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第29話「言っただろ?」
翌日、バスに乗ると、明らかに空気が変わった。
乗り込んだ瞬間、何人かの視線がこちらを向いて、すぐに逸らされる。見間違いじゃない。覚えのある嫌な感覚に、ちりちりと胸が痛くなった。
「あれってさ……」
「見ちゃダメって……」
女子たちのひそひそ声が耳に入る。佐久間さんはバスに乗っていないのでほっとしたが、それでもみんなが自分を見ているような気がして、息が苦しくなる。
そそくさといつもの席に座る。ふぅ、と深呼吸をして、リュックを膝の上に乗せる。リュックに顔を埋めた。
やり方は慣れている。大丈夫。東京にいた時と同じ。なるべく気配を消して。なるべく静かに。聞こえないふりをする。見えていないふりをする。そうすれば、そのうちみんな飽きる。
ぎゅっと目をつぶっていると、隣に一葉が座る気配がした。その瞬間、ふわ、と呼吸が楽になった気がする。
それでも顔を上げられないでいると、手がぎゅっと何かに包まれた。
視線を落とすと、左手を握られていた。
思わず顔を上げると、一葉の優しい顔が目に入る。
息を飲んだ。冷えていた指先が、一気に熱くなる。
「大丈夫」
こそっと耳元で囁かれる。耳のふちがじりじりと熱を持った。
なんで俺は手袋をしてるんだろう、と思った。そう思ってから、そんな自分が信じられなくなる。
特に会話はなかった。リュックに顔を埋めながら、窓の外を見ると積雪が通り過ぎていく。
いつまでも、つないだ左手の感覚だけを敏感に拾っていた。
◆
一葉の後ろに隠れるようにして教室に入る。すると、教室が一瞬静かになった気がした。
じっとりと、首の後ろがちりちりとひりつく感覚がする。
沈黙は一瞬で、すぐにさざなみのように話し声が戻っていく。
けれども、やっぱり顔は上げられない。
「冬斗」
不意に聴き慣れた声がした。おそるおそる顔を上げると案の定、伊織がいた。
「おはよ」
いつも通りの、伊織の明るい笑顔。後ろでは茜と鈴音がこっちをそっとうかがっているのが分かった。
ほっとして挨拶を返そうとした時。
「……伊織」
近くにいた男子たちが、こそっと伊織の腕を引いたのが見えた。伊織は眉をひそめる。伊織の腕を引いた男子は、変にへらりと笑って、伊織を引きずるように連れていく。伊織は一度こっちを振り返って何か言いたげな表情をしたが、結局口をつぐんで男子たちに着いて行った。
茜と鈴音が息を飲む。冬斗が茜たちを見ると、気まずそうに視線を落とした。
胸の奥が、すうっと冷えていく。足元が崩れていくような錯覚。
遠巻きに、冬斗をちらちらとうかがう生徒たち。
茜は苦しそうな顔で唇を噛んでいる。鈴音も何か言いたそうに何度かこっちを見ていた。廊下では、伊織の少し怒ったような声が聞こえてくる。
────大丈夫。大丈夫。
胸を押さえて心の中で唱える。
────慣れてる。だから、大丈夫。
それでも。
はあ、と息が震えた。
────最初から、冷たいだけなら良かったのに。それなら、こんなに痛くて辛い思いをしなかったのに。
その時。
「座ろ、冬斗」
凛とした低い声がした。
ざわめきがぴたりと止む。顔を上げると、一葉が優しく笑っていた。
みんなが一葉を見ている。誰も何も言わない。一葉の一挙手一投足に集中しているのがわかる。冬斗は一葉に手を引かれて、静まり返った教室を歩く。
「……どうしたの、みんな。今日、静かだね」
席に座った一葉が静かに告げると、とたんに生徒たちがぎこちなく話し始めた。
「あ、あー……。いや、ねぇ……? あはは」
「な、なあ、今日の音楽の課題終わった?」
「てかさ……」
再びざわめきが戻る。生徒たちはまるで龍の逆鱗に触れまいとする小鳥たちのようにさえずっていた。
誰も、もう冬斗のことを見ていなかった。
冬斗は細く震える息を吐いた。
「一葉」
こそっと、一葉に小声で話しかける。
「ん?」
声をかけられた一葉はどこか嬉しそうにこっちを見ていた。
「ありがと……」
小さくつぶやくと、一葉が目尻を下げた。
「言っただろ?」
「あ……」
────『俺が冬斗を守るよ』。
一葉の言葉を思い出す。あの時触れられた肩が熱くなった気がした。
一葉が優しく笑っている。窓からさす朝日が、一葉の黒髪の輪郭をやわらかく照らしている。切れ長の目が、冬斗をまっすぐに見つめていた。
見慣れたはずの笑顔なのに、突然知らない顔のように見えた。
冬斗は大きく早鐘のように鳴る胸に戸惑いながら、その笑顔から目を逸らせないでいた。
もう、周囲の生徒たちのことは意識から消えていた。
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