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第21話「来い」

 青白い雪あかりが漏れる障子の向こうから、太鼓の音がかすかに聞こえてくる。  文机(ふづくえ)で書物を読む手が止まった。  行燈(あんどん)のぼんやりとした灯りが揺れる。  ぱち、と火鉢の炭が小さく爆ぜた。  外では、もう祭が始まっているらしい。    雪の降る夕闇は、ひどく静かだ。  ――ドン……ドン……。  静寂の底を揺らすように、低い太鼓の音が、遠くから腹の奥へ響いてくる。  風に紛れて、笛の音の気配もした。 「……」    正一は視線を落とし、再び書物へ目を戻した。  しかし、目は文字をなぞるだけで、意識が上滑りしていく。  ――ドン……。  また、太鼓が鳴る。  そろりと、障子の向こうに目を向けた。  その時。  こん、こん、と障子の木枠を叩く軽い音がした。  ぱちり、と瞬きをする。太鼓の音が遠くなった。  無意識に背筋が伸びる。身構えると、そっと障子が開けられた。 「正一」  聞き慣れた声と共に姿を表した男に、思わず目を丸くした。 「依峰。お前、なんでここに……」  濃紺の小袖の上に羽織った外套(がいとう)には雪が乗っている。  編笠(あみがさ)の縁から、赤くなった高い鼻先が覗く。笠が指で持ち上げられ、精悍な顔が露わになった。  依峰は不遜に笑って、正一を見下ろした。 「行くぞ」  冷たい外気と雪の匂いに包まれる。  依峰を呆然と見つめた。 「だ、だが、父上が……」  うろたえると、依峰が鼻を鳴らした。   「気にするな。見張なら潰してきた」 「つ、潰したって、お前……」  手荒なことをしたのではあるまいか、と眉をひそめると、そんな正一の様子を察したのか、依峰は腰に提げていた提子(ひさげ)を軽く揺らして見せた。 「……酒か」  察して、ふっと肩の力を抜いた。 「……少しだけだぞ」 「ああ」  依峰が手を差し出してきたので、その手を握って立ち上がる。  祭囃子(ばやし)の気配が濃くなった気がして、正一は高まる鼓動に深く息を吸い込んだ。    人目を気にしながら、二人で館を抜け出す。正一は外套で顔半分を覆い隠しながら、そそくさと雪の石畳を歩いた。  少し前を歩く依峰のすっと伸びた背を見つめ、目を細める。  白い夕闇の中を、ぼんやりと提灯(ちょうちん)や行燈が照らす。一歩一歩神社に近づくたびに、笛の音や太鼓の音、人のざわめく声が大きくなっていく。 「……なあ、依峰」  そっと話しかけると、依峰が歩をゆるめて正一を振り返る。 「なんだ」 「……ありがとう」  正一は編笠を目深に被り直した。依峰の黒い髪の毛には雪が舞い落ちている。  依峰は足を止めて正一をじっと見つめると、やがて静かに俯いた。 「……礼を言われることなんてしていない」 「そんなことない。俺、まさか祭りに来れるなんて思ってもいなかった」  目の前の外套を控えめにつかむと、依峰が正一を振り返る。正一を見つめる顔は、雪の影のせいか、少し影がかって見えた。  ふっと口元を緩めた依峰が歩き始めて、正一の肩に自分の腕をかけた。 「お前は本当に純粋だな」 「なんだよ、急に」 「愛しいと思っただけだ」  囁かれて、耳が熱くなる。    その時、ばたばたと二人の横を幼い子どもたちが通りすぎた。 「にいちゃん、待ってよ」 「早くしないと、(かんなぎ)様の神さま降ろし、終わっちゃうぞ」  小さな外套たちが駆けていく。頼りない足跡が雪の上に残っているのを、なんとなしに眺めた。  ぽつりと依峰に話しかける。 「なあ、依峰。お前、幼い頃はどんな子供だったんだ」  一瞬、依峰の足が止まった。 「……どうだったろうな」  また歩き出した依峰は、少し早足のように感じられた。正一はその背を追いながら、俯く。 「お前は、やっぱり思い出せないのか」  依峰の言葉に、小さく頷いた。 「ああ。やっぱり、どうにも……。今みたいに、子どもたちの姿をみると、何か思い出せそうな気もするんだ。でも、すぐにぼんやりしてしまう。……ごめんな、お前との、思い出なのに」  ぎゅっと拳を握る。思い出そうとすればするほど、思考が白くけぶっていく。何かずっと引っかかりはあるのに、それが何なのかはっきりとしない。  ゆらゆらと提灯の灯りが揺れる。 「……でも、お前の傷のことだけは覚えている」  正一はそう言って、顔を上げた。依峰はしばらく黙っていた。 「……そうか」  依峰はそれだけぽつりと呟いて、額に手をやった。おそらく、傷に触れているのだろう。  そっけない返事に肩透かしをくらった気分になったが、正一がそっと依峰の手に触れると、痛いほど力強く握り返された。  祭囃子の音が正一と依峰を飲み込んでいく。  大きな鳥居の前に立つと、かがり火が巨大な二体の蛇の石像をぼんやりと浮かび照らしていた。  鳥居の前で、依峰が足を止める。正一も立ち止まった。  太鼓の重く固い音が腹に響く。鈴の音と、低い神楽歌。琴の音が冷えた空気を震わせる。  首をもたげた蛇と目が合った気がして、思わずぞくりと背筋が震えた。ゆらめくかがり火が青白く光った気がする。 「……」  依峰は動かない。ぼんやりとかがり火に照らされて夕闇に揺らめく石畳を、ただじっと見下ろしている。  その時、ふと正一は鳥居の奥を見た。  なぜそうしたのかは分からない。ただ、その瞬間、神楽殿の方を見つめた。  民衆たちがずらりと舞台の前に並び座り、頭を垂れて祈りを捧げている。かがり火がその背を暗く濡らすように照らし、影を濃くしている。  宵の雪の中、拝む民衆たちの中心に白銀が見えた。  はっと息を飲んだ。  音が遠くなり、匂いが消える。  翻るその銀から、目が離せない。  気がついたら、足を踏み出していた。蛇の石像の前、そして、鳥居――。 「正一」  依峰の声が聞こえた気がした。振り返ると、依峰が鳥居の向こうにいる。  雪風が吹き、正一の頭から笠が落ちた。依峰は落ちた笠を静かに見つめ、やがてそっと拾う。  ため息をついた依峰が笠を正一に被せようとして、手を止めた。正一の髪を目を細めて見つめ、やがて笠は自分の頭にやる。  ぼんやりとその様を見つめて、自分の髪に触れた。その瞬間、不思議なことに気がついて首を傾げた。  笠を被っていないのに、髪は雪に濡れていない。まるで、雪が正一に触れることを恐れているようだった。  何かが自分の体にまとわりついているような感覚を覚える。見えない何かに引かれて、正一は神楽の方を見た。  宵の雪の中で舞っていた白銀が、いつの間にか静止してこっちを見ていた。 「あ……」  心臓が止まる。  紫の水晶が、じっと正一を射抜く。聞こえるはずがないのに、その口が薄く開かれて、 「……来い」  と言ったのが、分かった。  一歩、足を踏み出す。  その瞬間、雪が止んだ。  一歩一歩踏み出すごとに、体から感覚がなくなっていく。自分が歩いているのか、それとも石畳がひとりでに正一を運んでいるのか、分からない。  かがり火の炎が勢いよく燃え上がり、青白くその色を変えた。低頭していた人々がわずかに顔を上げて正一を見た後、静かなざわめきと共に道を開けていく。 「おお……」 「神婚じゃ……」 「伴侶様が……」  感嘆の声、咽び泣く声、息を飲む音。それら全てを遠くに置き去りにして、正一は神楽殿へ登壇した。  目の前に、そびえるように白銀の男が立っていた。  長い銀の髪。雪に溶けるような白い肌。体は雄々しく逞しいのに、なぜか命の熱を感じない。  正一を見つめる紫の瞳は、瞳孔から中心に花弁のような模様が広がり、妖しく光っている。  取り憑かれたように男を見上げる。男がわずかに、眉根を寄せた気がした。けれども、次の瞬間にはまた色を失った。  男の指が頬に添えられる。  ひやりとした感触に、頭のてっぺんが痺れるような感覚がして息を飲んだ。  紫の瞳に、正一の顔が映っている。いつもより幼く見えるその姿に、胸の隅で眠っていた何かがことりと音を立てた気がした。   「……やっと――」  掠れた呟き声が聞こえた気がした。しかし、空気の震えたようなそれは、もしかしたら聞き間違いだったのかもしれない。    男の顔が近づいてきて、さら、と揺れる銀髪が頬をくすぐった。  目を閉じると、そっと唇に冷たいものが触れる。  その瞬間、なぜか涙が一筋流れた。  胸の奥が静かに騒ぐ。  冷たいはずの唇が、熱をもっているようだ。  閉じた瞼の向こうに、幼い子どもの声が聞こえた気がした。    

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