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第35話「どちらにしても」

 正一は震える指で文を握りしめた。  『化け物を斃せる神器』。  その文字から目が離せない。心臓の鼓動が嫌に早くなる。  ───『神様ってより、化け物って言った方が似合いだろ』。  依峰の言葉が浮かぶ。体から血の気が引いていく感覚がした。  厠の行燈(あんどん)の灯りの後ろに、大きく濃い影が伸びている。  ふと、その揺れる影を見つめるうちに、思い出した。    まだ依峰と出会って間もない頃。  あれはちょうど一年前、年の暮れのことだった。  正信に用件があって部屋を訪ねようとした時、中から話し声が聞こえてきた。  取り込み中の様子にどうしようか逡巡していると、聞き慣れた声が聞こえた。 『……今が好機です……今なら……』  ぼそぼそと話している内容はよく聞こえない。しかし、その声は依峰のものだとすぐにわかった。  無意識に聞き耳を立てる。 『……お前は……として、十分やってくれた。儂は……』  正信のしゃがれた低い声。 『のう……。───影よ』  正信の言葉がやけに耳に残った。  影。何のことだろう、と首を傾げる。 『……俺はもう影ではありません。依峰です』  その言葉だけははっきりと聞こえた。  影。  ───影って、なんなのだろう。  ふと、そんなことを思ったことを思い出した。あのあと、正一は結局踵を返して静かに自室に戻った。  それきりもう思い出すことはなかったが、なぜか今、そのことが頭に浮かんで離れなくなった。    よろよろと厠を出ると、外で待機していた侍女が静かに頭を下げる。  それからどうやって部屋に戻ったかはあまり思い出せない。気がついたら正一は部屋にいた。  早く。  早くこの文を燃やさなければ。    しかし、文を燃やせば、シキを裏切ることになる。  文が届かなかったことにしてしまえばとも思ったが、それでは依峰を裏切ることになる。    ───どちらにしても、自分は誰かを傷つける。  その時。 「正一」  低く凛とした声がして、はっと顔を上げた。  ひどく透き通った紫の瞳と目が合う。 「腹の具合が悪いか」 「い、いや……」  シキは正一のことをじっと見つめる。そして、そっと目を伏せた。 「寒くはないか」 「……うん」  ずきり、と胸が潰れた気がした。袖にある文を、今すぐ引き裂いて捨ててしまいたかった。 「今宵はもう寝ろ。顔色が悪い」  ふわ、と肩に何かがかけられた。見れば、シキの羽織だった。  ぐっとその羽織を握りしめて、絞り出すように「はい」と頷く。  今はもう、泥のように眠ってしまいたかった。  ◆  暗闇の中で目を開けた。  冬斗は久しぶりに汗に濡れていた。額に張り付く前髪を拭う。  何度か深く深呼吸をして、祈るように目を閉じた。  ───眠れた気がしなかった。  無意識にスウェットの裾を握りしめる。そこにはただやわらかい生地の感触があるだけだった。    冬斗はバス停に向かいながら、夢に思いを馳せていた。  頭の中を占めるのは、依峰から届いた手紙のことだ。  シキを斃せる神器。  時期が来たら、正一のもとに渡る。  そう書いてあった。  つまり、依峰は正一にシキを斃すための協力を仰いでいるのだろう。  正一はシキを殺してしまうのだろうか。  正一の膝枕で安心したように眠るシキの横顔を思い出す。やわらかく日に照らされた姿は、神聖だがどこか幼く見えた。    冬斗は夢に苛まれながらも、最近はその続きが気になってしかたなくなっていた。  夢を見た時はまるで正一の体に入ってその場面を一緒に見ているような感覚になるため、休まった気はしない。  ちゃんと寝ているのに、起きた時には汗をかいて疲労困憊になっている。  それなのに、夢の続きを見たくなっている自分がいる。  二人の顛末(てんまつ)を知りたい。  バス停に着くと、一葉がいた。その姿を見て、胸がきゅっと締め付けられる。 「おはよう、冬斗」 「おはよう」  一葉は、やっぱりシキと瓜二つだ。でも、一葉は表情が豊かで、髪も目も黒い。  一葉はシキだ。  それはもうわかっている。馬鹿げた話だと最初は思っていたが、もう今は直感でそう感じるし、信じるしかなくなっている。  シキそのものではないとは思うが、それでも、一葉はシキなのだろうと思った。  夢は過去の記憶なのだろうか。  そうでないと、辻褄が合わない。  佐久間さんはシキを知っていた。シキが巫に(ふん)して神楽を舞っていたことも、紫の目をしていたことも知っている。  でも、それなら一つだけ分からないことがある。  ───なんで俺が紫の目で、一葉の目が黒いんだろう。  シキは紫の目をしていた。蛇神だからだろう。正一の目は紫じゃなかった。  ───じゃあ、俺は?  昨日の佐久間さんを思い出す。佐久間さんは冬斗のことを『巫様』と呼んでいた。  (シキが蛇神本人だってことは、知られてないことだったのか?)  確かに、正一自身、シキのことを最初は巫だと思っていた。共に暮らすうちにそうでないことに気がついたが、白泰の民衆たちもそう思っていたとしたら納得がいく。  (それに、依峰の『影』……。なんか気になる) 「冬斗」    考え込んでいると、ふと気がついたら一葉の顔が近くにあった。 「わっ」  驚いて身を引くと、一葉が首を傾げた。 「すごい難しい顔してたね。もうバス来るよ」 「えっ」  見てみると、確かにエンジン音と共に近づいてくるバスが見えた。  あっという間に目の前に停車する。  冬斗は慌てて一葉の後に続いて乗車した。  バスに揺られながら、一葉の横顔を眺める。  そして、ふと思い立った。  ─── 一葉はシキだから、正一の記憶を見る俺に……紫の目を持つ俺に、優しくしてくれるのかな。  胸が苦しくなって、冬斗は視線を窓に逃す。  しかしその時、一葉の家にいた時を思い出した。  ───『冬斗の目が、紫でも黒でも、虹色でも好きだよ』。  思い出すと胸の奥が温かくなって、冬斗はそっと唇を噛んだ。   ◆  昼休み、今日も一葉と一緒に昼を食べようとした時、鈴音がおずおずと近づいてきた。  冬斗の紫の目が露見してから一週間ほどが経っていたが、茜と鈴音とはまだちゃんと話せていない。いや、そもそも腫れ物を扱うように、誰も冬斗に話しかけないし、誰も話題にしない。  鈴音は一葉の隣にいる冬斗をちらりと見て一瞬目を伏せた後、意を決したように一葉を見上げた。   「か、一葉先輩。あの、今からお時間ありますか……?」  鈴音の顔は何か決意めいたものが見える。  冬斗はみぞおちのあたりから何か煮えるようなものが沸き上がるのを感じた。 「どんな用件」  一葉はそっけなく言った。鈴音がびくりと肩を震わせる。  冬斗が孤立して、一葉が変わった。  前までは誰に対しても穏やかに微笑んでいたのに、今は笑顔を浮かべなくなった。あからさまに嫌な態度は取らないが、それでも以前までの一葉を考えると、大きな変化だった。  そして、周囲に笑顔を見せなくなった代わりに、冬斗には以前にも増して甘く笑うようになった。 「悪いけど、特に用がないなら行かない」  黙り込んでしまった鈴音に、一葉はため息と共に切り捨てる。  鈴音の傷ついたような顔に、かわいそうだと思った。けれどそれと同時に、胸に煮えていたものがすっと鎮まって息がしやすくなる。  ───自分は最低だ。 「冬斗、行こうか」  一葉は冬斗に優しく笑う。  一瞬、胸がふわりと浮きかけたが、鈴音と目があった。  鈴音は泣きそうな目で冬斗を見ていた。  『なんで、冬斗先輩なの』  そう言っているように見えて、今にも泣き出しそうな鈴音に冬斗は思わず息を飲んだ。 「先輩」  鈴音が一葉の腕をつかむ。  冬斗は思わず「あっ」と小さく声を漏らした。 「……お願いします」  クラスメイトたちの視線が突き刺さる。茜が鈴音の少し後ろで見守っている。伊織も息を飲んで一葉たちの様子をうかがっていた。 「……一葉、行きなよ」  喉元まで重い鉛がせりあがってきたような気分だった。  それでも、冬斗は鈴音のことが放って置けなかった。鈴音が一生懸命に、ずっと一葉を見ていたことを知っている。  ほんの一瞬、一葉の瞳が悲しげに揺れた気がした。けれどすぐに目を伏せて、静かに息を吐く。 「……わかった。行こう、鈴音」  あれ。自分は何か選択を間違えたのだろうか。    教室を出ていく一葉と鈴音の背中を見て、冬斗はぼんやりとその場に立ち尽くした。  

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