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第41話「どうしたら笑う」
「よう」
その日、正一が厠から帰っていると、ひっそりと物陰から依峰が顔を出した。
「お、お前……っ」
その姿を認めた途端、心臓が跳ねた。
嫌に鼓動が速くなって、息が詰まる。
思わず大きい声が出そうになり、慌てて声をひそめた。
「なんでここに……」
「俺の特技を忘れたか?」
依峰は気配を隠したり、人目をすり抜けることが得意だ。
正一は肩を無意識にこわばらせた。
正一の後に着いていた侍女は黙って顔を下げている。以前、正一の袖の中に文を忍ばせた侍女だった。
依峰は腰に提げていた何かを正一に渡した。
それはちょうど腕の長さほどの細長いものだった。
全体を布で覆われていて中身は分からない。札のようなもので封じられている。
ぴんときて、正一は手が震えた。
受け取ったものがずっしりと重さを増した気がした。
手のひらが冷える。
これを振るう相手が、誰なのか。
呼吸が乱れて、一気に気分が悪くなった。
「こ、これ……」
「もうすぐ、民衆たちが火をつける。……もう、お前の親父は助からない。正信一派じゃない香本の連中は、密かに脱出の手筈を整えている」
依峰は正一に身を寄せ、ひそひそと耳元で小さく囁く。
「お前は必ず救い出す。だから、安心しろ」
依峰が正一の手にある神器に手を置いた。
「正一。これはお前にしか頼めない。あいつは、お前に心を許してる」
依峰の言葉に目を見開いた。
依峰は暗い覚悟を持った目で、まっすぐに正一を見つめている。
「お前の親父はあいつの力で権力を蓄えてる。あいつは意志がない。だから、民たちがどうなろうと関係ない。でも、あいつがいる限り搾取や腐敗が生まれる」
「で、でも……」
「正一」
震える正一の肩に、依峰の手が乗せられた。その手の熱さに息を飲む。
「お前も気付いてるだろ。代々、香本家はあいつを利用して甘い汁を啜ってきた」
それはそうなのかもしれない。
ただ、それほど悪い時代が続いただろうか。
正一は強く言い切る依峰に、一抹の違和感を覚えた。
「シキは……」
正一のために菓子を用意してくれた。
膝枕をしてくれた。
寒くないように気遣ってくれた。
「これを使えば、あいつを無力化できる」
神器を握る正一の手に、大きな手が重ねられる。
正一は息を震わせて、まぶたをぎゅっと閉じた。
「正一、お前を自由にしてやれる」
依峰の力強い声にはっと目を開けた。
自由。
その言葉に、芝居小屋で笑う依峰の顔が浮かぶ。
二人で花札をしようと約束した夜。
語り合った未来。
視界がぼやける。手の震えが増す。
「愛してる。お前を、信じている」
依峰の言葉が痛い。
心臓から、身体中から、血が溢れ出しそうだった。
力強く抱きしめられる。
依峰の腕の中で、正一はどうしたら良いかわからなくて、嗚咽を漏らした。
依峰と静かに肩を寄せた、月明かりの芝居小屋。未来を約束して、淡く胸を高鳴らせた。
シキの冷たい体に何度も熱を分けた。温かな縁側で膝に頭を預けた。歌を歌った。孤独を想った。
───何を選んでも、自分はいつか地獄に落ちる。
そう思った。
◆
打首に向かう罪人のような気持ちで、部屋に戻る。
シキはいつものように黒い脇息に腕を預けて、片膝を立てて横座りをし、目を閉じていた。
正一はほっとして、動揺を悟られないよう、足音を殺しながら自分の長持ちの蓋をそっと開けた。着物の下に神器を隠し、何枚も何枚も重ねる。
シキをちらりと見る。
シキはまだ目を閉じて静かに休んでいた。
美しい銀の髪が畳に垂れている。
最近、その髪に櫛を通すのが正一の日課になっている。しかし、今日はまだしていなかった。
正一は腰を上げ、部屋の隅に置かれた黒漆 の箱へ向かった。蓋を開けると、櫛や香油が整然と並んでいる。
櫛を取ろうとした。だが、指先が震えてうまくいかない。
その時。
「……泣いていたのか」
はっとして振り返ると、シキが薄目を開けて正一を見ていた。紫の目と目が合う。
慌てて目元を触る。涙はもう出ていないはずだった。
「……ちょっと、あくびをしただけだ」
我ながら苦しい誤魔化しだと思った。
しかしシキは正一の言葉を聞いた後、しばらくしてまた目を閉じた。
正一はようやく櫛を手に取って、シキに近づく。
手に持った櫛がぼんやりと行燈に照らされる。一瞬、自分が持っているのが本当に櫛なのかわからなくなった。
正一はそっと背後に回った。
美しい銀の髪に、ゆっくりと櫛を入れる。さらり、と音を立てて髪が流れた。
しばらく無言だった。
障子の向こうでは、日が落ちていく気配がする。
ぼんやりと赤橙 に染まる障子。薄暗い畳。
柔らかい銀糸を解かす手が震えないようにするのに、必死だった。
「……お前は」
シキが静かに口を開いた。
ぴくりと肩が震える。
「最近、ずっと目を腫らしているな」
「え……」
櫛が止まる。
「お前は、どうしたら笑う」
冷たく、ぶっきらぼうにも聞こえる声。
息が震えた。
ぽたり、と櫛を持つ手に露が落ちる。
止めようと思っても、次から次に堰を切ったように溢れていく。
口に手をやり、息を押し殺す。指の隙間からふっふっと堪えきれない息が漏れた。
───誰か、今すぐ自分を斬り殺して、山に葬り捨ててくれ。
正一の異変に気づいたシキが、ゆっくりと体を起こした。
正一の手から櫛が落ちる。
シキの指がそっと正一の目元に触れた。
「泣くな」
冷たくて、優しい白い指。
顔が上げられない。
「そんなに泣いたら、目が溶ける」
はっと息を飲んだ。
その言葉に、なぜか強烈に胸を揺さぶられた。
どこかで、同じような言葉を聞いた気がした。
でも、思い出そうとしても思い出せない。
背中が燃えるように熱くなって、頭がぼんやりとした。
何かとても大切なことを、忘れている気がする。
思わず顔を上げると、そこには正一を見下ろす紫の目があった。その目に優しさが灯っているような気がして、正一は顔を歪めた。
冷たい体に、そっと抱擁される。
優しくしないでほしい。
いつまでも、怖いだけでいて欲しかった。
正一は声を押し殺し、涙に濡れた。
───時が止まってしまえばいいのに。
障子の向こうでは、いつか見たような夕焼けが白泰を包み込んでいた。
二人は、いつまでも薄暗い畳の上で寄り添いあっていた。
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