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第31話 「影(1)」
その日の夜。冬斗は、いつにも増して深く夢に潜っていた。
正一は縁側に座っていた。目の前には、雪化粧がされた庭園と池がある。やわらかい日差しが山肌から漏れて正一たちをあたためてくれていた。
「あ、あの……」
「なんだ」
正一はおずおずと眼下のシキに声をかける。正一の膝に頭を預けて横になっているシキが目を開けずに答えた。
「その……心地は、悪くありませんか」
「悪くないからこうしている」
「……さようですか」
シキがじろりと正一に目をやった。紫の目が雪あかりに光る。
「砕けて話せと、何度も言っているだろう」
「め、滅相もございません」
正一は顎を引いた。今だって、こうしていることでさえ恐れ多いのだ。
すると、シキはそんな正一をじっと見つめて、目を閉じた。
「ならばこれは命令だ。砕けて話せ」
「…………は、はい」
ごくりと唾を嚥下した。シキは目を閉じて静かに横になっている。銀髪は太陽の光に照らされて輪郭が雪景色に溶けている。長い髪は縁側に垂れて、白い肌が日に照らされている。豊かなまつ毛がそよ、と微風に揺れる。
美しい、と思った。
神楽の夜に見初められてから、もう数ヶ月が経っていた。それでも、見るたびに人ならざる美しさには魅入ってしまう。
すずめが一匹、庭に迷い込んできた。ピチチ、と小さくて愛らしい声で鳴く。冬毛でふわふわと丸いすずめは、挨拶をするようにシキと正一の近くにやってくる。
シキをじっと見つめた後、すずめは飛び去っていった。
これはこの数ヶ月で分かったことなのだが、シキは山の生き物に異様に好かれる。好かれる、というより畏れられている、といった方が近いかもしれない。
決してシキには触れないが、鳥や獣たちはシキに敬意を払うように挨拶をする。そして、シキはそれを当然のこととして受け止める。
正一はこの数ヶ月で、シキが人ではないことを痛感していた。冷たい体温。遅い鼓動。獣たちの畏れ。それでも今は、その全てが当たり前になりつつある。
「……あれは、気に入ったか」
不意に、目を閉じていたシキがぼそりと言った。
あれ、とは。と一瞬考えて、すぐに思い当たる。
「こんぺいとう、のことでござ……んん、……こんぺいとうのこと、ですか」
「普通に話せ」
「……こんぺいとうの、こと?」
シキが正一に目をやる。続きを促されている。
「……すごく、うまかった」
「そうか。ならば次も用意させよう」
またシキは目を閉じる。
小鳥の鳴き声。遠くで子どもの声が聞こえた気がした。
雪に囲まれているのに、不思議と寒くない。
正一は膝で休む男を見下ろした。
「……あの。そんなに、俺にかまわないでください」
小さくつぶやくと、シキがちろりと正一を見る。
「最近、城下町では物乞いが出てきていると聞きます。……俺が食べるくらいなら、その人たちにあげたい」
「それを決めるのは俺だ。俺は正一、お前にやると決めている」
正一はぐっと唇を噛んだ。
「でも……」
「白泰にはもうすでに加護を授けている。問題はないはずだ」
「そう、ですか……」
正一は口を閉ざした。
けれども、ここ数ヶ月、城下町では治安が良くないと聞く。シキは問題ないというが、では、なぜ────。
正一が表情を曇らせているのを見たシキが、頬に手を伸ばしてきた。ひやりとした冷たさには、もう驚かない。
「……お前が気に病むことではない。民衆たちのことは、あれが治めているはずだ」
あれ、とシキが言うのは、正一の父であり、この白泰の城主、香本正信 のことだ。
白泰は父が立派に治めているはずだ。しかし、もしや……。
「俺は、お前が不自由ないのであれば、それで良い」
正一は小さく息を飲んで、ゆっくり目を伏せた。
ふと、シキの目が熱を帯びた気がした。
あ、と思った次の瞬間には、シキの手がするりと正一の頭の後ろに差し入れられ、緩慢に引き寄せられる。
唇を触れ合わせると、途端に体が甘く疼き始める。この数ヶ月で、すっかり触れ合うことに慣れてしまった。
唇を深く交じり合わせて、ぼんやりと思考が鈍くなっていく。
シキの吐息が熱い。人ならざるほど冷たい体なのに、正一と触れ合う時だけは不思議と熱を帯びる。
情欲の気配に、甘く体を震わせる。
恋人の顔が脳裏をかすめて、正一は仄暗い後ろめたさに胸を痛めた。
「────少し、山に籠る」
行為を終えて、とろとろと敷布の上で気怠い熱の余韻に包まれているとシキが突然そんなことを言った。
「いつから……?」
「明日から三晩ほどだ」
「そう……ですか」
急なことに驚いていると、シキに頭を撫でられた。表情は相変わらず氷のように冷たく見えるのに、手つきはひどく優しい。
「そう不安な顔をするな」
「……不安では、ない」
正一はぎゅ、と唇を引き結んだ。胸の奥に走る熱と、それを追いかけるようにして暗い罪悪感が湧き上がる。
シキの手つきは優しい。紫の目に温度があるように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
◆
シキが山へ籠った次の日。一人で文机の前に座っていた正一は考え事をしていた。
(本当に、白泰は大丈夫なのだろうか)
白泰は雪深い国だが、昔から栄えてきたという。確かに、正一は白泰で暮らしてきて不便さを感じることはあまりなく、貧しい人々も見たことがなかった。それなのに、ここ数ヶ月、なんだか雲行きが怪しい気がしてきていた。
(父上……)
正一は父、正信のことを思い浮かべる。厳格で、幼い頃から優しくしてもらったことはない。それでも、城主としては立派に白泰を治めてきていると思っていた。
正信に確かめるなら、シキがいない今しかない。侍女という名の見張りはいるが、なんとかして正信に会って事の次第を問わなくてはいけないと思った。
頭の中で算段を整え始めると、コンコン、とふすまの木枠が叩かれた。
侍女の言葉を待ったが、ふすまの向こうは沈黙している。不思議に思っていると、信じられない言葉が聞こえた。
「……探し物をお届けに参りました」
聞き慣れた懐かしい声に目を見開くと、ふすまが開けられた。
「よう」
そこに立っていたのは、数ヶ月ぶりに見る依峰だった。
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