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第26話「守るよ」

 母親の声で、目が覚めた。  時計を見ると、もう登校時間が迫っている。  慌てて体を起こすが、白蛇祭の時のことを思い出して体が固まった。  布団を引き上げる手が止まって、息が苦しくなってくる。  ────行きたくない。  久しぶりの感覚だった。けれど、今までに経験してきたよりも、もっとずっと苦しい。  布団の上で固まっていると、ドアがノックされた。 「……冬斗?」  母親が心配そうにドアから顔を覗かせている。 「……今日、休む?」  母親の顔を見て、ぐっと唇を噛んだ。罪悪感と情けなさが込み上げてきて、思わず頭を振る。 「ううん。……行くよ」  重い体を動かして、ベッドから降りる。制服に袖を通し始めると、母親は何か言いかけたが、口をつぐんで「朝ごはん、できてるからね」とドアを閉めていった。  パタン、という軽い音。  祈るように深く息を吐いて、目を閉じた。  全身鏡を見ると、長い前髪の隙間から紫の目が覗く。  拳を振り上げて、ぴたりと止まった。そのままのろのろと手を下ろして、力無く制服を着替え終える。  一階へ降りると、朝食が用意されていた。母親はバタバタと仕事の用意をしている。祖母はゆっくりと焼き鮭を食べていた。 「……冬斗、お前、何かあったね」  冬斗は味噌汁を飲み、卵焼きに手をつけた。 「ばあちゃん。別に、何もないよ」 「まさか、目を見られてないだろうね」  どくり、と心臓が跳ねる。  ぴた、と箸が止まった。  祖母の顔を見ないまま、小さく頷く。 「冬斗、本当に無理してない?」  その時、母親が食卓についた。冬斗は静かに胸を撫で下ろして、「うん」と返事をした。 「まあ、何かあったら言うよ」 「……そう」  母親と祖母がこちらを窺っている様子に耐えられなくなり、冬斗は急いで朝食を詰め込んだ。  あまり食欲はなかったが、昨日も残してしまったし、今日は残したくなかった。  のろのろとバス停に向かうと、バスの時間は過ぎているのに、一葉がいた。 「えっ……」  黒いコート姿を見つけて、思わず声が出る。  すると、一葉がこっちを見た。  心臓が波打つ。  黒い夜の瞳が細められる。 「おはよ」  その瞬間。  白銀の髪が揺れた気がした。  紫の瞳。神楽殿。雪の中で舞う白銀。  ────鈴音に差し伸べられた手。  ただ、それらは一瞬で霧散して、冬斗はすぐに我に帰った。   「なんで……」 「寝坊した」  そう言って笑う一葉に、昨日の神楽の影はない。  白銀の髪でも、狩衣姿でもない。  いつも通り優しい表情をしている。神楽を舞っていた時の、あの恐ろしいほどの静謐さはない。 「ぜ、絶対嘘じゃん……」  マフラーを引き上げて言うと、一葉は曖昧に笑った。 「……眼鏡、違うのにしたんだ」 「あ……うん、スペア。昨日のは……壊れちゃったから」  昨日のことを思い出して、うつむく。  こっちを見る、大勢の目。驚き、恐怖、好奇。  針のむしろとはああいうことを言うんだろう。  思い出して、胸が痛くなる。 「そっか。眼鏡、残念だったね」 「……おう」  眼鏡なんてどうでも良かった。  上の空で返事をする。 「……あのさ。学校、行きたくない?」  一葉の言葉にどきりと心臓が鳴った。落ち着きかけていた心臓が、また嫌に忙しなくなる。  マフラーに顔を埋めた。 「……や、別に」  じっと見つめられる。目を伏せた。  ぎゅっとズボンを握って、小さく震える息を吐く。 「……ちょっと」  すると、手を優しく取られた。 「えっ」  驚くと、一葉が優しい顔でこっちを見下ろしている。 「行こうか」  綺麗な笑みに目を奪われていると、手を引かれた。我に帰って「ど、どこに?」と慌てると、一葉が振り返った。 「うち、今日菊乃さんいないんだよね」 「え、ええ……!?」  それはつまり、そういうことか。  繋がれた手を思わず見る。顔が熱くなってきた。 「気になるなら、学校は午後からでも行けば良いんじゃない?」  ね? と優しくうながされて、とっさにぎこちなく頷いた。 「あ、あのさ……」 「ん?」  繋がれたままの手を見る。次に、一葉の顔を見て、また目を逸らした。マフラーで顔を隠す。   「……いや、なんでもない」  触れているところが、火傷しそうなほど熱かった。  ◆ 「お、お邪魔しまーす……」 「どうぞ」  恐る恐る玄関に靴を脱ぐ。  見慣れてきた、一葉の家の玄関。相変わらず丁寧に手入れされていることがわかる、温度のある家にほっと息を吐く。 「菊乃さん、今日、なんでいないの? いつも、仕事は家でしてるじゃん」 「今日は町の呉服屋に行ってる」 「ああ……」  菊乃さんは普段、家で和裁の仕事をしている。だからいつも家にいるはずなのだが、今日は町へ出ているらしい。  廊下をまっすぐ進んで居間の前を通り、二階へ進む。階段に足をかけると、ギシ、とわずかにきしむ音がした。 「お、お邪魔します……」  一葉の家のドアを通る前に、軽くお辞儀をする。すると、石油ストーブをつけていた一葉がおかしそうに笑った。 「何回も言わなくていいよ。お邪魔じゃないし」 「あ、おう……」  頷いて、いつものように机の前に座る。一葉の家には何度か来ているが、今日は家に菊乃さんがいないというだけでなんだかそわそわする。 「煎茶と紅茶あるけど、やっぱり紅茶がいいかな」 「あ、うん」  一葉は一階に降りていく。  ほっと息を吐いた。  改めて、一葉の部屋をぼんやりと眺める。  ジジ、と小さな音を立てる石油ストーブ。木製の衣装箪笥に、ローテーブル。シングルベッド。勉強机。それ以外は驚くほど何もない。着替えやら推しグッズやらが散らばった冬斗の部屋とは大違いだ。  ふと、勉強机に開かれたままの本が気になった。  立ち上がって見てみると、そこには白泰村の歴史のようなものが書かれている。  (なんか、意外だな……)  一葉がこういった本を読んでいることが不思議で、思わずその本に手を伸ばした。 「冬斗、お待たせ」  その時、一葉が戻ってきて、はっと手を引っ込めた。 「あ、お、おかえり」 「ミルクと……砂糖は一つだったよね」 「うん」  いそいそと机の前に戻り、マグカップを受け取る。少し熱めの温度は冬斗の好みにぴったりで、ふっと口元が緩んだ。 「寒くない?」 「うん。大丈夫。ストーブ、あったかいし」 「良かった。毛布もあるからね」 「ありがと」  一葉はいつも優しいが、今はなんだか余計に沁みるものがあって冬斗はマグカップをぎゅっと握り込んだ。 「……ありがとう」  もう一度、震える息と共に礼を言う。  一葉が静かに微笑んだ。  冬斗はちらりと一葉の机の上の本を見た。 「……もしかしてさ」  そっと目元に手を当てる。 「この……紫の目って、村で不吉だ、とか言われてたりする?」  そう言うと、一葉がわずかに目を見開いた。  冬斗の顔をじっと見た後、ゆっくりと首を振る。 「そんなことないよ」 「で、でも、それにしちゃ、みんなの反応が……」 「冬斗」  優しい、けれどはっきりした声。  向かいに座った一葉を見上げる。  黒い目と目があった。いつもみたいに優しい顔。でも、その目の奥はいつもよりも真剣に見えた。  一葉が薄い唇を開く。 「俺は、何があっても冬斗の味方だよ」  心臓がひときわ大きく波打った。  思わず一葉を見つめる。  切れ長の黒い目は、冬斗をまっすぐに映している。 「────冬斗の目が」  一葉はやわらかく笑う。 「紫でも黒でも、虹色でも、好きだよ」  は、と変な息が喉から漏れた。  マグカップを持つ指先が震える。 「に、虹色はねぇだろ……」  咳払いをすると、一葉が手を伸ばしてきた。 「ひゃっ……」  驚いて肩をすくめると、眼鏡がそっと外される。  長い指で前髪を避けられて、視界が開けた。 「でも、俺はこの目、やっぱり好きだけどね」  そう言って、一葉は紫の瞳を覗き込むように目を細めた。 「なっ……」  心臓が口から飛び出そうになる。  一葉の夜の目に、冬斗の間抜けな顔が映っている。  ぱくぱくと意味もなく口を開閉させて、目を見開いたまま一葉を見つめる。 「あ、ほら、綺麗」  嬉しそうに笑う一葉に、冬斗は慌てて前髪を戻した。  一葉は残念そうにするが、こちらはそれどころではない。 「冬斗、すごい顔になってるよ」 「だ、誰のせいだよっ」 「ごめん。思ったこと、言っただけなんだけど」  一葉が笑いながら頭をぽんぽんと撫でてきた。 「だっ、だから、そういうの!」 「ああ、これもか。ごめんごめん」 「絶対悪いと思ってねえだろっ」    思わず声を荒げると、一葉がそっと手を離してひとしきり笑った後、静かに微笑んだ。 「……良かった。いつもの冬斗だ」 「え……」  目を瞬かせると、一葉がやわらかく微笑んだまま、立ち上がった。 「じゃあ、寝る?」 「は、はあ!?」  一葉はベッドに腰掛ける。  ぎょっとして、思わず口に手を当てた。 「え、いっ、一緒に……!?」 「え」 「え?」  一葉がきょとんとした。 「寝不足かなと思って。クマ、すごいし」 「あ、ああ……」  一気に脱力した。なんだ。驚いた。  早とちりをしてしまった自分が猛烈に恥ずかしい。  呼吸を整えるために、ふぅ、と息をつくと、一葉がとんでもないことを言った。 「一緒に寝て良いの?」 「い、良い訳あるかっ」  速攻でツッコミを入れると、一葉が笑って「なんだ」とこれみよがしに残念がった。 「お、男同士だしおかしいだろ!」 「男女のほうがまずいと思うけど」 「あ、確かに」 「そこ、納得するんだ」  一葉が吹き出した。さっきからずっと心臓がうるさいし、顔が熱い。 「はい、じゃあ寝不足さんは寝ようね」  一葉がぽんぽんとベッドを叩く。 「こ、子供扱いすんな」 「うん。ごめんね」  不服に思いながらも、このままだと一葉にベッドまで強制的に運ばれそうな気がしたので、しぶしぶベッドの方へ行く。 「……今日の一葉、ちょっと意地悪だ」  むすっと言うと、一葉が目を細めた。  冬斗は布団を被る。 「……ね、寝る」 「うん、おやすみ。学校には連絡しておいたから、ゆっくり寝て良いからね」 「お、お前は俺の母ちゃんか」  胸がうるさく高鳴っている。一葉の気配を敏感に感じ取っている自分がいて、とてもじゃないが寝られる気がしなかった。    布団から一葉の匂いがする。  ふと、体から力が抜けた。    (寝たら……また、夢見るのかな……)  だんだんと心臓が落ち着いてくる。  今度は眠ることへの不安に体を硬くしていると、トン、トンと布団を優しく叩かれた。  子どもじゃない。  そう言いたかったが、気がついたらあっという間に睡魔が降ってきて、冬斗はゆっくり目を閉じた。 「……冬斗は、俺が守るよ」  低くて、心地よい優しい声。 「……うん」  うとうととしながら、頷いた。 「……ゆっくり眠りな」  むにゃむにゃと返事をしたような気がする。  紫の目がみんなに見つかってしまったこと。  これからの生活がどうなってしまうのか。  心の奥の黒い塊は消えない。  それでも、この部屋だけは苦しくなかった。 「おやすみ……」  一葉の声を最後に、冬斗はいつの間にか、まどろみの中へ沈んでいった。  夢も見ずに、久しぶりにぐっすりと熟睡できた。  

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