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第47話「真の姿」
にわかに外が騒がしくなった気がして、正一はハッと目が覚めた。
ドン、ドン、という地響きのような音。
次いで聞こえる、激しい怒号。
一瞬で血の気が引いた。
隣を見ると、シキが正一を抱き込むようにして寝ている。その安らかな顔に、胸がつぶれたような痛みが走る。
ぐっと唇を噛んで、シキを起こさないよう、そうっと布団から抜け出す。ふらふらと障子を開けた。
冷気と共に肺に流れ込んできたのは、焦げるような臭いだった。
外では怒声と何かが壊れるような音、悲鳴が聞こえて来る。
縁側に出ると、空がぼんやりと薄赤く染まっていた。庭園の雪にまで赤い光が映り込んでいる。
天守の方を見ると、赤黒い煙が立ち上っていた。櫓 からは何の警報もない。守り番は逃げたのか、あるいは警報すら出せない状況なのか。
(始まった……!)
とうとう、この時がきてしまった。
途端にがくがくと足が震え出す。
(どうしよう、どうしよう……!)
呼吸が乱れる。
はっと長持ちを見た。そこには、正一を待っている神器の剣 がある。
はあ、はあ。
荒い息を吐く。
目を見開きながら、神器をじっと見つめる。
手の震えが大きくなる。
「────どうした」
その時。
背後で声がした。
はっと振り返ると、シキが横になったまま、じっと正一を見つめていた。
紫の目が、静かに正一を捉える。
「あっ……。あの、焼き討ちが……!」
震える声でそう言うと、シキはゆっくりと起き上がった。
呼吸一つ乱さず、縁側の向こうを見やる。
赤く染まる空。
立ち上る煙。
響く怒号と悲鳴。
しばらく黙って眺めた後、
「……そのようだな」
とだけ言った。
「そ、そのようだなって……!」
まるで冬の夜に雪が降り始めたとでも言うような、あまりにも平静なシキに、正一はあんぐりと口を開ける。
「に、逃げよう、シキ……!」
とっさに、長持ちの剣のことも忘れて、シキの袖を掴んだ。
シキは空に向けた紫の目をすっと細めて、一つ息を吐き、目を閉じた。
「俺は、いい」
その言葉は、ひどく静かで穏やかだった。
「え……?」
正一は目を見開く。
シキは正一を静かに見た。
「正一。お前は逃げろ」
「なっ……なにを、言ってるんだ!」
思わず叫んだ。
それと同時に、あれ、自分は何をしているのだろう、と思った。
殺すつもりだ。
殺すつもりなのに、逃げようと言っている。
目の前の、美しい男を。
殺すのに。
シキは怒りも戸惑いも見せなかった。
その様子はまるで、こうなることを最初から知っていたかのようだった。
そんなわけはない。それなのに、おそろしいほど平生 と何も変わらない。
正一は混乱した。
「い、行かないと、死ぬぞ!」
正一はシキの手を取る。ひやりとした冷たさが、正一の手に伝わる。
「……正一」
シキに見下ろされる。
紫の目は、波一つない湖面のように、静かに凪いでいた。
その薄い唇が開かれる。
「俺は、何かを怖いと思ったことがついぞない。自分の死でさえも。それは循環に過ぎぬからだ」
「な……に……」
抑揚のない冷たい声に、二の句が継げなくなる。
シキは正一を見つめながら、そっとつぶやいた。
「……だが、初めて、怖いものができた」
「え……?」
正一は目を見開いた。
ほんの少し、紫の目が揺れた気がしたのは気のせいなのか。
死さえも恐れない男が。
怖いと言った。
それは一体────。
シキはしばらく黙っていた。
こんな時だというのに、その澄んだ紫の目をどうしようもなく美しいと思った。
思わず、その冷たい横顔に手を伸ばす。
その時だった。
────バンッ!
障子が激しく開かれた。
「────よう。久しぶりだな、神様」
低く、不遜な声と共にそこに立っていたのは、依峰だった。
不敵な暗い笑みを浮かべて、燃えるような目でシキを見つめている。
シキが依峰を静かに一瞥してつぶやいた。
「……影か」
その言葉に、依峰の眉がぴくりと動く。
「……俺はもう、お前の影じゃない……!」
忌々しそうに歪む依峰の顔は、今まで見たことがないほど苦しそうだった。
「依峰……?」
正一は眉をひそめる。
依峰は正一ではなく、シキをじっと見据えている。
その目に確かな憎悪の炎が宿っているのを見て、正一は胸騒ぎがした。
依峰の黒い着物の裾は、まるで夜の炎の中を突っ切ってきたように、煤で汚れている。ところどころに、まだ新しい血が染みているのが見えた。背筋をぞわりと恐ろしいものが走る。
「……正一、何してる」
ぽつりと、低くしゃがれた声がした。
依峰が正一を見た。
びくりと肩が震える。
依峰の顔は暗く、悪鬼のようだった。
正一は息を飲む。
「神器を持て」
「……っ」
正一はひゅっと喉を鳴らして、弾かれるように長持ちへ駆け寄った。震える手で、奥底に隠していた包みを取り出す。
「……そうだ。いい子だな」
依峰が低い声と共に目を細める。
正一はかたかたと震えながら、その包みを持って立ち上がった。
依峰が歩み寄ってくる。
震える手に、依峰の手が重なった。その手が焼けるように熱くて、驚く。
「……まだ、ためらってるのか?」
ふと、依峰の声がやわらいだ。
見上げると、依峰はいつもの笑みを浮かべている。
「……お前は、優しいからな」
依峰は正一の手を包み込むように握った。
見慣れた依峰の優しい顔に、一瞬、正一は気が緩む。
「……すぐ終わる」
しかし、その言葉に、再び現実に突き落とされた。
依峰は、懐から何かを取り出す。
手のひらと同じ大きさの包みを見て、シキがぴくりと眉を上げた。
「……それは」
シキの呟きに、依峰がにやりと笑う。
部屋には少しずつ火がついてきていた。
煙の臭いに、とっさに正一は口元を覆う。
依峰が包みを解くと、そこには一枚の鏡があった。
鏡面が炎を受けて不思議に揺らめく。
「さあ、真の姿を見せろ!」
鏡が虹色にまばゆく輝き始める。
その光が部屋を走った瞬間、空気がぴんと張り詰める。
風が吹いていないのに、炎が揺らめいて、障子ががたりと音を当てた。
シキがその光から顔を背けるようによろめく。
影が大きく伸びた。
そして次の瞬間、その輪郭が揺らいだ。
白い首筋に、鱗が浮かび上がる。
「────っ」
正一は息を飲んだ。
鱗は瞬く間にシキの肌を侵食していく。
腕が伸びる。
みしみしと背骨が軋む。
やがて骨の砕けるような音と共にその体が膨れ上がり、白い着物が裂けた。
どろり、と影が広がる。
それは────人の姿ではなかった。
「見ろ……これがこいつの真の姿だ」
依峰が掠れた笑い声を上げて、正一を抱き寄せる。
正一は鏡の光に照らされるものを、息も忘れて見つめた。
────部屋を覆い尽くすように巨大な白蛇が、鎌首をもたげて正一たちを見下ろしていた。
正一は腰が抜けて、かくんと膝が折れた。
依峰に支えられながら、「あ……あ……」と声にならない声を漏らすことしかできない。
山のように大きな大蛇が、自分たちを眺め下ろしている。
その体は白く内側から発光するように輝いており、ただの蛇でないことがすぐにわかる。
ざわざわと肌が粟立つような寒気を覚える。
火にぼんやりと照らされるその姿。
────おそろしい。
「正一。わかっただろう。お前が共に暮らしてきたこいつは、人間じゃない。化け物なんだ」
「ばけ……もの……」
依峰の声に、震える息を吐く。
怖い。
どうしようもなく。
目の前にいるのは、人ではない。
山のように巨大な胴体。
鋭い牙。
自分など一飲みにできそうな顎。
白い鱗が炎を反射して、不気味に光っている。
これが。
────これが、シキ。
「正一、神器を!」
依峰に強く促されて、震える手で包みを解く。
包みから出された刀身が一瞬、虹色の光を放つ。
大蛇が苦しむように後ずさった。
長くて太い尾が、部屋の壁や畳を叩く。
「効いてる……!」
嬉しそうな声を出した依峰に、肩を掴まれて大蛇の方へ押し出される。
正一は訳もわからないまま、刀身を大蛇へと向ける。
「いいか、正一。この剣でしか、こいつは斬れない」
耳元で囁かれる。
正一はじりじりと大蛇に近づいた。
神器が近づくたびに、大蛇は苦しそうに唸る。
だが、苦しそうに唸りながらも、大蛇は逃げなかった。
ふと、大蛇と目が合った。
────紫の、目。
蛇の丸い目ではない。人間と同じ形。瞳孔を中心に花弁が開くような、紫の瞳。
よく知った、瞳。
その目には、敵意などみじんもなかった。
静かで、澄んだ瞳だった。
「……っ」
正一は立ち止まった。
シキが大蛇に変化 したことで部屋の行燈が倒れている。火の手は強くなっている。
火に囲まれながらも、こちらをじっと見下ろすシキの目は、さっきまでと同じように凪いでいた。
剣を持つ手が震える。
力が抜けて、鈍く光るきっさきがだんだんと下を向く。
「うっ……。ぐぅ……っ」
息を殺すが、抑えられない。
ぼたぼたと、畳に大粒の雫が落ちる。
────依峰と引き裂かれて、無理やり連れてこられた。
無理やり、体を暴かれた。
恐ろしかった。
逃げたかった。
それなのに。
────『お前が不自由ないのであれば、それで良い』
甘いこんぺいとうをくれた。
寒い夜に体を気遣われた。
子どものように膝枕をしてもらった。
歌を一緒に歌った。
寄り添うように、抱き合って眠った。
あたたかな日の下で、雀の声に耳を傾けた。
彼の孤独を知った。
日に透けるきれいな銀の髪を、丁寧に解かした。
────まっすぐに見つめてくる紫の目を、きれいだと思った。
がしゃ、と音がした。
畳に神器が落ちた音だった。
神器に、ぼたぼたと雫が落ちていく。
正一は崩れ折れた。
畳に膝をついて泣きじゃくりながら、嗚咽をこぼす。
「でき、ない……」
震える声が漏れる。
「俺には……できない……っ」
顔を両手で覆う。
しばらく、シキは動かなかった。
ゆっくりとまばたきを一つしたあと、鎌首を下ろして正一に顎を近づけてくる。
────食われるのかもしれない。
肩をこわばらせた。
巨大な頭が目の前まで降りてくる。
白い牙が見えた。
思わず目を閉じる。
しかし、その時。
目尻を、あたたかく濡れたものに優しく拭われた。
「……っ!」
はっとして目を開けると、シキが正一をいたわるように、涙を吸い取っていた。
────『泣くな』。
そう、言われた気がした。
涙が止まる。
目を大きく見開いて、シキを見つめた。
紫の目が静かに細められる。
それは、笑ったように見えた。
思わず、手を伸ばしかけた。
次の瞬間。
────ザシュッ。
熱い飛沫が頬にかかった。
紫の目が見開かれる。
白い巨体がびくりと震えた。
鱗の隙間から赤いものが溢れ出す。
「え……?」
何が起きたのかわからない。
ただ。
シキの首元には、神器の剣が深々と突き立てられていた。
赤い血飛沫と共に、シキの巨大な胴体がぐらりと倒れる。
────全てが、ゆっくりと感じられた。
正一の目の前には、影を背負ったおぞましい鬼の姿。
修羅のように恐ろしい顔をした依峰が、血に濡れたシキを見下ろしていた。
紫の目が、力なく伏せられる。
「────シキ!!」
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