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約束の残骸と、トマトの甘み

 土曜日の夜、喧騒に沈む繁華街。  宮尾は洒落た創作居酒屋の隅で、ハイボールを胃に流し込んでいた。向かいに座るのは、都合の良い「女友達」だ。丁寧にメイクされた目元を潤ませ、しっとりと自分を見つめてくる。中身のない世間話を転がしながら、テーブルの下では慣れた様子で脚を絡ませてくる――露骨な誘いだ。  宮尾はグラスを空にすると、彼女に手を差し出した。 「出ようか」  尖ったネイルが施された手を引き、ネオンの海を歩く。辿り着いたホテルの一室で、女は飢えたような勢いで唇を寄せてきた。途端に広がるのは、口紅の苦い味だ。  舌を絡ませ、上顎をなぞる。だがその瞬間、脳裏を掠めたのは、あの男の厚い舌の感触と、上品な茶の風味だった。 (……なんで、あいつを思い出してるんだ)  宮尾は振り払うように女の唇を貪った。だが、ベッドに倒れ込み、ぐずぐずに蕩けきった女の顔を見た途端、きつい香水の匂いが鼻についた。  ――違う。  急速に熱が引いていく。 「ごめん。気分じゃないから、帰る」 「え、なんでよ。今いい感じだったじゃん」 「……悪い、行くわ」  女へのフォローも一切せず、ホテル代を置いて部屋を出る。様々な匂いが混じり合う繁華街の夜風に吹かれながら、宮尾の思考は何を考えているのか底の知れない、あの男に占拠されていた。  ◇  い草の香りが微かに漂う和室。  大きなローベッドの上で、二人の男がしどけなく身体を絡ませていた。いつも完璧に着こなしているスリーピースは見る影もなく乱れ、ワイシャツの裾が宮尾の滑らかな肌を無防備に晒している。 「はっ……、……はあ、」  湿った吐息が、設えの良い部屋の天井へと消えていく。宮尾は吉永の首に腕を回し、縋るようにその唇を塞いだ。柔らかい舌を卑猥に絡ませ、夢中で腰をよじると、上に覆い被さっている男が小さく笑いを漏らす。 「気持ちいいんだ?」  揶揄うような吐息が耳を打つ。吉永が腰を動かして、二人の硬くなった熱を擦り付け合わせた。大きな手で敏感な部分をを握り込み、指先で先端を執拗に弄ばれると、宮尾はたまらず声を上げた。 「いいから、早くしろよっ……、あ!」  宮尾が息を詰め、爆ぜる快感に身を任せた瞬間、吉永が強く腰を押し付けた。腹にかかる、生温かい欲望の証。  賢者タイムが訪れる間もなく、吉永は甲斐甲斐しく宮尾の身体を拭い、まるで壊れ物を扱うように服を着せてくる。 「気持ちよかったよ、宮尾くん」  頬に落とされる甘いキス。女のように扱われている自覚はある。それでも、「契約のためだ」という建前が、宮尾をこの泥沼に留まらせていた。  初めて吉永の家に飛び込みで訪問した日から約一か月、すでに何度もこの家を訪れている。二回目の訪いでは連絡先を教えてくれたし、三回目には銀座の高級菓子店のお茶請けが用意されていた。しかし、例の「空白の土地」に関する話は全く進まない。吉永は嬉しそうに宮尾を招き入れると、世間話に興じ、湯飲みが空になると、当然のように宮尾を寝室へといざなう。  吉永は男が好きなのか。それにしても、初対面から身体を求めるなんておかしいのではないか。契約のために拒否できないと分かっていて、戯れているのか。それにしては、まるで恋人に接するかのような甘ったるい態度は何なのか。  どんなに気難しい客の思考も完璧に読み取ってきた宮尾だったが、答えの出ない駆け引きに頭を悩まされ続けていた。  ◇  ある天気の良い昼間。宮尾が吉永の家を訪れると、インターホンを押しても反応がなかった。アポイントの時間を間違えたかと首をかしげると、重厚な門扉が少しだけ開いていることに気づく。  何とはなしに中に入り、人の気配がする方へ足を向ける。よく手入れされた庭先、青々と茂った畑の真ん中に吉永はいた。  宮尾が声をかけると、吉永が「来たね」と言って振り返る。腕に抱える籠の中には、色鮮やかなトマトやエンドウ豆が詰まっていた。 「すごい。菜園ですか」 「素人の趣味だよ」  そう謙遜しながらも、野菜の葉を一枚一枚確かめる吉永の顔は楽しそうだった。しばらくその作業を、宮尾は縁側に腰掛けてのんびりと眺めていた。膝の上に猫が寄ってくる。この家の黒ぶち猫「アンリ」とは、すっかり仲良しだ。今もアンリは、宮尾の膝の上で腹を見せてひっくり返っている。 「待たせてごめんね。良かったらうちの採れたての野菜、食べていってよ」 「いいんですか」  吉永は「もちろん」と言うと、縁側から居間へと宮尾を招き入れた。  初めて足を踏み入れる吉永家の居間は、和風建築をベースに北欧風のインテリアが合わさった、センスの良い空間だった。  磨き上げられたテーブルで出されたのは、冷たい煎茶と、トマトとしらすのサラダ。早速口へ運ぶと、トマトの濃厚な甘さに衝撃を受けた。 「めちゃめちゃおいしい。これ、店で買う高級トマトも目じゃないですよ」  宮尾が思わず口調を崩して本心から称賛すると、吉永は照れ臭そうに笑った。 「他には何を育てているんですか?」 「夏場はオクラとか水ナスとか。キュウリも枝豆も採れるから、つまみには困らないよ」 「へえ、すごい。農家さんになれそうですね」  宮尾の言葉に、吉永は一瞬目を丸くした後、寂しそうな笑みを浮かべた。 「そんな大層なものじゃないよ」  室内に、ふっと沈黙が落ちる。宮尾は部屋を見渡し、間続きの仏間に目を向けた。仏壇には若い夫婦と、一人の老人の遺影。  宮尾は、吉永の家を特定するまでの聞き込みの中で、この家にあった過去を推察していた。あのあばら屋の近隣住民たちの言葉が蘇る。 『吉永さんの家は本当に不幸だった』『一人息子とその奥さんを失ってから、おじいさんはおかしくなっていった』  宮尾の視線に気づいた吉永が、切ない笑みを零しながら、おもむろに語り始めた。 「俺が十二歳の時に、事故で親が死んだんだ。宮尾くんは、とっくに知っていると思うけど……」  宮尾はとっさに頭を下げた。 「個人的な事情に勝手に踏み込んでしまい、申し訳ありません」 「気にしないで。君の仕事上、いつかは知ることだっただろうし」  両親を亡くした吉永は、祖父に育てられることになった。かつてはおおらかで優しかった祖父。しかし、たった一人の息子を突然亡くした彼の心は、その悲しみに耐えられなかった。年々性格は苛烈になり、一日中酒を飲んでは、たわいもないことで吉永に当たり散らす。そのうち軽い痴呆とみられる症状も出てきたが、十代の少年だった吉永にはどうすることもできなかったし、助けてくれる親類もいなかった。 「俺が大学生の時、祖父は突然倒れて運ばれた。末期のガンで全身に転移していて、二ヶ月であっという間だったよ。呆気なかったな」  吉永の語り口は淡々としていて、その声に悲しみも怒りも一切みられなかった。宮尾は、その穏やかな仮面の奥にあるものを知りたいと思い、注意深く彼を見つめた。 「……俺が大きくなったら、あの土地で畑をやろうって、両親と祖父と約束していたんだ」  あの土地は、かつて豪農だった吉永家の畑の一部。今は三百坪の「空白」として残された思い出の地だ。十二歳での別れ、変貌した祖父との生活、そして遺産だけを狙う親戚たち。  まだ若く、知識もなかったであろう吉永が、どれほどの重圧であの土地を守り続けてきたのか。宮尾には、それが痛いほどわかった。 「今は祖父からの遺産でなんとかしているけど、一介の会社員の俺にあの土地を一生守ることはできない。でも、親戚に取られるのも、切り売りするのも嫌なんだ。……バカみたいだろ。終わった約束に囚われて、何も生まない土地に毎年莫大な金額を垂れ流している」  自嘲する吉永の横顔は、初めて見るほどに脆く、疲弊していた。  宮尾は、営業マンとしてではなく、一人の人間として言葉を選んだ。 「バカじゃないです。どんな土地にも、それぞれの事情と、所有者さんの想いがある。その思いを形にするのが、俺の仕事です。……吉永さん、不動産には無限の可能性があるんですよ」  売れ売れの一点張りしかできない不動産屋は三流です、と言い放つ宮尾。吉永は黙って宮尾の言葉に耳を傾けている。 「ただ、吉永さんとご家族の想いを大切にするあまり、あの土地を手放さざるを得なくなってしまうのは一番避けたいです。大事な土地を切り売りしないためにも、知識を持って動かさなければいけませんよ」  プロとしての切実な言葉。宮尾の目はどこまでも真摯で、真っ直ぐに吉永を射抜いていた。  吉永は、十数年の呪縛から解放される予感に、指先が微かに震えた。この男になら、預けてもいいのかもしれない。  顔を上げて、少し息を吸ってから言う。 「……宮尾くんは、あの土地をどうしたらいいと思う?聞かせてよ」  宮尾は一瞬目を見開いた後、今日一番の、嘘のない笑顔を見せた。それは武器として磨かれた営業スマイルではなく、一人の人間としての素顔だった。 「次は資料を作ってから伺います。期待しててください」  仕事に一直線な、あまりに彼らしい回答。  吉永はこらえきれず、腹の底から笑い声を上げた。張り詰めていた空気が、陽だまりのような温かさに溶けていく。  二人の足元では、黒ぶちの猫が幸せそうに喉を鳴らしていた。

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