115 / 121

虹のつづき12

「……そろそろ離れろ。いつまでくっついてるつもりだ」 「え~、あとちょっとだけ」 「ダメだ」  そう言いつつも、柊一さんが俺を引き剥がす動きは、思ったよりずっと優しかった。俺は名残惜しく身体を離すと、改めて柊一さんの顔を見る。呆れた表情の奥に、ちゃんと優しさがあるのを、俺はもう知っている。 「柊一さん、本当にありがとう。無理させちゃってごめんね」 「無理はしてない。一回だけって言っただろ」  柊一さんはそう言って、テーブルの上にあったノートを引き寄せ、ペンを取った。 「テーマと締切と文字数、忘れるなよ。お前がちゃんとメモを取ってこなかったら、俺は書かないからな」 「うっ……わかった、今度こそちゃんと聞いてくる」  俺は自分のスマホを取り出して、メモアプリを開いた。空白のメモ画面に、それらしく「柊一さんへの確認事項」と打ち込む。 「あと、写真とかはダメだからな。一切そういうのは無しだ。そういうのは伝えておけよ」 「あ、そうだね。それも聞いてみる」 「……本当に大丈夫か、お前」  柊一さんが少し心配そうに俺を見る。 「大丈夫だよ。今度はちゃんと、ぬかりなく聞いてくるから」  俺がそう言うと、柊一さんは小さく頷いて、それ以上は何も言わなかった。ただ、俺の頭にもう一度そっと手を乗せて、少しだけ乱暴に撫でた。 「……ちゃんと帰ってこいよ」  その一言に、俺の胸がじんわりと熱くなる。  ……でも、このまましんみりするのは、なんだか俺らしくない気がした。 「じゃ、抱きついたりしないから…チューして、チュー!」  俺は唇を突き出し、柊一さんの反応を待った。すると、柊一さんは、口にではなく、俺の額にキスを落とした。 「バカだろ、お前…」  柊一さんは笑う。俺は無視されずにキスされたことに驚き、勝手に頬を赤く染める。 「…だって本当にしてくれるって思わなかったもん…」  柊一さんは、したり顔で俺を見る。 「なんなら、キス以上のことだって、お前が望むならしてやってもいいんだぞ」  俺はさらに顔を真っ赤にして、手を何度も振る。 「…そ、それは…あとで考える…」 「即答できないところがお前らしいけどな」  柊一さんはそう言って、呆れたように笑いながら俺の頭をくしゃっと撫でた。その手つきは、さっきよりずっと乱暴で、でもどこか楽しそうだった。 「あー、もう、髪型崩れるからやめてよ」 「知るか。お前が変なこと言うのが悪い」 「変なことって、柊一さんが先に言い出したんじゃん!」 「揚げ足取るな」  俺は口を尖らせながらも、こういうやり取りが結構好きなんだよな、と思う。柊一さんは呆れながらも、ちゃんと付き合ってくれる。それがなんだかんだ嬉しい。 「明日、明日…ね、俺頑張るから!」 「…無理はするなよ」 「……わかってる」  柊一さんは短いため息をついた。 「…お前一人で抱え込むなよ。お前の傷は俺が傷つけたようなものだから…――」  柊一さんはまだ自分を責めている。 「柊一さんは何にも悪くない。俺がバカだった、それだけだよ…ね、やめよう、この話は。…俺もう大丈夫だから。……俺、お腹減っちゃった。なんか軽く食べるものある?」  俺は無理やり話を変えた。  これ以上、柊一さんが自分を責める話なんて聞きたくない。俺の傷は、そう簡単に治るものじゃないかもしれない。  だけど、俺のことで柊一さんが苦しむのは嫌だった。  だから、もうこの話は終わりにしたい。 「待ってろ、軽く食べるならアイスクリームがあったな。腹の足しにはならないが」 「いいね、アイス。たまに食べたくなるし!ね、ね、持ってきて。柊一さんも食べようよ」  俺の顔を見て、柊一さんはふっと笑った。 「そうだな、アイスもたまにいいな。持ってくるから待ってろ」  そう言って、柊一さんは立ち上がり、キッチンへ向かった。  柊一さんといえば、プリンだけど、アイスクリームもあるんだな。…女性からの差し入れとかじゃないことを祈りたい。 「ほら、持ってきたぞ。アイス。バニラとクッキー&クリーム、七瀬はどうする?」 「わ!これハーゲンダッツじゃん!さすが柊一さんだね~。なかなか高くて買えないもん」 「…ま、貰いものだけどな」  ……出た。いつものやつだ。アイスにまで女の影がちらつく。 「また女からの差し入れ~?本当にモテるよね、柊一さんは…」 「くれるんだから、貰うだろう、普通は。七瀬が俺の立場だったらどうするんだ?」  …俺、昔彼女からバレンタインにチョコもらったっきりなんだけど。 「…俺、そういう経験ないからわかんない」  素直にそう言うと、柊一さんは笑った。 「……七瀬だもんな」  柊一さんはそれを見てまた笑った。 「なんだよ、その笑い方。バカにしてるでしょ!」  俺がむくれてみせると、柊一さんは肩をすくめた。 「バカになんてしてない。七瀬らしいなって思っただけだ。ほら、アイス溶けるぞ」  そう言われて、俺はスプーンを受け取り、クッキー&クリームの蓋を開けた。ひとくちすくって口に入れると、冷たさと甘さが口いっぱいに広がった。 「んー、美味しい!やっぱりハーゲンダッツは違うね」 「良かったな。……で、七瀬はどっちが好きなんだ、バニラとクッキー&クリーム」 「クッキー&クリーム一択だよ。バニラはちょっと物足りない」 「俺はバニラ派だけどな。シンプルなのが一番だ」 「えー、渋いね。柊一さんらしいけど」  俺たちはしばらく黙って、それぞれのアイスを食べ進めた。静かな時間だったけど、気まずさはなくて、むしろ心地よかった。  ふと、柊一さんのスプーンが止まっているのに気づく。 「……柊一さん?」 「……ん、なんでもない。ほら、七瀬も早く食べないと溶けるぞ」  そう言われて誤魔化された気がしたけど、俺はそれ以上追及しなかった。今はこの穏やかな時間を、壊したくなかったから。 「ね、柊一さん」 「なんだ」 「ありがとう。……いろいろ、全部」  柊一さんは少しの間黙って、それからぶっきらぼうに答えた。 「……いちいち言うことじゃないだろ、それは」 「言いたいの。俺が」  俺がそう言うと、柊一さんはふいと視線を逸らした。その耳の先が、少し赤くなっている。 「……勝手にしろ」  その反応が可笑しくて、俺は思わず笑ってしまった。柊一さんは「なんだよ」と言いながらも、怒っている様子はなくて、結局二人でアイスを完食するまで、たわいもない話を続けた。

ともだちにシェアしよう!