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夏草への祈り、愛の所有権

 ブレーメン通りから脇道に入ったところにある、珈琲の美味い喫茶店。店の奥のテーブル席で、宮尾と吉永は向かい合っていた。  二人の手元には、数字で埋め尽くされた膨大な資料。男たちは珈琲が冷めるのも忘れ、真剣な顔で額を突き合わせていた。 「こちらが最新の収支計画です。一括借上げを想定しているので、実質利回りはこれくらいですね」 「なるほど。今回の計画の場合、サブリースにする旨味はあまりないよね?」 「おっしゃる通りです。運営を丸投げにしない場合の三十年間の収支計画表がこちら。考えられるリスクは――」  本格的に商談に入ってから、宮尾は吉永の理解の速さに驚いていた。素人とは思えぬほど宮尾の説明を咀嚼し、鋭い質問を飛ばしてくる。特に数字に関しては隅々までチェックが入るため、計算間違いをしていないか、宮尾は内心冷や冷やするほどだった。 「それでは次回、修正した資料をお持ちします」  打ち合わせが終わり、宮尾が席を辞そうとすると、不意に吉永に手を掴まれた。  言葉はない。ただ、水晶玉のような瞳でじっと見つめられる。それだけなのに、宮尾はどうしてもその手を振り払うことができなかった。  日が沈みゆくメイン通りを、二人は無言で歩く。賑わう通りの喧騒が遠く聞こえた。石畳を歩きながら、この後起こるであろうことに期待を覚えている自分に、宮尾は密かに毒づいた。  重厚な門構えを潜り抜け、薄暗い玄関に入った途端、強い力で抱き寄せられた。重なった唇からは、店を出る時に一気に飲み干した珈琲のほろ苦い味がした。  身体を絡ませたまま寝室へとなだれ込み、性急に服を脱がされる。スーツを一枚ずつ剥かれるたびに、心の外装まではぎとられていく気がして、宮尾の心臓は高く跳ねた。  ワイシャツのボタンを外され、上半身が露わになる。吉永は熱に浮かされた目で宮尾の身体を見つめた。その視姦するような粘度の高い視線に当てられ、宮尾の肌は粟立つ。  吉永の指先が、胸元を滑るように触れた。 「……触ってほしそうにしてるね」  唇を笑みの形に歪め、いたずらに胸筋を這う指。もどかしい感触に、宮尾は早々に余裕を失った。 「はやく、触れよ……!」  瞬間、吉永の指が、期待に震える突起に触れた。捏ねるように弄られ、反対側を舌でねっとりと嬲られる。宮尾の喉から、押し殺した悲鳴が漏れた。 「ここ、すごく敏感になった」  吉永が嬉しそうに呟く。宮尾は羞恥に顔を赤く染めた。この男が見つけるまでは、意識にも上がらないただの飾りだったはずなのに。吉永に触れられるたび、全身が剥き出しの神経に変わっていくようだった。  無意識に両手が足の間に伸びる。だが、それに気づいた吉永が、悪戯を見咎めるように遮った。 「勝手に触っちゃだめだよ」  なぜ止めるのか。宮尾が潤んだ瞳で見上げると、彼は「かわいいな」と低く笑った。 「自分でやるのは禁止。気持ちよくなりたかったら、ちゃんと言って?」  胸の先端への刺激は止まらない。熱い舌で転がされ、強く吸われるたび、腰の奥に重い熱が溜まっていく。宮尾はなりふり構わず叫んだ。 「ぁ、もっと……もっと、触って……っ!」  求めていた刺激がようやく齎される。吉永の大きな手が熱くなった性器を包み込み、あやすように上下に扱いた。目尻から勝手に涙がこぼれ落ちる。宮尾は目の前の男に縋りたくなって、胸元で動くその頭を必死に抱きしめた。 「かーわいいなあ。いつから女の子抱いてないの?」  吉永が何かを囁いているが、快感の渦に呑まれた宮尾の耳には届かない。  上下からの容赦ない刺激に、宮尾は真っ白な高みへと投げ出された。  それから、吉永が一回出すまでの間に、宮尾は二度もいかされた。全身が汗でぐっしょりと濡れて気持ちが悪い。吉永の勧めに甘え、シャワーを借りることにした。  湯を浴びて汗を流しながら、宮尾は自分が吉永との「行為」に抵抗を覚えなくなっている事実に気づいた。初めは何を考えているか読めなかったが、今ではあの温度の高い瞳が求めているものを理解できてしまう。最中の執着に満ちた目を思い出し、宮尾は慌てて頭を振った。  ふと、視界の端にシャンプーボトルが映る。  ――女物だ。  元カノが愛用していたものと同じブランドだった。一度気付くと、洗面台の高級なヘアオイルやスキンケア用品も目につく。どれも手に取りやすい場所にあり、埃ひとつ被っていない。  宮尾は、浮かれた頭が一気に冷めていくのを感じた。服を着て、無言で家を出る。  吉永が自分に好意を抱いていると感じていたのは、すべて勘違いだったのか。初対面で身体を求めてくるような男だ。そもそも客と寝るなんて自分らしくもない。  宮尾はぐるぐると渦巻く思考を振り切るように、駅への道を早足で歩いた。  ◇  梅雨が明け、強い陽光が街を焼き上げる日々。吉永は解けない疑問に頭を悩ませていた。  最近、宮尾の様子がおかしい。家に呼ぼうとしても外のカフェを指定され、世間話を持ちかけても鉄壁の営業スマイルで返される。打ち合わせが終われば、次のアポがあるからと風のように去ってしまう。  商談自体は順調だ。宮尾は優秀だった。こちらの意図を汲み取り、周到に道を用意してくれる。糊のきいた上下に隙のないヘアセット。一見、押しの強い不動産屋の典型だが、その芯にある真面目さと熱さを吉永は知っている。だからこそ、多くの客に選ばれているのだと納得もしていた。  さて、どうしたものか。吉永は考えた。自慢ではないが、自分から誰かを追い求めた経験などほとんどない。これまでは宮尾の「ちょろさ」と「仕事への誠実さ」を逆手に取って距離を縮めてきたが、今の彼には通用しないようだ。  自分の心を削り、言葉を与える男。彼が自分に与えてくれたように、自分も彼に何かを返せるだろうか。  吉永は膝に抱えていた黒ぶち猫のアンリを座布団に戻すと、スマホを手に取った。 「宮尾くん。次の打ち合わせの日時なんだけど……」  ◇  数日後。定番となった喫茶店で、宮尾は慇懃な口調で今後の計画を説明していた。視線は資料に固定され、吉永と目が合うことは一度もない。  説明が終わり、宮尾が席を立とうとしたタイミングで、吉永は声をかけた。 「この後時間はある?宮尾くんに来てほしい場所があるんだけど」  宮尾は一瞬眉を上げたが、すぐに外向きの笑顔を貼り直して「もちろんです」と答えた。  吉永の車を十五分ほど走らせて辿り着いたのは、幹線道路のすぐ近く、住宅街の中に突然現れる空白地帯。 「久しぶりに来たな」  吉永が感慨深げに呟く。宮尾は隣に黙って並んだ。広大な敷地は、夏を迎え緑が勢いを増している。青草が堂々と茂り、天に向かって葉を伸ばしていた。 「ここ数年は管理も任せきりで、全然足を運んでいなかったんだ」  そう語る吉永の表情は穏やかで、以前のような迷子の子供の影はなかった。  しばらく二人は、生温く青臭い風に吹かれていた。背中を汗が伝う感触も、不思議と心地よい。 「これからは、別の担当者さんが付くんでしょう?」  吉永が小さく言う。  そう、この土地が次のステージに進むにあたって、主たる担当者が変わることになった。ここには賃貸マンションが建つ計画が進んでいる。宮尾は用地仕入れが担当なので、ここからは専門の部署が指揮を執ることになるのだ。  宮尾が笑みを浮かべて淡々と言う。 「私が信頼できる担当者を選びましたので、心配なさらないでください。きっと何の憂いもなく完成まで進むはずです」  その言葉を聞いた吉永は首を振り、宮尾の横顔を見つめた。その水晶のような瞳は、今、かつてないほど切実な色を映している。 「宮尾くんがいなければ、この土地には何の思いも結実しないまま、いつか切り売りされていたと思う。全部君のおかげだよ。……ありがとう」  真摯な謝辞に、宮尾は目を見開いた。久しぶりに間近で見る吉永は、泣き出しそうで、それでいて晴れやかな顔をしていた。  吉永が一度深呼吸をし、意を決したように口を開く。 「宮尾くん。これからも、俺の隣にいてほしい。この土地が一年後、十年後、数十年後どうなっていくのか……一緒に、見守ってくれないか」  宮尾は驚愕した。それは、紛れもないプロポーズに聞こえた。 「……でも。吉永さん、彼女がいるんじゃないんですか」  吉永は一瞬呆けた顔をした後、合点がいったように笑った。 「今は、いない。……宮尾くんと同じだよ」  すべて、自分の取り越し苦労だったのか。この瞳が語る熱を、信じても良いのか。  吉永が一歩、距離を詰めた。目と鼻の先で、優しい光が宮尾を包み込む。 「で、どうかな。返事をくれる?」  宮尾は視界が滲むのを自覚した。何度も瞬きをして、精一杯の笑みを作る。 「……わかりました、俺でよければ。吉永さんが血迷って変な不動産屋に唆されても、俺が全部なんとかしますから」  吉永さん、ちょろそうですし。そう言って笑う宮尾を、吉永は感極まった様子で抱きしめようとした。宮尾は全力でそれを回避する。 「待ってください、ここは支店のエリア内ですよ!誰が見てるかわからないんだから」  不満げに唇を尖らせる吉永を見て、宮尾は小さくため息をつき、顔を背けて言った。 「……うち、すぐそこだから」

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