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赤面記念日

「ただいま」  夕方の冷えた空気を温めてくれるのは、いつだって愛する旦那様の声だ。 ​  悠優と賢太郎が帰宅した神凪家のリビングは一気に賑やかになる。  数時間前、玄関で絶望の淵にいた燈はすっかり元気を取り戻し、悠優の隣で今日あった出来事を楽しそうに報告している。賢太郎が明日の準備をする無機質な音に加えて、キッチンでは拓海が夕飯の仕上げに取り掛かり魚が焼ける匂いがリビングが包まれていた。    大和はキッチンでその光景を眺め、静かに微笑んだ。燈は元気。玄関の花も無事に活けられ、悠優は帰ってくるなり気付いて嬉しそうに燈の頭を撫でていた。拓海への口止めも済んでいる。 (――よかった)    大和はホッと胸を撫で下ろして、お茶とお煎餅をトレイに乗せ、軽い足取りでリビングへと向かった。 ​ ​ 大和は入浴を終えて寛ぎモードの悠優の前に袋に入ったままのお煎餅と冷えた麦茶を置く。ありがとう、という柔らかな声に微笑みで応え、悠優の隣に座って自分の分のお煎餅を手に取った。  大和は食べやすいように小さくしよう、まずは半分と指先に力を込める。   ​ ――バキッ。   ​ 大和の想像では、真っ二つになるはずだった。しかし目の前のお煎餅は到底真っ二つとは言えない無様な格好をしている。現実は非情だ。お煎餅は斜めに割られ、三日月のような細い破片と不恰好な塊に分かれている。   「………………?」    大和は小さく小首を傾げて、その大きい方の塊に再び指をかけた。   ​ ――パキ。   ​ 今度はお上品な一口サイズと、虫食いの葉のような形に分かたれた。   「………………………………」    大和は深く首を傾げた。  ひとまず指先にあるお上品な一口サイズのお煎餅を口の中に放り込み、ボリボリ咀嚼しながら虫食い煎餅を割る。やはり真っ二つにはならなかった。大和は今度は反対側に首を傾げた。 ​ それを見て、隣で丸いお煎餅をバリバリと豪快に食べていた悠優が耐えきれずに吹き出した。悠優はキョトンとした大和の顔を見て、更に笑う。   「…ふふ、ごめ、」 「だって綺麗に割れると思ったんだもん……」 「大和ってさ、意外と鈍臭いよね。ふふ、かわいいねぇ」    ​ ――かわいいねぇ。  ――――かわいいねぇ?    「………………………………は?」  手に不格好なお煎餅を持ったまま、大和はフリーズして、そして、  ――まるで、漫画のようにボフッと一気に赤面した。 ​ ​ 数秒の沈黙の後、大和の白い肌が、耳の先から首筋まで、見る見るうちに茹で上がったように真っ赤に染まっていく。  あ、う、と意味のない母音をぽろぽろと溢しながら視線を彷徨わせて、今度はパクパクと口を開閉して、そうしてようやく言葉を紡いだ。   「かっ、かわ……?」    そんな彼の無防備すぎる反応を間近で浴びて、今度は悠優の顔がみるみる赤くなっていく。  ――え、今僕何て言ったっけ?  自分の放った言葉を改めて反芻する。そんな変なことは言っていないと思う。思うけど、だけど。   「………………あ」    悠優の顔にも、一気に血が昇る。あまりに当たり前にポロっと出た自分の言葉がどれほど甘ったるいものだったか、いや当たり前にポロっと出たからこその甘ったるさをを今更ながらに自覚し、視線を逸らして口元を隠した。   「え、あ、ごめん。……そんな変なこと言ったつもりなかった、僕。……いや、だって、本当にそう思っ……いや、なんかごめん……」   ​ 二人して顔を真っ赤にして黙り込むという、あまりにも糖度の高い光景を前に、密かに事の顛末を見守っていた周囲は絶頂に達していた。 「ひ、ひぃ……尊い……泣きそう……」 「その頭の悪い単語は使いたくないが、同意しかない…」 ​「おい燈、動画撮ってなかったのか…」 「心のREC…」 「出力できねぇじゃねーか……」 「無能が…………」 「すみません、僕だけのお楽しみということで…」 「絶許」    拓海のチョップが燈の脳天を直撃したが、燈は両手を合わせて二人を拝むのに夢中でそんなことは些末事のようだった。   「たくみくん、お赤飯、お赤飯炊かないと」 「何でだよ」 「赤面記念日……」 「旦那様が世界で一番尊い記念日だ」 「賢太郎、IQ5か?」 「いや違うな、悠優と大和が世界で一番かわいい記念日だ」 「IQ2か?」 「なんでもいいからお赤飯だよぉ!!」    マジで泣き出しながら小声で叫んだ燈の言葉は、拓海の「もう白飯セットした」という無情な一言で却下された訳だが。 ​ ――彼らの間に、「悠優の取り合い」は起こらない。    一人が愛されれば、それが幸せ。客観的に見れば異常で、けれど彼らにとっては、これが「幸せ」の形。    神凪家の夜は、どこか歪な甘さを帯びて、どこまでも平和に更けていくのだった。

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