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虹のつづき15
「柊一さん、お腹減った~」
柊一さんは呆れ顔をした。
「嫉妬が収まったら、腹か。……まあ、腹が減るのは健康の証拠だからな」
俺は慌てて、その服の裾を掴んだ。
「……やだ。柊一さん、キッチン行かないで。ウーバーか何か取ればいいじゃん」
「食材が悪くなるだろ。ダメだ」
「……そばにいてほしいんだってば。一人になるの、怖い……」
「じゃあ、ダイニングまで来い。キッチンも繋がってるから、そこで待ってればいい」
俺は、柊一さんの裾を離した。
「うん。そうする。柊一さん、ダイニングに行こう」
「……七瀬、無理はするなよ」
「うん。大丈夫。柊一さんがいてくれれば」
俺はダイニングに行き、柊一さんはその奥のキッチンへ向かった。
「今日は何作ってくれるの?」
「肉とジャガイモ、玉ねぎがあるから、肉じゃがでも作るか。浅漬けに味噌汁は作ってあるからな」
「わ!ザ・家庭料理じゃん!食堂でしか食べられないよ~肉じゃが」
「ザ・家庭料理って言うけどな、そんな大したもんじゃない。切って煮るだけだ」
柊一さんは冷蔵庫から肉と野菜を取り出しながら、こともなげに言った。
「その『切って煮るだけ』が、一人だとできないんだよ。食堂のがあるから、とか思っちゃって」
「食堂の肉じゃがは食堂の味だろ。……まあ、今日は俺の味で我慢しろ」
「我慢なんかしないよ。楽しみ」
ダイニングの椅子に座って、俺はキッチンの方を眺めた。カウンター越しに柊一さんの背中が見える。まな板に包丁が当たるトントンという音が、規則正しく響いていた。
さっきまで胸の奥でぐちゃぐちゃになっていたものが、その音を聞いているうちに、少しずつほどけていく気がした。
「柊一さん」
「なんだ」
「そこにいるよね?」
「いるだろ。見えてるはずだ」
「うん、見えてる。……言ってみただけ」
柊一さんの手が、一瞬止まった。それから小さく息をついて、また包丁を動かし始める。
「……七瀬。玉ねぎ、くし切りでいいか」
「うん、大きめがいい」
「注文が多いな」
「だって肉じゃがの玉ねぎは、とろとろになるのがいいんだもん」
「はいはい」
呆れたような声なのに、その端っこが少しだけ柔らかい。俺はテーブルに頬杖をついて、ふふっと笑った。
やがて鍋に火が入る音がして、醤油とみりんの甘い匂いがふわりとダイニングまで流れてきた。
「あ、いい匂い……」
「まだ煮始めたばかりだ。あと二十分はかかる」
「えー、そんなに待てない。お腹鳴りそう」
「浅漬けでも先に摘まんでろ。冷蔵庫の下の段だ」
「……取りに行くとき、柊一さんの隣通っていい?」
少し間があった。
「……好きにしろ」
俺は椅子から立ち上がって、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開けるふりをして、柊一さんのすぐ隣に立つ。鍋の湯気の向こうで、柊一さんが横目でこちらを見た。
「近い」
「知ってる」
「……菜箸、持ってるから危ないぞ」
「大丈夫。ここにいるだけだから」
柊一さんは何も言わず、鍋の中のじゃがいもを崩さないように、そっと菜箸を入れた。その肩が、俺の腕に触れるか触れないかの距離にある。それだけで、さっきまでの怖さが嘘みたいに遠のいていった。
「……ありがとう、柊一さん」
「何がだ」
「んー、全部」
柊一さんは答えなかったけれど、鍋の火を少し弱めながら、ぽつりと言った。
「できたら、一緒に食うぞ」
「うん!」
湯気の向こうで、鍋がことこと小さく鳴っていた。
「七瀬、戸棚から、皿取ってくれ」
「出来たの?肉じゃが」
「ああ。味見もしたから、不味くはない筈だ」
「柊一さんの作るメシで不味かったのって、一度もないじゃん。楽しみにしてる」
俺は戸棚にある少し深めの皿を取り、柊一さんに渡した。
キッチンの照明の下、肉じゃがの湯気と甘い匂いがふわりと漂う。柊一さんは菜箸を置いて、俺が渡した皿を受け取ると、慣れた手つきで肉じゃがを盛り付けていく。じゃがいもの角が少し崩れて、それがまた美味そうに見えた。
「多めに盛っといた。お前、いつも足りないって言うだろ」
「え、覚えてたんだ」
「一回しか言ってないのに、忘れるわけないだろ」
柊一さんはそう言いながら、目を合わせずに次の皿を取った。耳の先が少し赤い気がしたけど、気のせいだと思うことにした。
「柊一さんの分は?」
「今盛ってる」
「一緒に食べようって言ったの、柊一さんだよ」
「わかってる。急かすな」
二つの皿がテーブルに並んで、湯気がゆっくりと立ちのぼる。俺は椅子を引いて座り、向かいに柊一さんが腰を下ろすのを待った。
「いただきます」
「……ああ」
箸を持つ手が、なんだか少しだけ弾んでいた。じゃがいもを一口食べると、出汁の味がじんわり染みてきて、それだけで今日の疲れがどこかに溶けていくようだった。
「美味しい」
「そうか」
柊一さんは短くそう言っただけだったけど、口元がほんの少し緩んでいるのを、俺は見逃さなかった。窓の外はもうすっかり暗くて、部屋の中だけがあたたかい。鍋の火は消えているのに、まだことこと音が聞こえる気がした。
「柊一さんの作るメシ、どれも美味い。今日の肉じゃが、ほっこりする。浅漬けも味噌汁も美味しい」
「……褒めても何も出ないぞ」
「正直に言ってるんだよー。柊一さんの作るメシ、どれも美味い」
「そりゃ良かったな。お前も少しは料理覚えろ」
「……う。それはそうなんだけど……」
「なんだよ、その顔」
「いや、柊一さんが料理覚えろって言うと、なんか説教くさく聞こえるなって」
「事実だろうが」
「そうだけどさぁ」
俺はちろりと柊一さんの顔を窺った。相変わらず表情はそっけないけど、さっきよりちょっとだけ機嫌が良さそうに見えるのは、たぶん気のせいじゃない。
「今度、教えてよ。肉じゃがの作り方」
「……別に、いつでも」
「ほんとに?じゃあ今度の休み――」
「気が向いたらな」
「素直じゃないなぁ」
「うるさい。早く食え、冷める」
そう言われて、俺は素直に箸を動かした。味噌汁をひとくちすすると、わかめの香りがふわっと鼻に抜ける。浅漬けはちょうどいい塩加減で、白米が止まらなくなりそうだった。
「柊一さん、今日も仕事忙しかったんでしょ?それなのに、こんなちゃんとしたご飯作ってくれて」
「別に。作らないとお前が変なもんばっかり食うだろ」
「変なものって、コンビニのおにぎりだよ?立派な食事だよ」
「あれは食事じゃない、栄養補給だ」
「厳しい……」
でも、その口調のどこかに、呆れながらも心配してくれているのが滲んでいて、俺はなんだかくすぐったい気持ちになった。テーブルの向こうで、柊一さんが黙々と箸を動かしている。時々視線がこっちに向いて、また逸れる。
「なんだよ」
「いや、別に」
「気になる言い方するなよ」
「……ただ、こうやって一緒にメシ食えるの、いいなって思っただけ」
柊一さんの箸が、一瞬止まった。それから、ふいと目を逸らして、湯気の立つ肉じゃがをまたひとつ口に運ぶ。
「……気の早いこと言ってんじゃねえよ」
「そう?」
「そうだよ」
そう言いながらも、柊一さんは俺のご飯茶碗が空になっているのに気づいて、無言でおかわりをよそいに立ち上がった。後ろ姿はちょっとぶっきらぼうだったけど、その優しさが伝わってきて、俺はまた笑ってしまった。
「ありがとう、柊一さん」
「……別に礼を言われるほどのことじゃない」
夜はまだ長くて、二人分の食器がゆっくりと空になっていく。窓の外の暗闇とは対照的に、この部屋には穏やかな時間が流れていた。
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