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第31話「影(2)」

 依峰の顔を見た瞬間、忘れかけていた記憶がよみがえる。  雪に濡れた石畳。  芝居小屋の裏口。  戸を開けた瞬間に抱き寄せられた腕。  寄せた唇。  ───あの頃は、まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。 「……依峰」  名前を呼ぶと、依峰がにやっと笑った。 「久しぶりだな、正一」 「お前、なんでここに……」  正一が思わず立ち上がるより早く、依峰に力強く抱きしめられた。 「……っ」  久しぶりの依峰の(こう)の匂い。体温。  胸がずきりと痛んで、ぐっと目を押し上げるものがあった。  その体を抱き返そうとして、ぐっと腕を下ろす。 「会いたかった」  吐息と共に告げられた言葉に、胸が斬られたように感じられた。  息が震える。おそるおそる、依峰の胸に手を当ててその顔を見上げた。 「なんで……」 「どっかの主人様が、不在だっていうんでな」  依峰はふっと目を細めた。  数ヶ月しか離れていなかったのに、もう何年も会ってなかった気がする。懐かしいその顔に、ぐっと唇を噛んで、正一は「で、でも……」と口を開いた。 「見張りは……」 「侍女たちのことか? 別に止められなかったぞ」 「……え?」  目を丸くすると、依峰が肩をすくめた。 「俺もいろいろと策を練ってたんだが……拍子抜けだ」 「……なんで」  シキだったら絶対に正一を軟禁して隔離すると思っていた。特に依峰に会う可能性があるのに、こうして自分が野放しにされている理由がわからない。  (なんで……)  墨が一滴垂らされたような、疑問。  シキは、なぜ自分を繋ぎ止めようとしないのだろうか。  正一をまっすぐに見る紫の目を思い出して、思わずぎゅっと胸を握る。 「まあ、なんにせよ運がいい。こうして、またお前に会えた」  そう言って笑う依峰の目が一瞬(かげ)ったように見えたのは気のせいだろうか。  正一は、そこでやっと依峰に自分から手を伸ばした。 「……ごめん」 「……謝るなよ」  依峰が苦笑する。正一はうつむいた。少しの沈黙の後、依峰が正一を覗き込んだ。 「……あれは、お前に惚れてるだろ」 「え」  あれ、というのが何なのか一瞬わからなくて顔を上げる。依峰の顔を見て、察した。 「……」 「……神楽の夜、あんなの見せられたら、誰だってそう思う」  正一が答えられないでいると、依峰が遠くを見ているように呟いた。胸がまた苦しくなる。 「……なあ、まさかあいつに惚れたか?」 「なっ……ま、まさか!」  かっと顔が熱くなって、思わず声を荒げた。依峰は正一を注意深く観察するような目で見下ろす。そして、ふう、とため息を吐いた。 「冗談だ。あんな化け物、好きになるはずないよな」  化け物、という言葉に一瞬息が止まった。依峰らしくない、()れた言い方だ。 「そんな言い方はよせ。……罰当たりだぞ」 「……はっ。罰当たり、ね……。あいつが今、何しているか知ってるか?」 「……なんだよ」  気になって問うと、依峰は低い声で言った。   「脱皮だ」  ひゅっと息を飲む。    脱皮。それではまるで────。 「人じゃない。俺たちとは違うんだ」    依峰の目にはいつもの温かさがない。 「神様ってより、化け物って言った方が似合いだろ」  正一は言葉を失った。脱皮。だから山に籠っているのか。いつもの姿で? それとも……別の姿で?  衝撃を受けている正一を見て、依峰はふぅ、と一息ついて首をかいた。 「だから、好きになりようもないだろ」 「……で、でも、そんな言い方は……」  化け物。シキをそんなふうに言うのは、なんだか胸につっかかりがあった。  そして、なぜ、そんなことを依峰が知っているのだろう?  そう疑問に思った時。 「……やっぱり惚れたか?」  正一を見下ろす依峰が目を厳しくする。  正一は眉根を寄せた後、依峰の額にそっと触れた。そこには十文字の古傷がある。 「……俺が好きなのは、お前だけだよ」 「……ああ」  傷をそっと撫でると、依峰の手が頭の後ろに回って、強く抱き込まれる。 「正一」  名前を呼ばれて上を向くと、口付けられた。 「……っ」  とたんに、ぐぅ、と喉が苦しくなった。とっさに離れようとした腕を取られる。  口付けが深くなる。懐かしい唇の感触に、心が芝居小屋にいたあの頃に戻っていく。  気がつけば、夢中になって抱き合い、口付けを交わしていた。    吐息が漏れる。  ふと、視界の隅に黒い脇息が目に入った。  いつも、シキが腕を預けて休んでいる脇息。  (いびつ)に胸がひしゃげた気がした。 「あっ……」  思わず、依峰を押し返す。離れた唇の間をどちらともわからない糸が垂れる。  はあ、はあ、と正一は肩を大きく上下させて、うつむいた。依峰の胸に手をかけながら、目を見開く。 『お前が不自由ないのであれば、それで良い』  (なんで、今思い出すんだ……)  依峰の胸をぎゅっとつかんで、額をすり寄せる。 「悪い。……性急だったな」 「いや……」  依峰の言葉に、ぐっと奥歯を噛み締めた。  そうじゃない。  依峰は何も悪くない。 「……すまない」  喉から搾り出すように謝ると、依峰が苦笑した。   「だから、謝るなって」 「……ああ」  依峰の顔が見られない。苦しくてどうしたら良いかわからないでいると、依峰に顎をすくわれた。 「正一。もうすぐだ」 「え……?」  依峰の言葉の意味がわからず、まばたきをする。依峰は熱い目で正一を見つめていた。その熱に戸惑う。 「もうすぐ、お前をここから連れ出してやれる」  告げられた言葉の意味が一瞬頭に入ってこなくて、正一はぼんやりとした。  一拍遅れて、「え?」とかすれた声が漏れる。依峰に肩を掴まれた。 「正一。俺はずっと準備をしてきた。もうすぐ、お前をここから連れ出せる。そうしたら、白泰を出て一緒に暮らそう」  語られる言葉が、水のように上滑りしていく。なんとなく何を言っているのかはわかるが、なぜか頭が痺れたようにぼんやりとしている。 「正一、お前の協力が必要だ。わかるか? 間者を忍ばせておいた。その間者から文を受け取れ。時期になったら渡す」  依峰の目が炯々と光っている。その強い光に、思わず息を飲んだ。 「……正一」  名前を呼ばれて、はっとする。依峰は意志の強い目で正一を見下ろしていた。 「……愛してる」  その言葉に、一瞬呼吸を失った。正一は、ぼんやりと依峰の手が頬に添えられるのを見つめる。  頬に触れた手は、温かった。ひやりとした冷たさはない。  正一は、ぐらぐらと足元が揺れる感覚がした。 「できるか?」  問われた言葉に、すぐには頷けなかった。  依峰の目が一瞬揺れる。それを見た瞬間、正一はとっさに力強く頷いた。 「……ま、任せてくれ」  すると、依峰はふわりと笑った。  その顔は、今まで正一が見てきた中でも、一番嬉しそうな笑顔だった。 「一緒にやろう、正一」 「……ああ」 「大丈夫。このために、ずっと準備してきたんだ」  そう言った依峰は、ふと目を伏せた。その目は、正一ではなくどこか遠い場所を見ているようだった。 「……ずっと」  ぽつりと落ちた言葉が、なぜか暗く重たいものに聞こえた気がして、正一は得体の知れないざわめきを胸に感じた。  

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