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第38話「忘れたほうがいい」

 なんだかバス停に向かう気がしなかった。  一葉も同じ気持ちだったのか、自然と二人の足は視聴覚室の方へと向かう。  一葉がドアの鍵を回す。ガチャリ、と音がして、ドアが開く。  部屋に入ってドアを閉めた瞬間、とたんに体から力が抜けた。  さっきまで張りつめていたものが、一気にほどけていく。  思わずふらりとよろけると、一葉に支えられた。 「冬斗。大丈夫?」 「う、うん……」  一葉の匂いがふわりと香って、唇をきゅっと結んだ。 「……ソファ、座ろうか」  一葉に促されて、頷く。二人でソファに腰掛けると、ぎし、とわずかに軋んだ音がした。 「冬斗」  名前を呼ばれて顔を上げる。  一葉は泣きそうな顔をしていた。 「……ごめん」  その目はもう見間違えようもない、夜の瞳だ。  冬斗はそっと目を伏せた。 「何で一葉が謝るんだよ」 「だって……」  一葉が言葉を詰まらせる。その顔は今までに見たことがないほど苦しそうに見える。とっさに冬斗は一葉の手に自分の手を重ねた。  一葉が驚いたように顔を上げる。 「俺は、助かったよ」  一葉をまっすぐに見つめる。声が震えたかもしれない。でも、真実だった。 「……俺のために、怒ってくれたんだよな」  一葉の顔がまた歪んだ。 「俺は……」  夜の瞳が伏せられる。 「冬斗には笑っていてほしい。……でも、ああいう時、たまに自分で自分を抑えられなくなる」 「……一葉」  胸がぎゅっと締め付けられた。一葉の強すぎる気持ちが怖いと思った。  でも、それ以上に。  冬斗のことで苦悩している一葉に、仄暗い喜びを感じてしまう。  そんな自分が一番怖かった。 『やっぱり、普通じゃないんだよ』  クラスメイトの声が脳裏に浮かぶ。  それはもしかしたら、的を射ているのかもしれないと思った。  毎晩毎晩、夢を見る。  夢で、もう一つの人生を追体験してる。  そして……それに振り回され、囚われている。  もうとっくに、『普通』じゃなかったのかもしれない。  一葉の黒い瞳を見つめる。  そっと、眼鏡を外された。長い前髪がかき分けられる。  黒い瞳に、冬斗の紫の目が映っている。  そうしていると、まるで一葉が紫の目をしているようだった。  どうしたら良いのだろう。  鈴音も、茜も、伊織も。  どうしたら、傷つけずに済むのだろう。 『なんで……壊すの』  茜は泣いていた。鈴音も泣いていた。伊織は……きっと、傷付くだろう。  全部、自分のせいだ。  でも、それでも、冬斗は目の前の男から目が逸らせなかった。 「一葉……」  気がついたら頬を熱いものが伝っていた。  一葉ははっとしたような顔をして、眉を下げた。 「……泣くなよ」  そっと抱き寄せられる。温かい。  そろそろと、抱き返した。一葉の肩に冬斗の涙が落ちていく。  ふと、一葉が顔を上げた。冬斗も顔を上げると、間近で目が合う。  一葉の目が熱を帯びた気がした。  よく知っている目。  冬斗はゆっくりと目を閉じた。  その瞬間。  ───『化け物を斃せる神器』。 「……っ」  はっとして、一葉の体を押し返した。一葉はわずかに目を見開く。 「……冬斗?」 「いや……あの……ごめん」  なんて言ったら良いか分からず、冬斗はうつむく。  一葉はしばらく冬斗の顔をじっと見つめて、やがてふっと目を伏せた。 「……もしかして、夢?」 「……う、ん」  ぎこちなく頷く。一葉が冬斗の手をぎゅっと握った。 「まだ……怖い?」 「……」  答えられずに、沈黙する。一葉に握られた手が熱い。 「怖い夢なら」  一葉がそっと囁く。 「いっそ、忘れたほうがいい」  はっとして顔を上げると、一葉は悲しそうな、でも愛おしいものを見るような、不思議な顔をしていた。  その顔から目を逸らせないまま、ふと冬斗は疑問が浮かんだ。  ───自分はいつ、一葉に夢が怖いと言っただろうか。  ◆    その後は、二人で言葉もなく寄り添っていた。  肩を寄せ合って、二人で体温を分け合う。  窓の外が暗くなってきて、ぽつりと一葉が「帰ろうか」と言った。  冬斗は帰りたくない、と思ったがそう言ったら、何かがまた変わってしまう気がして、言えなかった。 「……なあ、一葉」 「ん?」  まだソファから立ち上がれないまま声をかけると、一葉が優しい顔で冬斗を見た。 「……こんな俺の、どこが良いの」  鈴音のまっすぐさとも違う。茜の情熱さとも違う。伊織の明るさとも違う。  (なんで一葉は俺なんだろう)  ───夢を見るから。正一に何か関わりがあるから。紫の目だから。好きなんじゃないか。  朝から拭いきれない不安が水泡のように胸の底からこぽりと湧き上がる。  一葉はわずかに目を丸くして、それから表情を緩めた。 「なんだろうね。……最初は、目が綺麗だなって思った。でも今は……わかんないや」 「え?」 「理由っているのかな」  例えば、と一葉は冬斗に手を伸ばす。 「たまに寝癖ついてる、この黒い髪の毛。それから、自信なさそうだけど、いつも優しい目。疲れると二重が三重になる。……目尻だけ、くるんってなってるまつ毛。この小さい鼻と口。口は、食べたら美味しそうな色してる。照れるとすぐに赤くなっちゃうところ。逃げ癖あるように見えるけど、実は臆病なだけなこと。実は手足が長いところ。あと……俺を呼ぶ、優しい声」  一つずつ言うたびに、その場所に触れられる。最後に喉に触れられて、冬斗は喉奥が震えた。 「……じ、実はってなんだよ」 「ふふ。……あと、そういう照れやなところ」  一葉が小さく笑う。 「なんでかはわからないけど。でも、冬斗の好きなところはたくさんある」  一葉の黒い瞳に、冬斗の顔が映る。冬斗は泣きそうな顔をしていた。 「俺、ずっと、好きとか恋とか分からなかったんだけど」  首を撫でられて、小さく体が震える。 「冬斗に会って、初めてわかった気がしたんだ」  窓の外では、宵闇に白雪がふわふわと舞っていた。    ◆ 「───シキは、いつから生きてるんだ?」  正一はふと気になって、縁側でシキの長い銀髪を櫛でとかしながら訊いた。  シキは正一に背中を向けたまま、「お前とそう変わらん」と言った。 「えっ」  正一は思わず声が出た。  庭先では雪の中で二羽の冬毛の雀たちが戯れて、チピチピと小さく鳴いている。 「もっと、何百歳とか……すごく長く生きてるのかと思ってた」 「そう言う時もあったな」  シキの言葉に、正一は首を傾げた。 「それは……前世?」 「そんなものだ」 「……覚えてるのか?」 「全ては覚えていない」 「じゃあ、何を覚えているんだ?」  シキは顔を空へ向けた。青く澄んだ空に、薄く白雲がたなびいて、ゆっくりと歩を進めている。 「……歌だ」 「歌?」 「歌ってもらうのが好きだった」  シキの声に懐かしさが滲んだ気がした。  正一はシキの心が遠くに馳せられている気がして、髪を解かす手を止めた。  シキも、こんなふうに誰かを思うことがあるのか。  そう思うと、なんだか胸がきゅっと苦しくなった。  誤魔化すように櫛を再開させ、「どんな歌だ?」とさらに深く訊く。  すると、シキが小さく歌い始めた。  低く心地よい声に乗せられていたのは、童歌だった。 「かごめ歌か」 「……かごめ歌というのか」  歌の名前も知らなかったシキに驚いたが、同時にシキらしいとも思った。 「好きだったんだな」 「……正一も歌うか」  これは、言外に歌えと言われている気がする。  正一は櫛を動かしながら、口ずさんだ。 「かーごーめ、かーごーめ……」  日の光を反射して、美しい銀糸の波が白く輝いている。目の前の広い背中は、安心しているように見えた。  黄金色の日の光が、庭園をやわらかく照らしている。 「かーごのなーかの……」  雀の愛らしい鳴き声。  やわらかな風がシキの髪を揺らす。 「とー……りー……は……」  ひく、と喉が不規則に痙攣する。 「いつ……、……いつ……」    歌声が不自然に詰まり、それ以上は口ずさめなかった。  気がついたら、涙がこぼれて畳に染みを作っていた。 「……正一?」  途中で歌が途切れたので、シキが正一を静かに振り返る。正一は顔を上げられないまま、広い背中に額を押し付けた。 「……ごめん。続き、忘れてしまった」  シキは何も言わなかった。      その後、シキが正一に膝枕をしたがった。  正一は精一杯拒否をしたが、命令だと言われてしまえば断れなかった。  おそるおそるシキの膝に頭を預ける。  冷たいかと思ったが、それほどでもなかった。  少し緊張していたが、すぐに体から力が抜けた。  ぼんやりと庭園を眺めながら、正一はシキに問いかけた。 「……やっぱり、シキは蛇から産まれたのか?」 「いや、母は人間だ」 「え? じゃあ、母上は……」 「俺を産んで死んだ」 「……そう……か」  なんてことのないように話すシキに、正一は胸を痛めた。  その時、頭の中に映像が流れ込んできた。    夕焼けに染まる雪山。  いつまでもぐずぐずと泣く子供の声。  ───そっと寄り添う少年。  それはすぐにおさまり、正一は目を瞬かせた。 「……シキは、生まれた時からずっとこの部屋にいるのか?」  頭上で、シキが少し息を止めた気配がした。 「……いや、成人するまでは山の方にいた」  正一は山にいるシキの幼い姿を想像した。  銀髪は今よりも短くて、背丈も小さかったのだろうか。  きっと相変わらず侍女や世話係以外とは関わらず、一人で過ごしていたのだろう。   「……寂しかっただろう」  ぽつりとそう言うと、シキが少しの沈黙の後、ため息を吐いた。 「寂しい、か。……そうだったのかもしれぬ」  その言葉に、正一はやや驚いた。自分から寂しいだろう、と言ったくせに、シキが本当に寂しがっていたとは思いもしなかった。  普段はほとんど感情らしいものが見えないのに、今日は知らない一面がたくさん見えた気がした。  いや、そもそも、正一が今まで知ろうとしていなかっただけなのかもしれない。  ふと、そう思った。  神楽の夜、シキに強引に連れ去られてから、恐ろしいとしか思っていなかった。  だが、今は……。  小さな子供のシキが、一人で寝起きする。  一人で、山の雪景色を眺める。  一人で、寒い夜を過ごす。  想像すると、なんだか切ない気持ちになった。 「……山からは、なぜ出なかったんだ?」  つい脱皮、という言葉を思い出す。 「俺は幼い頃、体が弱かった。表に出ることはなかった」 「そう、なのか。……体が弱い?」  予想外の言葉に目を見開いた。どういうことかと思っていると、シキが正一の頭を撫でた。 「昔から力があったわけではない。……今も、まだ完全とはいえない」 「そうなの? ……どうしたら、完全になるの」 「民たちが俺を信じ、時が満ちれば神力が戻る。……正一、今日はよく話すな」    思わずシキを見上げると、その紫の目がやわらかくゆるんでいるように見えてどきりとする。  シキに頭を撫でられるうちに、うとうとと少しずつ睡魔がのぼってくる。    力がなかった、ということは、シキはその時、どんな姿だったのだろうか。  蛇? それとも……。  大きな手で頭を撫でられる。  子どもみたいにシキの膝の上で甘やかされているうち、本格的にまどろみがやってくる。  ううん、と声が漏れて、頭上で小さく笑う気配がした。  日が頬にあたってあたたかい。  衣擦れの音がして、寒さが少しやわらぐ。  うっすら目を開けると、肩まで羽織りを掛けられている。 「寒くないか」  低く心地よい声に、笑みを浮かべる。 「うん……寒くないよ」  答えると、シキの手にゆっくりと髪を撫でられる。それが心地よくて、また眠りに落ちる。  ふと、幼かった子供の頃のシキも、誰かにこうしてもらいたかったのだろうか、と思った。  ───暗転。  燃え盛る炎。  喉がひりついて血の味がする。  生き物のようにうねる業火がとぐろを巻いて館を飲み込んでいく。    正一の手には鈍く光り輝く剣が握られていた。    次の瞬間、目の前には、血に塗れた白い大蛇が首をもたげて正一をじっと見ていた。  依峰の必死な声が聞こえる。振り返ると、手が伸ばされている。  大蛇の口が大きく開かれる。  胎の奥へ続く、闇のように真っ黒な蛇の喉。  ───そして、飲み込まれた。  

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