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聖域の裡に踏み込む

 関東は先週梅雨入りし、連日しっとりとした雨が降り続いている。  二人の地元にあるターミナル駅から徒歩三分、天を突くタワービルのワンフロア。宮尾のオフィスにある会議室で、二人は「空白の土地」について資料を囲んでいた。 「今後の固都税の上昇率を計算しました。十年後には、これだけ跳ね上がります」 「なるほど、これが現実になるとまずいね。計算式を詳しく教えてくれる?」  論理的で、打てば響くような吉永の反応に、宮尾は確かな手応えを感じていた。  その時、室外が騒がしくなり、扉が勢いよく撥ね飛ばされた。そこに立っていたのは、成金趣味の派手な服を着た、ぎょろりとした目の老婆だった。 「泉水(いずみ)くん!山田さんから聞いたわよ。コソコソと不動産屋を嗅ぎ回らせてるんですってね!」  老婆は宮尾を指差し、金切り声を上げた。 「こんなチャラチャラした男に騙されて、土地を売り払う気なのね!なんて浅ましい!」  宮尾は努めて穏やかな声で、老婆を制した。 「奥様、吉永様とはどういうご関係で?」 「私は吉永孝之(たかゆき)の妹よ!!」  状況はすぐに見えた。吉永の祖父の妹であるこの女は、例のダミー住所にあるあばら屋の近隣に住む山田という知り合いから連絡を受けた。曰く、あの空き地の件で話を聞きたいという不動産屋がやってきた、あそこを遂に売ることにしたのか、と。  女はその話を聞いて、吉永が親類の許可もなしにあの土地を勝手に売ろうとしているんだと考えた。そして、山田から不動産会社の情報を聞き出して、このオフィスまでやってきた。  女は甲高い声で叫び続ける。 「泉水くんは、あんなに良くしてもらったお祖父さまの思いを踏みにじる気なのね!先祖代々受け継いできた土地を売ってしまうなんて、とんでもないわ。なんて非常識な子なの!」  罵声を浴びせられる吉永の顔が、みるみる青白くなっていく。それを見た瞬間、宮尾の中で静かにスイッチが入った。 「奥様は、あの土地の持ち分がおありですか?」  口を挟んだ宮尾に、女がいきり立つ。 「急に何よ!」 「所有権の話です。あの土地は百パーセント吉永様のものです。これは登記という公簿に記載された、絶対的な事実です。ご存知ですよね?」  女の勢いがしぼんでいく。 「……だから何だと言うの。私は吉永孝之の妹なんだから、あの土地に関して意見する権利があるの!」 「いえ、意見する権利は一切ありません」  吉永が前のめりですっぱりと否定するので、女は一瞬呆けた顔をした。そして顔を赤黒くして叫ぶ。 「あんたみたいな詐欺師に何がわかるのよ!私は親代わりになってこの子を世話してやったのよ。それなのに相談もなしに話を進めるなんて……この人でなし!」  宮尾は、全身の血がすっと下がっていくのを感じた。体温が上がるが、頭は不思議と冷静だ。唇が冷ややかな笑みの形を作る。 「奥様、いいですか。不動産の世界において、あなたの感情や親族の情なんて一円の価値もありません。登記簿の権利部を見てください。そこには『吉永泉水』という名前しか載っていない。これが世界のルールです。 所有権を持つ彼が何をしようと、外野のあなたが口を出す法的根拠は欠片も存在しないんですよ」 「な、なによその言い方。この人おかしいわよ。泉水くん、あなたからも言いなさいよ!」  矛先を向けられた吉永を遮るように、宮尾は一歩前に出た。 「吉永さんが受け継ぐはずだったアパート数棟、あなたが異議を唱えて強引に自分のものにしたそうですね。情に訴えて、相続放棄を迫ったのか。やり方は知りませんが……。これ以上、彼から何を奪えば気が済むんですか」  いつだってにこやかで人当たりの良い彼が、曲がりなりにも客相手にここまではっきりとものを言うのは初めてだった。しかし、宮尾の心はどこまでも凪いでいた。 「毎年数百万の固定資産税を、泥水を啜るような思いで彼が一人で払い続けてきた間、あなたは一円でも助けてくれたんですか?」  女の顔が白くなる。その皺の寄った頬が、小さく震えている。  宮尾は打って変わって、営業用の満面の笑みを浮かべた。 「権利を主張するなら、まずはその『情』とやらを果たしてからにしましょうね。……さあ、お茶を出しますから、続きは別室で」  未だにぶつぶつと何かを言っている女の背を押して、宮尾が部屋を出ていく。  一人残された吉永は、住処を失った猫のような、所在ない目をしていた。  ◇  数日後。宮尾が吉永の家を訪れ、先日の続きの話をしようとしたところ、吉永が力無く遮った。  その顔に表情はなく、鉄壁の仮面で隙なく覆われているようだった。 「あの土地を動かすのは、やめるよ」  宮尾は目を見開いた。信じられない思いで問う。 「どうしてですか」 「あの場所は、空白のままで在るのが一番いいと思ったんだよ」 「意味がわかりません。またあの女性から何か言われたんですか?」  黙ったまま答えない吉永に、宮尾は苛立ちをぶつけた。 「ここまで来て、俺を部外者扱いする気ですか!」  吉永が顔を上げた。その目は、迷子の子供のように不安げに揺れていた。  事情は酷いものだった。あの親戚の老婆が吹聴したのか、疎遠だった親類一同から大量の連絡があり、吉永を「悪魔」と罵り、あるいは利益を分けろと群がってきたという。 「祖父が死んだ時と同じだ。あの土地のことになると、皆おかしくなる。……何もしないのが一番いいんだ」  そう溢す吉永は、疲れ切って萎れている。その様子を見ていると、宮尾の頭の奥がグツグツと湧き上がる気がした。 「何言ってるんですか。あの土地を放置したら、あなたは早々に破産ですよ」  血の底を這うような低い声。敬語すら剥げ落ちた。 「あんたのそれは、ただの問題の先送りだ。自己犠牲なんて、美しくもなんともない。あの親戚たちが、あんたが一番辛い時に助けてくれたのかよ」  老婆の前であれほど冷静だった宮尾は、今、目の前の男に対して荒れ狂っていた。  吉永が宮尾を見つめている。その目は、全てを諦めた目で、けれど救いを求めている目だった。  宮尾が絞り出すように呟く。 「俺は、土地に振り回されて人が不幸になるのを、もう見過ごしたくないんです」  装飾を捨てた宮尾の本音は、吉永の凍てついた心を、激しく突き動かした。  開け放たれた窓の外では、重く湿った六月の雨が、音もなく街を灰色に染め上げ続けていた。  ◇  宮尾が高校三年生の頃のことだ。  父親が長年貯めた蓄えを新築アパート投資に投じ、派手に失敗した。建設業者が、工事の半ばで資金を持ち逃げしたのだ。計画を持ってきた不動産会社は「うちは紹介しただけだ」と一点張り。払い込んだ建設費用は戻らず、銀行は無慈悲にローンの返済を迫る。未完成の工事現場からは一円の家賃も入らず、家計は一気に底を突いた。  宮尾は志望校を国立一本に絞り、学業の傍らアルバイトに明け暮れて、奨学金でなんとか大学を卒業した。その過程で両親の仲は修復不能なほどに冷え切り、母は家を出ていった。  入社した不動産会社で、宮尾は文字通りなんでもやった。必要な資格を片っ端から取得し、誰もが嫌がる飛び込み営業を率先して引き受けては数字を作った。地主からは「死神」と罵られ、文字通り塩を投げられたこともある。  実績を上げるごとに社内の敵は増え、「案件を横取りされた」「あいつは金のことしか考えていない」と陰口も絶えなかった。  それでも宮尾は、粛々と己の職務をこなし続けた。己の数字にはならない仕事も、自社の方針に合わないと判断した案件を他社へ繋ぐような、上司に知られれば即刻懲戒ものの「裏の仕事」も数多くこなしてきた。  すべては、不動産という魔物に人生を食い荒らされる人間を、これ以上生み出したくない一心からだった。

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