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第44話「禁足地」
「気をつけて。なんかあったらすぐ連絡すんのよ。ここで待ってるから。あと、迷わないようにピンクリボンつけんのよ」
山の麓で降ろしてもらった冬斗は、母親の乗る車に背を向けた。
はぁ、と吐く息が白い。
あと二時間もすれば日が落ちてくる。その前に、なんとか城跡まで行けるだろうか。
冬斗は覚悟を決めて、雪山を登り始めた。
ザク、ザク、ザク。
登山靴の底についた滑り止めの爪が、雪を固く踏み締める。雪を被った高い杉の木が乱立している。
標高はそれほど高いわけではないから、老若男女問わず登れるような山のはずだと祖母は言っていた。それでも、ほとんど人の手がついていない山は何があるかわからない。
冬斗はピンクリボンで目印をつけながら、慎重に進んだ。
不思議と、迷いは無かった。
自然と足が進む。まるで行き慣れた道を進むようだった。
過去の記憶が導いてくれているのか。
それとも、呼ばれているのか。
冬斗は登山自体、それほど経験はない。昔、高尾山に母親と登った時が初めてで、そしてそれが最後の経験だ。
しかし、あの時とは違って、驚くほど足取りはしっかりしている。まるで自分の足ではないようだ。
怖くはない。
獣の痕跡を見分ける方法も、雪崩が起きやすい斜面も、なぜか知っている気がした。
正一は城からあまり出たことがないはずなのに、どうしてだろう、と思った。
ふと、母親を亡くして泣きじゃくっていた子どもを思い出す。きっと、あの子のおかげなのかもしれない。
誰の足跡もない、まっさらな雪山を登る。
近づいてはいけないとされる禁足地。
そこをいわくつきだと言われる、紫の目を持つ冬斗が登っている。
なんだか妙な繋がりを感じて、ふっと笑った。
しばらく登っていると、木々が途切れた。
息を呑む。
そこには、雪に埋もれるようにして、石造りの瓦礫の山があった。
心臓がどくりと鳴る。
記憶とはあまりにも違う、その寂しい姿。
荘厳な城構えではなく、今はただ雪に埋もれる瓦礫たち。
過去の遺物となった香本城を、冬斗はじっと佇んで見つめた。
しばらく立ち止まって眺めて、やっと足を動かし始める。
雪の中の瓦礫を進むうち、なぜか気に留まる場所があった。ふと、その場所に立って、振り返ってみる。
振り返ると、山から村が見下ろせた。遠くに白蛇神社があるのがわかる。
耳の奥で、太鼓の音が聞こえる気がした。
「ここ……」
思わず呟く。
すっと、雪に濡れるのも構わずにその場に膝をついた。
ここで、書物を読んだ。
太鼓の音を聴いて、祭りに行きたいと思った。
依峰が、迎えに来た。
「正一の部屋だ……」
雪に、呟きが落ちた。
正一が孤独に過ごしていた部屋。障子から漏れる雪あかりに、寂しさを覚えた場所。
しばらくそこに座り込んで、冬斗はふらふらと立ち上がった。また瓦礫の山を歩き始める。
しばらく進んで、ふと足を止めた。
一箇所だけ、不自然に雪が積もっていない場所がある。
ちょうど、広い部屋くらい。山肌が露出していた。
言いようのない、ざわざわとした感覚。
さっきとは違う。胸の奥がざわつく。
逃げ出したいような、近づきたいような。
理由もなく、その場所から目が離せなかった。
直感でわかった。
───シキの部屋だ。
そこに近づくにつれて、心臓の鼓動が速まる。
山肌が露出しているそこに、おそるおそる一歩踏み出す。
雪ではなく、枯れ葉や枝が覆う地面。
足を踏み入れた瞬間、ふわりと寒さが和らいだ。
風がやわらかく感じる。
あたたかな日の光。
知らないはずの場所なのに、痛いほどよく知っていた。
冬斗は目を閉じた。
そうすると、山の空気が肺に流れ込む感覚がよくわかる。冷たいけど、懐かしい。
この部屋で過ごした、シキとの時間を思い出す。
日に透けた銀の髪。大きい背中。雀の声。
歌を歌った。膝枕をした。ひやりとした腕の中で眠った。
正一は確かにシキを怖がっていた。でも、一緒に過ごすうちに、だんだんと恐怖とは別の感情も生まれてきていた。だから、どんどん苦しくなっていった。
二人はどうなったのだろうか。
本当に、正一はシキに剣を向けたのだろうか。
そして────シキは、正一を喰ったのだろうか。
この紫の目は呪いなのか。
山に登るまでは、その疑念が確信のように冬斗の胸に横たわっていた。
けれど────。
冬斗はそっと目を開けた。
雪に濡れていない、不自然な地面。
包まれるような空気感。
呪いとは思えない、あたたかさ。
冬斗は視線を落とした。
────果たして、本当に呪いなのだろうか。
冷たい風が頰を撫でる。
ふと、冬斗は何かに引かれるように、振り返った。
背後にはさらに山は高く続いている。
鳥居が見えた。
ごくり、と喉を鳴らす。
鳥居の向こうで、こちらをじっと見ていた、少年の姿を思い出す。
導かれるように、冬斗は足を踏み出した。
山には、静かに夕暮れの気配が近づいてきていた。
鳥居の前に立つ。
ここから先は、もう戻れない。不思議とそんな気がした。
行こうか、引き返すか。
夕暮れも近づいてきている。
迷った時。
『冬斗は、笑ってて』
一葉の言葉が胸を過ぎる。
重ねられた手の温もり。その手を濡らした涙。
冬斗はぐっと拳を握った。
(行こう)
足を踏み出して、鳥居をくぐる。
すると、風がやんだ気がした。
息を飲む。
でも、立ち止まらない。
行くべき場所は、わかる気がした。
冬斗は迷いなく足を動かした。
やがて、木々が途切れ、建物が見えてきた。
木造のその建物は、見覚えがあった。
(御社 だ……)
数百年も経っているとは思えなかった。傷んだ様子があまりなく、不思議と背筋が伸びるような、空気が澄んでいるような、静かな神聖さがあった。
ぼんやりと、思い出す。
夕焼けの雪山。御社。その前に座る、子ども。そして、寄り添う少年の姿。
蛇の絵を描いた。一緒に暮らす約束をした。
御社の前に立つ。今、すべてが一つの答えに向かっていっているような、そんな気がした。
ふと、冬斗は引っかかった。
(あれ、名前……)
────あの男の子は、少年に名前をつけていなかったか。
その時だった。
カタリ、と音がして、御社の扉が重々しく開いた。
扉の向こうに見えた人物を見て、冬斗は目を見開いた。
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