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賢太郎からの密告

「賢太郎、今日のスケジュール教えてくれる?」  玄関ドアを閉じて一呼吸、甘く優しい「夫」の笑顔をしまった悠優の表情を見て、賢太郎は自らもキュッと唇の端を引き結び、腕を飾る時計に目を落とした。 「本日は午前中はオフィスへ向かい来年度の新卒採用についての会議を。社長と会長が神凪本家から起こしになる予定です。会議の後そのままオフィスで昼食をとりましょう。その後は――」  マンションのエントランスを抜け、毎朝二人をオフィスまで運んでくれる専用車のドアを開けて主を促す。  賢太郎は失礼しますと声をかけて、その隣に腰掛けて端末を取り出した。 「……それから、14時からは提携先とのテレカンファレンス。夕方からは……」 「賢太郎」 「はい。何でしょうか、神凪様」   ​ 読み上げを遮った悠優の声は、羽のように軽やかでありながら、胸の奥にしっかりと根付く強さを帯びている。その声で呼ばれることが至高の喜びである賢太郎は即座に反応して顔を上げ、しかしビジネスパートナーとしての冷徹な視線を保ったまま悠優に向けた。  だが、次の瞬間。悠優の端正な顔がグッと近くに寄り、その細長い指がスルリと賢太郎の耳元へと伸びた。   ​「あ……」 「糸屑ついてたよ。」   ​ 悠優の指先が、賢太郎の髪に優しく触れ、そのまま滑るように彼の耳殻を撫でる。ほんの一瞬の出来事。だが、賢太郎の心臓は、まるで全速力で階段を駆け上がったかのように跳ねた。  数秒前まで仕事に邁進していたエリートの顔が、たった指一本の接触で、熱を帯びた恋する男のそれに塗り替えられていく。   ​「し、……失礼、しました」   ​ 茹で蛸のようになった顔で必死に取り繕った言葉を吐き出した賢太郎に、悠優は「夫の顔」.で微笑む。その微笑みが、賢太郎の顔の熱を更に上げた。  その昔、アルファより優秀になろうと血を吐く努力をした日々も、この男の、この全てを包み込むような微笑みのためだったのを思い出す。  賢太郎は赤くなった耳を隠すように、再び端末に目を落としたのだった。  ――――――――  正午を少し過ぎた頃。喧騒を離れた役員専用の休憩室で、二人はやや遅れたランチタイムを迎えていた。賢太郎は温かいお茶を淹れると、未だ真剣な顔をしてディスプレイを覗き込んでいる悠優に声をかける。 「神凪様」 「んー?」 「午後の会議の前に昼休憩を済ませてしまいましょう」 「んー、うん……」 「神凪様、あ…」  はたと賢太郎は気がついた。  その様子に気付いた悠優が、ゆったりとした微笑みと柔らかな眼差しにほんの少しの意地悪を含ませて、賢太郎を射貫く。じわりと胸の奥に熱が籠る。 「あの、悠優……お腹が空いたから、ランチにしよう」 「うん、いいよ」  悠優はあっさり頷いて、ビジネスバッグから弁当箱を取り出した。賢太郎はその様子を見ながら、早鐘を打つ心臓をキュッと押さえた。  ――ああ、これ。    悠優は誰にでも優しい。  優しいけれど、その優しさはちょっと一般的な「優しい」の定義からは外れている。  悠優は、相手に合わせて優しさを変える。  例えば拓海相手に今のように「呼び名が気に入らないぞ」と主張するようなことはない。拓海にとってそれは苛立ちの種でしかないことを知っているから。  けれど。賢太郎相手には、悠優はこういうちょっとした意地悪を、ちょくちょく挟んでくる。  ――賢太郎が、悠優に屈服させられることに悦を感じているのを、悠優は知っているから。  勤務中の賢太郎は頑なに悠優を「神凪様」と呼ぶ。それを悠優は「通勤中とランチタイムは勤務外だから、部下じゃないでしょ」と耳元で甘く囁いて、秘書としての矜持を壊しに来る。  それが、賢太郎には堪らないご褒美なのだ。  賢太郎はゴクリと喉を鳴らして、自分もバッグから弁当箱を取り出した。    そうして無機質なデスクに広げられたのは、拓海が今朝、真心を込めて作った手作り弁当。サイズや形が違うと詰めるのが面倒というキッチンの王の絶対令で、悠優と賢太郎の弁当箱は揃いだ。   ​「……今日、いつもより少し薄味だな」 「ああ、拓海が昨日『ここのところランチミーティング多いだろ、塩分過多になるぞ』って言ってたよ。いやはや、拓海にスケジュール完全に把握されててビックリした。大和が教えてるのかな?アイツ時々僕のPCハッキングしてるんじゃないかと思っちゃうくらい何でも知ってるんだよね」   ​ 悠優は冗談めかしてひとしきり笑うと、愛おしそうに、鶏肉のつくねを見つめた。それがまるで拓海かのように。    昨今のテクノロジーを使えば、栄養バランスも味も完璧なサプリメントや合成食がものの数分で用意できる。だが、拓海が眠い目を擦りながら出汁をとり形を整えた「手作業」の産物を、世間も、そして悠優も何より尊ぶ。 ​ 賢太郎は、その様子を誇らしく、そして少しの嫉妬と共に眺めていた。自分は仕事で彼を支えられる。それは間違いなく自分にしか出来ない。だが、拓海のこの見返りを求めない不器用な優しさは、自分には真似できない。  それに、大和のように「アイツ」なんて気さくに呼んでもらえることもない。悠優にとって自分は、そこまで軽く扱える人間ではないのだ。  そんなほんの少し苦みを、キャンディチーズのしょっぱさで誤魔化した。それは、変わらない優しい味だった。    食事を終えると、悠優が小さく息を吐いた。   「…疲れてるな」 「ん?ん―……そう見える?」 「見える」  悠優は、ふふ、と小さく笑んだ。   「僕の秘書様には適わないなぁ」 「そんなこと、見ればすぐ……」 ​「じゃ、ちょっと膝借りるね」 「……え?」   ​ 返事を聞くより早く、賢太郎の正面に座っていた悠優はヒラリと軽やかに、あっという間に賢太郎の隣に移動してきて、その体を傾けた。  賢太郎の鼻が、ウッディの爽やかな香水の中に悠優の甘く柔らかい香りを捉える。その矢先、太腿の上に、確かな重みを預けられた。   ​「悠優……!は……!?」 「昨夜、ちょっと遅かったから……少しだけ」   ​ 悠優は賢太郎の膝の上で目を閉じて、ものの数秒で、穏やかな寝息を立て始めた。 「…これはもはや、気絶では…………」  賢太郎は小さく呟いて、続いてそれもそうか、と頷いた。彼の忙しさは、秘書の自分が誰よりも知っている。その上家に帰ってからも、自分を含め4人の妻を彼は等しく愛してくれる。    ​ 規則正しい寝息。無防備に震える睫毛。  この膝の上に乗る神凪悠優を、今この時間、自分だけが独占しているという事実に、賢太郎の理性が音を立てて溶けていく。  賢太郎はふと微笑んで、目元にかかった前髪をそっと払った。   「……卑怯な人だ」  ――――決して、全てをただ一人に委ねたりしないくせに。    ​ 賢太郎は、震える手でスマートフォンを取り出した。    秘書としての仕事用端末ではなくて、プライベート用のスマートフォン。その中で、大和の提案で作られた、悠優を愛する妻たちだけが所属するグループ。   ​ [ BIG LOVE♡ゆ]  この馬鹿全開のグループ名を変えろと何度燈に怒鳴ったことだろう。画面には、大和、燈、拓海、そして自分のアイコンが並んでいる。    賢太郎は息を殺し、膝の上で眠る悠優の寝顔をカメラに収めた。窓から差し込む午後の光が、悠優の肌を透き通るように照らしている。我ながら、よく撮れた。 ​ 賢太郎はスイスイと慣れた様子でスワイプした。  自分だけに与えられたこの幸福を、あえてこの「チーム」に晒す。それは、彼らもまた自分と同じ「共犯者」であることを再確認する儀式だ。 ​ 『悠優を寝不足にしたのは誰だ?』  送信。  直ぐに全員分の既読が付いたのを確認して、賢太郎はこの後の展開を想像して思わず口の端が上がった。添付画像に悠優の寝顔を選び、添えるメッセージを入力する。 『ありがとうございます』   ​ 送信ボタンを押すと、即座に既読がついた。  そして怒涛の勢いで返信が届き始めた。 ​『あああああああああああ!!!!!!』  ――燈だ。こんなの4通も送ってくるな。 『尊い!!推しが尊い!!!世界が明るい!!!!』 『燈うるせぇ』 『燈、今日はこの後雨だよ』 『賢太郎くんの自撮りもください!!!』 『キモ』 『たくみくんヒドイ!!!』 『スーツにヨダレ垂らされないように気をつけてね』   「ふふっ……」  大和の相変わらずな態度に思わず笑うと、その振動が不快だったのか、膝の上で優が僅かにむずがった。 『悠優くんのヨダレ飲みたい』 『燈ヤバい』 『え?みんな飲んでるでしょ悠優くんのヨダレ』 「な、…………ヨダレという表現をやめろ、っと」 『じゃあなんていうの!?唾液!?よりエロイ!!みんな飲んでるんだね!?』 「……………………………………」 『おい皆黙るなよ!詳しく!詳しく!!』 ​ 膝の上の重みが増した気がした。  悠優が寝返りを打ち、賢太郎の腹部に顔を埋める。再びスマホを見ると、大和から「w」の乱用と超有名電気ネズミが爆笑しているスタンプが届いていた。大和が腹を抱えて爆笑しているところなんて見たことないが、大和はよく草を生やすし爆笑スタンプをやたらたくさん持っている。    ああ、本当に。  この箱庭は、なんて心地よい狂気。    賢太郎は、腹部に埋められた見た目よりも硬い髪に覆われた小さな頭をそっと抱き締める。箱庭の主の香りを胸いっぱいに吸い込んで、未だ燈が騒いでいるスマートフォンの電源を落とした。

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