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第22話「太鼓の音」
冬斗は自分の足元をぼんやりと見つめていた。
がた、がた、とバスが揺れて、前髪が揺れる。眼鏡がずれそうになっても、もう直すのも億劫だ。
今朝の母親とのやりとりを思い出す。
『ちょっと、冬斗! あんたすごい顔よ!? もう今日は休みなさい!』
起きてきた冬斗の顔を見るなり、死人でも見たような顔をした母親に、首を振った。
『いや……大丈夫。行くよ』
『でも、そんなフラフラで――』
『行くよ』
母親の言葉を遮って、朝食が用意された食卓についた。味噌汁と卵焼き、白米を何口か口に運んで、箸を置く。
『冬斗、お前……』
向かいに座った祖母が目をすがめた。冬斗は席を立ち、そのままリュックを背負って家を出た。背後から、母親の『ちょっと、何かあったらすぐ連絡しなさいよ!』という声が聞こえた。
冬斗はうつらうつらとしながら、バスに揺られる。
目を閉じれば、宵闇に揺れる青白い炎がまぶたの裏にちらつく。
やがて、バスが停車した。ふと顔を上げて、ゆっくりとバスを降りて行く。
白い雪を踏み締めて、鳥居の前に降り立つ。
冷たい空気が肺に流れ込んでくる。朝の白い光が長い前髪越しにしみた。
人々のざわめきが遠く聞こえる。
朝日の中で見る鳥居は、雪を被り少し古びている。首をもたげた二体の蛇の石像たちは、雪に包まれて静かに眠っているように感じられた。
かがり火は当然無い。境内には出店が出ているようで、準備をする声や音で賑わっている。
冬斗はやっと深く息をつけた。
鳥居の前で佇む。
石畳は朝日を浴びて柔らかく温かみがある。それでも、足を踏み出すことができない。
無意識に、髪を触った。
「お、冬斗!」
その時、境内の方から明るい声がした。駆け寄って来る伊織の姿に、膜で覆われたように重かった心がわずかに動く。
「冬斗、おはよ。……ってお前どうした、ひでえクマだな!?」
ギョッとして眉を寄せる伊織の顔に、なんだか泣きそうになった。
「おはよー! ……え、冬斗、大丈夫っ?」
伊織を追いかけてきた茜も幽霊を見たような顔をする。
「ちょ、ちょっとこっち来いよ」
伊織に腕をつかまれて、ぐいと引き寄せられた。その瞬間、鳥居を跨ぐ。耳鳴りがした気がして息が震えた。
「担任呼んでくる!」
茜がばたばたと走って行く。
「え、俺、そんなやばい……?」
掠れた声で問うと、伊織が引いたように頷いた。
「目元は相変わらずあんまし見えねえけど、なんか血の気ねえぞ。唇も土みてえな色してるし」
「ええ……」
伊織に顔を覗き込まれて、俯く。確かに、なんだか体が重くて視界が揺れている気がする。
すぐに茜が担任を連れて戻ってきた。担任は冬斗を一目見て顔をしかめる。
「遠月。今日は帰った方が良いんじゃないか。親御さんに連絡するから……」
「いえ、良いんです」
きっぱりと告げると、担任が息を飲んで、その後ゆっくりとため息を吐いた。
「じゃあせめて、休んでいけ。向こうに休憩用の特設テントあるから。休んでも体調が良くならなかったら、親御さんに迎えにきてもらうからな」
「……」
「遠月」
「……はい」
頷くと、担任がふぅ、と息を吐いて、「伊織」と呼んだ。
「遠月のこと、付き添ってくれないか。お前ら仲良いだろう」
「もちろんすよ」
伊織に肩を支えられる。
(え、俺って本当にそんなやばそうなん……?)
何回か足をもつれさせながら、伊織に支えられてテントまで歩く。
「ちょっとそっち持って」
「え、遠月大丈夫ー?」
「あ、それ落とさないで!」
「これここで合ってますか?」
ざわめきが通り過ぎて行く。その声の一つ一つに安心しながら、冬斗は重い足を運んだ。
テントは思っていたよりも現代的で広く、ドーム状に屋根と側面に白い布が張られている。床にはブルーシートが敷かれていて、中には石油ストーブとベンチ、毛布が置いてあった。
ネームプレートを下げた老婆が冬斗たちに気がつき、ゆっくりとパイプ椅子から腰を上げる。担任と老婆が話している横で、伊織に床に寝かせられた。
「……冬斗、お前、寝れてねえんだろ」
「……そんなこと、ないよ」
まぶたを閉じる。かがり火がちらつきそうになり、またすぐに目をわずかに開いた。
心配そうにこっちを見下ろす伊織の顔が見える。
黒色じゃなくて、焦茶色の髪が朝日に透かされている。琥珀色の瞳が冬斗を映していた。前髪が長くて、眼鏡をかけている少年の顔が映っている。ちゃんと、自分だ。
「伊織……ありがとう」
「いや俺なんもしてねえから。……良いから、お前は休んどけって」
『礼を言われることなんてしていない』
伊織の言葉に、翳がかった男の顔が浮かぶ。息が止まった。
「――悪いな、伊織。お前も炊き出しでやることあるだろ。もう行っていいぞ 」
老婆と話し終えた担任が伊織に声をかける。伊織は担任を振り返りながら首を振った。
「俺、心配なんでいますよ」
「いや。あとは宮原さんに任せたから、安心しろ。お前はちゃんと手伝ってこい。な?」
「……うす」
後ろ髪引かれるようにこっちを振り返りながら、伊織はしぶしぶテントを出て行く。その背中をぼんやりと見つめた。
「――じゃあ、遠月。先生、ちょくちょく見に来るけど、何かあったら宮原さんに言うんだぞ。……宮原さん、すみません、よろしくお願いします」
担任の声にわずかに頷いていると、担任が宮原さんに頭を下げて出て行く気配がした。
ジジ……、と静かな石油ストーブの駆動音と、遠くに聞こえる準備の音。
宮原さんは冬斗の近くにストーブを移動させ、「気持ち悪くなったり、何か変だったらすぐに言うんだよ」と毛布をかけてくれた。
毛布をかけられて、初めて自分が寒かったことに気がついた。
お礼を言って、白い天井を薄目で見つめる。そのうち、まぶたが重くなってきて、何度も意識が沈みかける。
沈みかける度に、はっと浮上する。
眠い。眠くてたまらないのに、眠るのが怖い。
ふわふわと、意識が明滅する。ふと、誰かがテントに入ってきた気配がした。宮原さんと何か話していると思ったら、気配が近づいて来る。
その瞬間、ふわりと肩まで温かくなった。毛布を肩まで引き上げられたのだと思う。そして、衣擦れの音がして、心地よいわずかな重みと温かさを感じる。
――寒くないか。
そう聞かれた気がした。聞き慣れた、低い声。
――うん……寒くないよ。
そう答えると、すぐそばにある気配が小さく揺れた。
胸に心地よい重みを感じた。その瞬間、呼吸が楽になる。とん、とん、と優しく胸を叩かれて、一気に体から力が抜けた。意識がどんどんと白く沈んでいく。
もう、かがり火は見えなかった。
◆
かすかに話し声が聞こえてきて、冬斗はゆっくりとまぶたを開けた。
白い天井。ぼうっと声の方を見ると、ベンチに座っている四人の姿が見えた。
「お、起きたか」
「おはよ、冬斗。体調大丈夫ー?」
伊織と茜が心配そうに覗き込んでくる。
「あれ、今、なんじ……」
「今十二時半くらい。昼休憩中だよ」
「え?」
茜の言葉に、目を丸くして慌てて体を起こした。
「お、俺、寝てた……?」
「ぐっすり眠っとったよ」
穏やかな老婆の声に後ろを振り返ると、宮原さんが座って冬斗を見ていた。
「あ、すみません、ありがとうございます……」
目を丸くすると、体に毛布の他に何かかけられていることに気がついた。
「あ……」
見覚えのある黒いコートに一葉の方を見ると、一葉がやわらかく微笑んだ。
「ありがと……」
コートをぎゅっと握る。
「あ、じゃああたし冬斗の分の芋煮持って来る」
「おう。あ、冬斗、焼きそば食えよ」
茜が立ち上がってテントを出て行く。伊織から焼きそばのパックを渡されて、目をしばたたかせた。
「え、良いの」
「当たり前じゃん。腹減ってないかもしんないけど、とりあえず食べられるだけ食べろよ」
「あ、ありがと……」
「それならこっちに机あるから、持ってきなさいな」
宮原さんの言葉に、一葉が立ち上がって机を冬斗の前に置く。鈴音も一緒に手伝っている。
「み、みんな……ご、ごめん。ありがと」
「なんで謝ってんだよ」
「そうですよ。冬斗先輩、別に悪いことした訳じゃないのに」
伊織と鈴音の言葉に、胸がぎゅっとあたたかくなった。
「お待たせ〜! はい、冬斗。熱いから気をつけてね。あ、これおしぼりとお水」
テントに戻ってきた茜から、使い捨て容器に入った芋煮を手渡される。使い捨てのおしぼりと紙コップに入った水も置かれて、冬斗は所在なげにもぞもぞした。
「あ、ありがと……」
もう今日で何度もお礼を言っている。気まずいのに、胸があったかくてくすぐったい。
あたたかい湯気といっしょに、味噌のいい香りが立ちのぼってくる。ほっと息をついて、おずおずと割り箸を割った。
しかし、困ったことにすぐに眼鏡が白く曇ってくる。昨日、曇り止めスプレーをしたのだが、防ぎきれなかったようだ。
眼鏡を外しても前髪で隠れて、目はそんなに見えないかもしれないが、やっぱり少し不安が残る。
どうしようかと悩んで手を止めると、すっと向かいに誰かが座った。
「あ……」
白く曇りかかったレンズに映ったのは、一葉だった。みんなの姿が見えない位置に座っている。一葉は高身長で体格が良いから、冬斗の向かい側に座ると、ほとんど冬斗の姿が見えなくなるだろう。
「ありがと……」
こそっと、一葉にだけ聞こえるように言うと一葉は静かに微笑んだ。冬斗は曇った眼鏡をそっと外して、芋煮に箸をつける。
一葉はスマートフォンをいじったりする訳でもなく、机に片腕を載せて、こっちを見ている。
「そ、そんなに見るなよ……」
にこにことこっちを見つめる一葉に、食べにくくて苦情を漏らすと、一葉が「ごめん、ごめん。冬斗が一生懸命食べるところが可愛くて」ととんでもないことを言う。
芋煮が変なところに詰まりそうになり、慌てて水で流し込む。
一葉の方を見ると、微妙に視線を外してくれている。
「……一葉は、食べないの?」
おそるおそる、訊いた。
「……んー、どうしようかな」
「腹、減ってない?」
「そんなことはないけど」
「じゃあ、食べろよ。俺、焼きそばもあるし、全部食べれる気しない」
「じゃあ、冬斗が残した分、もらおうかな」
ほっとして、胸を撫で下ろした。
その後、一葉が冬斗からもらった焼きそばや芋煮に手をつけてるのを見て、不思議と穏やかな気持ちになった。
「冬斗先輩、良かったら、これどうぞ」
食事を終えて眼鏡をかけると、見計らったように鈴音が近寄ってきた。ふわり、と柔軟剤のような良い香りと、さらさら揺れる栗色の髪の毛に、おお……と感心する。
(少女漫画の主人公すぎる)
可愛い。正直、今こうして同じ空間にいること自体が恐れ多いくらい、鈴音は圧倒的に可愛い。
一葉にじゃなくて、自分に声をかけてくるなんて珍しい。どうしたんだろうか、と困惑すると、袖に半分埋もれた華奢な手が差し出された。
手を出してみると、個包装されたタブレットが置かれる。
「ラムネです。ブドウ糖、元気出るかもしれないと思って」
「え……あ、ありがとう。い、良いの?」
「たくさんあるんで、気にしないでください」
微笑む鈴音の顔を呆けて見つめた。
まさかこんなことをしてくれるなんて思っていなかった。
差し出されたタブレットをぎゅっと握りしめる。
「……ありがとう」
胸がズキズキと痛んで、俯く。なんで胸が痛いんだろう。
それに以前の自分だったら、弱ってる時にこんな可愛い子に優しくされたら、きっと間違いなく好きになってしまっていた。
でも、今はありがたいと思いこそすれ、熱がはやることは無い。それも不思議だった。
「一葉先輩、お昼足りてますか? 良かったら、私たくさんもらってきたので、食べたいものあったら言ってください」
鈴音が一葉に声をかける。鈴音たちが座るテーブルの方を見ると、確かにテーブルを埋め尽くす勢いでいろいろな食べ物が並べられていた。焼きそば、芋煮、ポテト、肉巻きおにぎり、串盛り……。
豪勢だな、と見ていると、茜が「全部鈴音のよ」とさらっと言った。
「えっ!?」
意外すぎる。鈴音は照れくさそうに俯いた。
「俺はもう大丈夫だよ。ちょくちょくいろんなのつまんでるし」
「あ、そうですか……」
少し残念そうに言った鈴音は、テーブルに並んだ食べ物をもくもくと食べ始める。
あんな細い体のどこに入るというのだろう。
「鈴音、この後神楽なんでしょ。そんなに食べて大丈夫なの?」
「うん。むしろ、神楽あるから、たくさん食べなきゃ」
その時、ふと、テントの外でちらりと白い雪が見えた。
「降ってきたな」
伊織が外を見てため息をつく。
みんながテントの外を見て、表情を曇らせるのを見て、冬斗はぎゅっと膝の上で拳を握った。
ふと、何かに引かれるような気がして、一葉を見た。
みんなが外を見ている中、一葉は冬斗だけをまっすぐに見ていた。
――どこからか、太鼓の音が聞こえ始める。
一葉の黒い目を見つめ返す。
その口が、ゆっくりと動いた。
「始まるね」
氷のように美しい顔で微笑む一葉から、目が離せなかった。
――炎が、まぶたの裏でとぐろを巻くようにうねった。
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