストレスになっちゃって…」
真向かいの同僚から嫌味が飛んでくる。
「はー、リア充はいう事も違うね~。何もないからストレスとか。俺らとは全然違うね~」
俺は口を尖らせる。
「色々あるだろ、ストレスって!」
隣の後輩女子まで、
「羨ましいですね~。何もないからストレスって」
と、言い出した。
俺は四方八方から責められている気分だ。俺は一人一人ふてくされながら、始業のベルを聞き、仕事を始めた。
今日仕事終わっても、いつものような「家に来い」なんて連絡は来ない。精々電話で話すぐらいが関の山。そう思うと気が重い。
(会いたいなあ…でも仕事あるんだよな、柊一さん…)
「七瀬、関根柊平のイベントの件で話があるんだが」
朝から課長に言われ、俺は襟を正す。
「はい、課長、何でしょうか?」
長い物には巻かれる。それが平々凡々なサラリーマン生活を送る基本だ。
「コラム書ける人知らないか。関根柊平の今回のパンフレットに載せる予定なんだが…」
…コラム。俺はコラムを書ける人を一人知っている。だが、「関係ない人間」と、言い切ってる柊平さんのコラムに彼が書いてくれる気がしない。俺は「さぁ…」と首をひねる。
「社内で書いてもいいんだが、箔をつけたいんだよな、イベントに」
課長は、そう言うが、居ないものは居ないとしか言えない。
「七瀬、お前には関根柊一がいるだろ」
課長の後ろに座って居た、営業本部長が俺に言う。
「市川太一の件が白紙になった時、会議に来て七瀬の隣に座って、何か話していただろう」
ギクッ。
俺と柊一さんが知り合いなのを見抜かれていた!確かにその場に営業部本部長いたけど…。覚えていたんだ…。
「『関根柊一』か!彼なら人気作家で、コラムニストだし、イベントにも箔がつく。七瀬、彼に書いてもらえるように頼んでもらえないか」
課長は、そう俺に頼んできた。
「難しいと思います…。彼らは双子なのにちょっと仲が悪いみたいで…」
と、断ったが、双子というワードを持ち出した俺が悪かったのか、
「双子?それは是非とも書いてもらわなければ!!これは幸先いいぞ!!」
と、逆に課長が乘る気になってしまった。
「七瀬、ここは男を上げるチャンスだぞ!」
と、同僚からも声がかかる。俺は頭を抱える。柊平さんは嬉しいかもだけど、あの柊一さんが素直に書くと思えない。
「あの…無理だと…」
「そこを何とかするのが営業の仕事だろう!」
正論を言われ、俺は何も言えずに立ち尽くした。
(…はぁ…どうすんだよ……)
「なんか七瀬、疲れてないか?」
昼休みの食堂で食事を共にとっていた川田に言われた。
「ちょっと考え事があってさ… 」
俺が言うと、川田は、
「そういや、七瀬と『関根柊一』ってつきあいあったんだな」
俺は瞠目する。川田は続ける。
「ほれ、一か月ちょい前の話でさ、企画部 と合同で動くプロジェクトいきなり没になっただろ。その裏に『関根柊一』がからんでるんじゃないかって話があってさ…」
頭が痛い。
また太一の話だ。亡霊のように太一が俺の前に立っている。太一の話は柊一さんが片づけてくれたのに、太一が嘲笑うかのように俺を見ている気がした。
めまいがする。呼吸が乱れる。思い出したくもない記憶が俺の頭をよぎる。
「七瀬―!七瀬!」
川田の俺を呼ぶ声が遠く聞こえる。俺はそのままその場で倒れた。
「七瀬さん大丈夫ですか?」
医務室に担ぎ込まれた俺は、担当の保健師がバイタルチェックをしている。
「血圧、体温共に異常なし。何か仕事上、トラブルでもありましたか?」
…言えない。
俺は目を伏せる。
「七瀬さん、念のため、脳神経外科や循環器内科で一度検査を受けましょう」
と、保健師は言う。
「いや、多分理由はわかってるんです…」
そう言って、俺は立ち上がる。
「七瀬さん、今日はこのまま病院に行ってください」
「え?!」
「営業部には、そう伝えてありますから」
保健師に言われ、俺は渋々医務室を出て、営業部の部屋へ向かった。
「七瀬、大丈夫か?」
営業部に戻ると、俺の課の人間が次々と声を掛けてくる。
俺は頭をペコペコ下げながら、自分の席につき、後片付けを始める。
「七瀬さんは、病気しないと思ってたのに…」
隣に座っている後輩女子が、そんなことを言う。バカは風邪ひかないって?
「七瀬、タクシーが来てるから、気を付けて病院行けよ」
課長が心配そうに俺を見る。
「はい、じゃ、お先に失礼します…」
俺は営業部の部屋を出た。
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