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第39話「したいこと」

 今にも雪が降り始めそうな、(ねずみ)色の空の日だった。  正信の部屋を訪ねた時、ちょうど出てきた男とぶつかった。  男は正一よりも頭ひとつ分背が高かった。正一を見下ろす顔は精悍で、やや陰がかったような雰囲気を持っている。見たことのない顔だった。  男は正一を一瞥(いちべつ)し、短い謝罪をした後にすぐにその場を去っていった。  その額に見えたものに心を奪われて、正一はその背中が見えなくなるまで、じっとその場に佇んでいた。    その男と再会したのは、それから間もない頃だった。  廊下を歩いている時、たまたまその男とすれ違った。正一は気がついたらその袖をつかんでいた。 「……あ、あの」  男は怪訝そうに正一を見下ろした。  正一はぎゅっと男の袖を握りしめる。 「覚えているか……?」  正一の言葉に、男はしばらく正一の顔を見ていた。そして、何かに気がついたように、わずかに目を見開いた。 「……もしかして、あの時の子か?」    嬉しくなって、思わずこくこくと頷いた。  男の目が驚きから、じわじわと別の色を浮かべていく。    その様子はまるで、何かの天啓を受けたかのようだった。   「なあ、依峰。お前は今までどこにいたんだ?」  正一は夜の芝居小屋で依峰と寄り添っていた。    あれから数か月。  正一は依峰と会うたびに距離を縮め、いつしか恋仲になっていた。  あの時、依峰はすぐに正一があの時の子どもだということに気がついて、それから正一を抱きしめた。正一は突然のことに驚いたが、それでも再会の喜びのほうが(まさ)っていた。  正一に幼い頃の記憶はほとんど無かった。それでも、傷のある少年に助けられたことだけは覚えている。  十年以上も前の出来事だ。雪山で何を話したのか、なぜあそこにいたのか。二人とも細かな記憶は曖昧だった。  それでも、傷が二人の絆の象徴だということが大切だった。  二人で会う時は、必ずひと気のない芝居小屋の楽屋だった。  正一は外出を正信に禁じられていたし、何より香本家の嫡男。もう十七になる。そろそろ良い加減に妻を(めと)らなければならない。  今まで、子を急かされることはなかった。弟たちがすでに妻を娶り、子を設けていることも大きいのかもしれない。いや、むしろ正一に子ができない方が、正信にとっても、正一の継母にとっても、都合が良いのかもしれないが……。  それでも、本家の跡取りとして、そろそろ周囲の目も気になる頃だった。そんな時に男と睦まじくしているというのは見えも良くないし、依峰にも迷惑がかかってしまう。  依峰は黙って火鉢の炭を(はし)でつつく。  その様子をぼんやりと見つめた。    依峰は正一と同じ年だが、妻を娶っていない。依峰ほどの男前が、なぜ妻を迎えていないのかと驚いたが、訊けば今まで重い役目があり、妻子どころではなかったのだという。  窓から雪あかりが差し込む。  こうこうと赤く光る木炭を二人で見つめながら、正一は気になっていたことを依峰に投げかけた。 「屋敷ではお前を見かけたことがなかった」  依峰は沈黙する。正一は依峰の横顔をそっと見た。火鉢の灯りにぼんやりと照らされている横顔は、なんだかどきりとするほど影が濃く見えた。 「……役目か?」 「……まあな」  依峰は今まで、重い役目のために生きてきたという。その内容については決して語らない。触れられたくないのだろう。  正一は火鉢に再び視線を落とし、依峰の手を握った。 「……なあ、依峰。お前、したいことはあるか」 「……したいこと?」  依峰が不思議そうに正一を見た。火鉢に照らされて、依峰の顔がはっきりと見える。 「ああ。俺は城から出られないが……でも、お前と一緒に日の下で花札をしたりなんかして遊びたいな」  正一の言葉に、依峰はふっと笑った。 「花札か……良いな」 「依峰はそういうの、得意そうだよな」 「やったことはないが、少なくとも正一よりはうまい自信はある」 「おい、なんだよ」  そう言って笑ってから、はたと気がついた。 「花札、やったことないのか」  意外だった。子どもからの遊びとして鉄板の花札だが、それを依峰はやったことがない。  それだけ、役目というのが大変だったのだろうか。 「……じゃあ、いつか花札をやろう」  正一は依峰の手を握った。依峰は正一の顔をまじまじと見た後、そっと目を伏せた。 「……ああ」  そう言って穏やかに笑う依峰の顔が、なんだか寂しそうに見えて、正一は不思議に思った。 「なあ、正一」 「なんだ?」 「お前は……この傷がなかったら、俺を好きにならなかったか」  依峰の問いが薄暗い芝居小屋にぽつりと落ちた。  正一は依峰の横顔を見る。依峰はじっと火鉢を眺めていた。  その顔がなんだか寂しげに見えて、正一は依峰を抱き寄せた。 「何言ってるんだ。……俺は依峰、お前とこうしてる時間が好きなんだ」  そう言うと、依峰が小さく笑う気配がした。 「俺と恋人になってくれてありがとう、依峰」  心からそう言うと、依峰の体が震えた気がした。それは気のせいだったのかもしれない。 「……正一」  依峰に名前を呼ばれて、その顔と向き合う。  間近に見るその顔は、微笑んでいたがやっぱり少し泣きそうにも見えた。  やがて依峰の顔が近づいてきて、目を閉じる。  甘い口付けを交わしながら、正一は依峰と花札をして日の下で笑い合う姿を目に浮かべた。  窓の外では、月明かりに混じって、雪の気配がした。  

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