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第46話「記憶の扉」
必死で雪山を駆ける。
雪が夕焼けで赤く染まっていた。
足がもつれて、転びそうになる。それでも、走った。
脳裏に火がちらつく。
ガンガンと頭痛がして、体が何か膜のようなものに包まれている感覚がする。
その感覚を振り切るように、無我夢中で走った。
そのうち何かにつまずいて転んだ。
ずしゃ、と赤い雪の山に体を打ちつける。雪がクッションになってくれたおかげで、それほど痛みはない。
しかし、しばらく立ち上がれなかった。
はあ、はあ、と息が乱れる。
頭が痛い。
火がちらつく。
ようやく、重い体を持ち上げるようにして立ち上がったその時。
ザク、ザク、と。
後ろから音が聞こえてきた。
────バフッ、バフッ。
荒く、重い息遣い。
何かが、すぐ傍で立ち止まった。
おそるおそる、振り返る。
視界の端に見えたのは、太く毛深い獣の足だった。
────あ。
血の気が引いた。
『熊よけだ』
祖母の声が蘇る。鈴がついたリュックは、御社に置いてきてしまっていた。
体が震える。
ゆっくりと、顔を上げた。
白い息を吐きながらこっちを見ていたのは、赤い夕焼けに染まった、大きくて痩せた熊だった。肋骨が浮き出るほど痩せている。
真っ黒で透き通った目。
熊は瞬きもしなかった。
一瞬で、死を悟った。
────母さん、ばあちゃん。ごめん。
血のように赤い夕焼けの中で、熊の黒々とした目を見つめる。
────……一葉。
優しい笑顔が思い浮かんだ。
唇が震えて、涙が滲む。
熊が、何かを確かめるように鼻を鳴らしながら近づけてきた。
────バフッ。バフッ。
間近で重い息遣いが聞こえる。もうあと三歩ほどの距離に来た時。
熊が立ち上がった。
ゆらゆらと巨体を揺らしながら、冬斗をじっと見つめてくる。
冬斗よりも少し高い位置から見下ろす熊に、冬斗は足の力が抜けて何もできなかった。
死を覚悟したその時。
冬斗の目をじっと見つめた熊が、何かに気がついたように首を傾げた後、突然静かになった。
四つん這いに戻ったかと思うと、じりじりとゆっくりと後退り、まるで何かを恐れるかのように、目を合わせないまま静かに頭を垂れた。
そして小さい鳴き声を一つあげて、熊はのろのろと背中を向けて、夕陽を背負い歩き去っていく。
冬斗は、その一連の流れを信じられない思いで見つめていた。
(目を見て、逃げた……?)
体からへなへなと力が抜けた。
震える手で目元を触る。
熊は明らかに冬斗の紫の目を見て、逃げていった。
────守って、くれた……?
は、と白い息が漏れる。
ガタガタと体が震えている。後ろにふらつくと、足がもつれて、踏み外した。
「あっ……」
足元の雪が崩れた。
ぐらりと視界が傾く。慌てて踏ん張ろうとしたが、地面がない。
次の瞬間、冬斗の体は宙に浮いていた。
悲鳴を上げながら、とっさに手を伸ばした。
斜面に生えていた大きな枝に運良くつかまる。
ぶらん、と枝につかまったまま、冬斗は宙吊りになった。
冬斗は枝につかまったまま、おそるおそる下を見下ろす。
そこに地面はなかった。
真っ白な断崖が、はるか下まで続いている。
────落ちたら、今度こそ命はない。
悲鳴を上げて、渾身の力で枝につかまる。
今度こそ涙が溢れた。
頭が痛い。
夕焼けに染まった雪山。
足を踏み外した。
────ガン、ガン、と記憶の扉を叩く音がする。
ガン、ガン。
頭が割れるように痛む。
雪。
赤い空。
山の斜面。
誰かが自分を助けて、こうやってぶら下がっていた。
黒い髪と、黒い瞳。
────ああ。
この景色を、知っている。
「────冬斗っ!!」
その時、よく知った声がして、腕を掴まれた。
はっと顔を上げると、黒い髪と黒い瞳があった。
いつもは優しい顔が、今は必死に歪められている。
つかまれた手が熱い。
その瞬間、全てが冬斗の中で繋がった。
冬斗を覆っていた膜が、ぱちんと弾ける。
頭痛が消えた。
「……一葉」
────そうか。
ようやく。わかった。
あの時の少年は…… ────。
一葉の必死な声がする。
力強く、引き上げられる。
全てがスローモーションに感じられて、冬斗はだんだんとまぶたが重くなっていった。
そして、意識は暗闇の中に飲み込まれた。
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