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第15話「その名は」
(ほんと、俺どうしちゃったんだよ……)
起き抜けに洗面所で顔を洗い、冬斗は鏡を見つめた。
黒髪から水滴がぽたりと落ち、露わになった紫の目が力なく自分を見つめている。
だんだん、夜眠るのが怖くなってきている。
数日前に『シキ』に犯される夢を見てから、毎晩その夢をみる。
しかもその内容はほとんどが抱かれる夢で、冬斗は目が覚めたら必ず体に熱い余韻が残っていた。
洗面所で大きくため息をつく。
ふと、後ろに祖母が立っていることに気がついた。
「……その目、誰にも見せちゃいかんよ」
「ばあちゃん。……うん、分かってるよ」
祖母はじっと冬斗の紫の目を鏡越しに見ている。相変わらず厳しい目つきだ。
タオルで顔を拭いて洗面所を後にしようとし、ふと冬斗は立ち止まった。
『その目は、人に見せちゃいかん』
昔から、祖母にそう言い聞かせられていた。
今までは、理由を訊くのが怖かった。
自分の幼い頃のアルバムを見ても、目がよく映っていないものしかない。子供の頃から、それが悲しくて寂しく思っていた。
なんとなく、自分の目が不気味だからだろうと思っていた。
でも、それだけじゃないのではないだろうか。
祖母と会う時はいつも東京のアパートだった。祖母がどこか遠い田舎にいるということは知っていたけど、それが白泰村だということも知らなかったし、祖母も母も村のことはあまり話さなかった。
今思うと、それもなんだか変な話だ。
冬斗は祖母を振り返った。
「……ねえ、ばあちゃん。なんで、この目って人に見せちゃダメなの?」
声が少し震えた。
ずっと訊きたくて、ずっと訊けなかったこと。
「……お前を守るためだよ」
祖母は冬斗をじっと見つめて、その後、うつむいた。その姿が記憶よりも小さく見えた。
守る。何からだろう。人々の奇異な目から? ────それとも、別の何かから?
祖母はずりずりと右足を引きずりながら静かに歩く。
「あら、おはよう、冬斗」
その時、洗面所に明るい声が響いて、母が顔を出した。
「何よ、あんた。すごいクマじゃない。最近ほんとに寝れてないのね」
心配そうにこちらを見る母の隣を祖母がすれ違っていく。
「あ、お母さん、ほら。杖、杖持って」
母がバタバタと祖母の杖を取りに行く。
「少しずつ良くなってきとる」
「だめ。ちゃんと治るまでは無理しない!」
祖母と母の会話をぼーっと見ながら、冬斗はしばらく洗面台の前から動けなかった。
◆
「じゃあ、今日は一日作業をして、各自係の方の指示に従って昼食をとること。作業が終わったら、最後に俺のところまで来て報告してから帰るように。あ、あと神社からは出るなよ」
担任の指示を皮切りに、生徒たちが各自の持ち場へ散らばっていく。
冬斗は隣にいた伊織の腕をつかんだ。それを見た伊織が一瞬目を丸くし、すぐににやりと笑って冬斗の肩に腕を乗せる。
「じゃあ、行きますか」
「ちょっと伊織、あんたはこっちでしょ」
軽快に笑った伊織に、茜が後ろから声をかける。伊織が「冬斗見送ってから行くわ!」と茜に手を挙げた。
「もう、何よそれ」
「あ、一葉先輩、行きましょう」
むくれる茜の横から、鈴音が一葉に駆け寄っていく。
ここ一週間ほどで、冬斗は伊織といる頻度が増えた。
そして、それに比例するように、鈴音は一葉にぐっと近い距離にいるようになった。
「やっぱり、一葉先輩と鈴音、いい感じじゃない?」
「ねぇ。ここ最近めっちゃ距離近いよね」
「いいなぁ、鈴音」
ひそひそと、女子たちの声が聞こえてくる。一葉はいつもの笑顔で時折鈴音を見下ろしている。
自分から遠ざけているはずなのに、なんだか無性に胸がじりじりした。
────冬斗は夢でシキに抱かれるたびに、一葉をまともに見ることができなくなっていった。
シキとの行為は基本的に一方的で、正一はシキに抱かれながら依峰への罪悪感で涙を流すこともあった。シキは乱暴ではないけど、加減を知らない。
正一は自分ではない。自分ではないのに、その感情はそのまま目が覚めた冬斗に、体の熱と共に流れ込んでくる。
頭がいよいよおかしくなりそうだった。
(絶対、おかしい)
夢で抱かれるたび、体には熱い余韻だけが残る。
正一の感情まで流れ込んでくる。
────これはもう、ただの夢じゃない。
ふらふらと歩いていると、段差につまづいて転びそうになった。ひやっとした瞬間、伊織の腕に支えられる。
「っと。おい、大丈夫か?」
「あ、ご、ごめん。ありがとう」
見上げると、そこには優しくこっちを見下ろす顔があった。しょうがないなと言わんばかりの、いつもの、安心する顔。
「……依峰」
ぽつりとつぶやいた。腕に支えられながらぼうっと見上げていると、目の前の表情が困惑に変わった。
「……ん? よりみね?」
「……えっ、……あ!」
ハッとして、慌てて口を抑える。
「なんだよ、元彼の名前か?」
伊織は茶化すように笑う。
「いや、ちげえし! ……や、あの、ごめん」
「いや別にいいよ。……また、夢か?」
最後はひっそりと囁くように問われる。はぁ、とため息をついて、小さく頷いた。
「そんな感じ……」
ぼそりと呟いて、眼鏡を掛け直す。伊織は一瞬黙った。
「……俺に似てるやつが、“よりみね”?」
「……うん」
半ばもうどうにでもなれ――いや、どうにかしてくれ。そんな思いでうなだれると、伊織がこっちを覗き込んできた。
「お前、夢でも俺といんのかよ。大好きじゃん」
「う、うるせえよ。そういうんじゃねえし」
にかっと笑った伊織を小突くと、ふと視線を感じた。そっちの方を見るとやっぱり一葉で、とたんに心臓が波打つ。
じっとこっちを見つめる一葉の目は、暗い夜のようで、夢とは違う色をしている。
でも、その温度が同じだった。
思わず、伊織の袖をつかむ。
「い、行こ」
ぐい、と引っ張って、一葉から視線を剥がす。伊織の腕を引きながら、冬斗の頭には一葉の寂しそうな目が残っていた。
◆
「あー! やっと終わった!」
「佐久間のおじいちゃん、お疲れ様ー! ちょっと外で休憩してくる!」
あらかた作業が終わったので、女子たちが伸びをして資料室の外へ出ていく。
冬斗も手持ち無沙汰になったので、なんとなく手元にあった『白蛇祭保存会誌』を手に取る。
ぱらぱらと流し読みをしていて、ある文字で思わず指が止まった。
『紫の目』
「え……」
――どくり。
心臓が大きく高鳴る。目を見開いて、冬斗は会誌に顔を近づけて読み込む。
『神楽――蛇神降 ろし』という記事だった。
室町時代の頃、蛇神信仰が盛んだった時代に白蛇祭は始まったらしい。巫や巫女が蛇神をその身に降ろして、神託を授かるために、あるいは信仰を捧げるために、神楽を舞ったそうだ。
一五六七年の神楽の記録がある。
「白銀の髪に、紫の目……」
つぶやいて、しばらく呆然とした。
心臓がうるさい。周囲の音が遠ざかる。
『白銀の髪』『紫の目』『巫』
その文字だけが冬斗の意識を支配する。
(なんだ、これ……まるで……)
ごくりと喉を鳴らす。
「シキ……?」
呟くと、後ろの方でガタリと派手な音がした。驚いて振り返ると、佐久間さんが幽霊でも見たかのような顔をしてこっちを見ながら立ち上がっていた。杖もついていない。
「い、今……なんと、なんと……」
「……え?」
ただならぬ様子に目を見開くと、佐久間さんがふらふらと近づいてくる。
「今、なんと言った」
「いや、あの……」
「その名は……どこにも載っておらん」
「……え?」
肩をつかまれて、その強い力に冬斗は顔を歪めた。鬼気迫る様子の老人にぞっとして、得体の知れない恐怖が湧いてくる。思わず体が縮こまる。
「あ、あの……なんなんですか。やめてください」
「なぜお前がその名を知っとる」
がくがくとゆさぶられて、叫び出しそうになった。
ふと、佐久間さんがぴたっと動きを止めて、冬斗の顔をまじまじと見た。
落ち窪んだ目がぎらぎらと光り、冬斗を射抜く。
「……お前さん、いつもあのお方と一緒にいる坊か」
「え?」
「バスで、いつも一緒におるじゃろう」
バスで、と言われ、一葉のことだと思い当たる。
「か、一葉のことですか?」
思わず答えると、老人は目の色を変えた。
「やっぱり……そうじゃ、あのお方と……蛇神降ろしの……」
その後、老人は冬斗がまるで見えていないように、ぶつぶつと一人で何かを呟き始めた。
いよいよ恐ろしくなって、冬斗は「す、すみませんっ」と言って佐久間さんを振り切って資料室を飛び出した。靴もまともに履かず、転がるように外へ出る。
「うわっ!?」
その時、誰かに思い切りぶつかった。
「ご、ごめん!」
慌てて見上げる。
「あ……」
そこにあった顔に、泣きそうになった。
「伊織……」
そこには伊織が立っていた。
「なんだよ、冬斗。お前、幽霊でも見たのか?」
相変わらず太陽の気配をまとった爽やかな笑顔に、冬斗は全身の力が抜けてへなへなとその場にへたりこんだ。
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